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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第1章 >3 教主補 出口日出麿よみ(新仮名遣い)
文献名3大本入信よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-06-13 22:35:15
ページ971 目次メモ
OBC B195402c8132
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本文の文字数4185
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本文  元男が大本に入信したのは、一九一九(大正八)年の高等学校三年生のときであった。二月のある日、親友岩佐護一の下宿で、同じ六高生で大本に入信した浜田有一から、「大本時報」を見せられ、その説明をきいて参綾を決意した(上巻四二五頁)。
 二学期の試験がすんだ三月末(当時高等学校は九月から第一学期がはじまっていた)、家へは京阪地方へ旅行するといってでかけ、三月三一日に綾部へついた。大本の受付をたずねると、受付子の背後から長髪・黒紋付の人が、丹波弁まるだしでしたしげに声をかけた。この黒紋付の人が出口聖師であった。
 元男は綾部についたその日から気分がかわってしまい、心におもいあたることばかりで、じつに感きわまって泣いた。岩田久太郎から鎮魂をうけ、幽斎室で大発動をした。一〇日間あまりの綾部滞在は、元男の魂を根底からゆりうごかした。「歓喜はじめて全身に湧きわが前期ここに了る」と「思ひ出の記」にのべられているが、いかにこのときの参綾が大きな感激であったかがわかる。
 入信の経路については、みずからつぎのようにしるされている。

私は立替が恐ろしいとか、地震、雷、火の雨とかが怖くて大本に馳せ参じたものでもなく、鎮魂にビックリして飛び込んだものでもなく、敬神尊皇報国とかの大文字に事新しく惚れ込んで感心してしまったものでもない。卒直にいへば、私は黄金万能、本末顛倒の現代に真から堪へられなくなった。もの心ついて以来極度に腐敗し切つてゐる現代に対して絶へざる失望と憤怒とは、欝勃として胸中に漲つてゐた。一方私は心霊問題については、平素から多少体験もあり、また調べてゐたこともあった。そしてどうしても現代一般の心霊学者の唱へてゐるやうな学説では満足することができなかった。イライラしたやる瀬ない心を抱いて、自力のみではどうしても解くことのできない生命の謎を何処かで解いてくれるものはないかと、長い間アチコチとさまよつてきたあげく、私は到々大本なるものにぶつかったのである。そして今までいろんなものに接し、数多くの宗教学説にも近寄ったが、この教ほど私の魂の底まで感激と法悦とを与へてくれたものは一つもなかった。

 元男は綾部からかえってからは毎日毎夜、立替えを論じて夜のふけるのもしらず、下宿へは時たまかえるだけで、たいてい学友の白石捷一の部屋で寝ていた。
 いよいよ三学期もすんで大正八年の六月に卒業試験がおわると、ふたたび綾部へとんでいって二度目の岩戸修業をした。最初の修業では尿が真黄色になり、口からはたえずきたない血のにごったようなつばをはき、いったんは非常にやせた。二度目のときも、岩戸のなかで白くねばったつばを多量にだしたが、これは多分、霊の幽体であったろうとものべられている。またその間、しばしば霊夢をみせられたという(「思ひ出の記」)。
 綾部からかえって七月に六高の卒業式をすませると、愛媛県新居浜の白石の家に一〇日あまりも滞在し、その間に地元の小学校の教師たちにたいして大本の講演をした。その後三回、四回とあいついで参綾し、九月には京都大学文学部(文学科)に入学したが、大学へはついに一日もゆかず、綾部へきて献労作業をした。はじめ田町の大槻藤太郎の倉の二階を借りて自炊生活をし、昼間は献労に、夜はお筆先の浄写にはげんだ。しばらくして第二宿舎の近松光二郎宅の一室にうつり、そこに大神様を奉斎した。一〇月には岩田久太郎の世話で「大本時報」の編集の手伝いをすることになったが、同じ月、伊吹山言霊踏査隊の一行にくわわり、翌大正九年四月には広瀬義邦にともなわれて紀州へ初宣伝の旅をし、熊野三山に参拝した。このころには連島の高見一家の人々も、元男にまねかれてつぎつぎに参綾・入信し、大神様を奉斎した。
 その間、京都支部の梅田信之宅や神戸支部などにも滞在して、お筆先の浄写や分類にうちこんだ。また出口聖師からは霊学についてくりかえし教えられ、元男は聖師を慈父のようにしたった。そのころのノートには、〝生まれきてかかる親しきなつかしき人に夢にも会はでありけり〟〝いざさらばながみ心のままにこそ吾は行くべし吾は死ぬべし〟などの歌がしるされている。また、大正八年の秋、綾部に滞在中の日記のなかには、つぎのように書かれている。

(十一月五日)……邪霊頭に充ちゐたりしが、ほとんど軽快となりぬ。ほとんど十日おきぐらいに引懸もどしにくるもののごとし……。(十一月十一日)……左耳のうしろの方に一人亡霊が鎮座ましまして、なかく退かぬ。(十一月十三日)  頭は亡霊の鈴成り、ムシヤムシヤ買喰ばかり。午後、会長室で御直筆の御筆先二冊拝読の栄を得た。霊気風を起し、有難涙がこぼれた。(十一月十五日)  白石の写した神諭を拝読してゐると、神床より霊がかかつてきて、神諭に対するいろいろの疑問も、その大略においてわかつてしまったやうな気がした。入信以来はじめての真空悟入的愉快を覚へた。床についても、神霊が絶えず前額にかかつてきて目がさへて長く眠れなかった(「思ひ出の記」)。

