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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第2章 >2 教団活動の確立よみ(新仮名遣い)
文献名3特別宣教よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ1053 目次メモ
OBC B195402c8224
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本文  開教七十周年を翌年にひかえた一九六一(昭和三六)年の教団は、「広く国内外の隅々まで神のみ教えを宣べ伝え、変転極まりない世相の中に悩み苦しむ人々を、一人でも多くお救いすることこそ教団全信徒に課せられた責務」であるとの自覚にたって、宣教の方針を「大本の神に目覚めることが全ての幸福のもとである」「人間を尊重して平和