 一九二〇(大正九)年八月、大阪の「大正日日新聞」の経営が大本の手にうつると、大学へは休校の手続きをして、九月から編集局文芸部の一記者として新聞の手伝いをしていた。ところが翌大正一〇年二月に第一次大本事件がおこった。官憲の圧迫と社会の迫害ははげしく、新聞の経営は困難になった。元男は少数の信者とともに新聞の継続につとめたが、岡山の実家からのたびたびの催促で、五月には京都大学に復学し、九ヵ月にわたる新聞記者生活におわりをつげた。その後郷里の親戚一同からのしいてのすすめで、分家の高見政恵(三鶴の妹)と結婚式をあげ、京都に間借りして形ばかりの同棲をした。しかしそれとても義理にからまれてのことで性格にあわず、一九二五(大正一四)年には正式に離婚した。元男は政恵に非常に同情して、高見家の全財産を与えて生活を保障しようとしたが、政恵は二年後に病死した。連島の高見家の墓地には、元男によってたてられた政恵の石碑がある。
 当時京都大学には、六高時代の旧友をふくめて同信の友がおおく、元男はこれらの人々との交友をふかめて、一九二二(大正一一)年六月には、神業の推進を目的とした月日倶楽部を結成して雑誌「月日」を発刊し、論文を発表したり、また街頭宣伝にたったりした。筆先の浄写はその後もつづけられていたが、一九二一(大正一〇)年一〇月に、聖師による『霊界物語』の囗述がはじめられてからは、その印刷をまつ間ももどかしく、ゲラ刷をとりよせては夜を徹して物語の研鑚にはげんだ。また愛宕山・鞍馬山などの山中にこもったことなどもあって、霊的な修業がつづけられていった。反面寄席にもでかけたり義太夫・碁や将棋もたのしみ、また謡曲のけいこにもしばらくかよったという。
 一九二二(大正一一)年八月には、皇典講究所京都分所の講習会に出席したこともあったが、九月には大学を中退して京都市仁和小学校に代用教員として奉職した。もともと子供のすきな元男にとっては、のびのびとしてたのしい職場であったが、翌大正一二年四月には職をやめて京都大学文学部に再入学し、史学科にうつった。しかしやはり学校にはあまり出席せず、下宿はいつも留守がちであった。その行動はひょうひょうとしてとらまえどころがなく、友人にもわからなかったという。しかし筆先や『霊界物語』の研鑚、魂の修錬には終始一貫おこたることなく、神秘的な霊的能力が再三発揮されていた。おりにふれて亀岡・綾部をおとずれ、またエスペラントをまなんだのもそのころであった。大学では国文学と史学を専攻されたが、思うところあって一九二四(大正一三)年四月には正式に退学した。
 この年に聖師の入蒙があり、一一月には聖師が保釈出所して帰綾された。第一次大本事件後とかくしずみがちだった教団には活気がよみがえり、翌大正一四年の節分を期して、荒れはてた亀岡城趾に天恩郷の建設が槌音たかくすすめられた。元男はさっそくハッピ姿で献労奉仕にいそしんだが、一二月には綾部の庶務課に転じ、修業者・参拝者の受付や案内をつとめ、一九二六(大正一五)年四月には天声社の編集部に勤務した。「近藤照国」「ぼたえもん」「葛城五郎」「ゝゝ庵ゝゝ」などおおくのペンネームによって、「神の国」誌などにさかんに執筆がなされている。
 ひょうひょうとして風のごとく夢のごとく、いかにも脱俗そのものであって、高見元男はいつしか「フラ仙」とあだ名されたほどであったが、奉仕の少年や近所の子供たちからはとくにしたわれていた。しかしひとたび筆をとるや、思想のながれは泉のわくごとく、論文・説話・随筆・詩歌・句・寓話・童話など、自由かったつ、きわめて平易な文体をもって玄妙の真理が解明された。大学に入学以来、元男の机上には、つねに一冊の大学ノートと万年筆がおかれていて、興がのれば即座にペンをはしらせ、深淵な苦悩と思索が日々書きとめられていた。これら大学ノートは、一九一九(大正八)年より一九二七(昭和二)年ころまでの間にわたっており、その量は二〇冊をこえた。とくに一九二三(大正一二)年から一九二六(大正一五)年にかけての時期には、もっともおおく書きしるされている。その一部が一九五二(昭和二七)年「木の花」誌に「覚書」として連載され、はじめて世の光をあびたが、一九五六(昭和三一)年には『信仰覚書』として第一巻が天声社から刊行され、ついで第二巻・第三巻が刊行された。
 陶芸家として著名であり評論に一見識をもっていた北大路魯山人は、「大哲人の文章だ。今日、日本にこれだけのものを書ける思想家はないと思う。……まるで自分の毛穴からふきでる血潮をもって綴られたものといってよい文章で、その思索において、これほど真実が語られてある尊い文章を私はさいきん知らない」(「おほもと」昭和30・6)とその読後感をよせているが、まさしくこの期間は、実社会のなかで真剣になやみ、真剣に祈りかっ行じてきた、血のにじむような基礎的修業の時代であった。

〔写真〕
○第六高等学校在学当時(中央) 岡山市後楽園 p973
○大正8年3月に初参綾し9月からは奉仕作業にいそしんだ 大正9年元男のしるした天王平当番日誌 p975
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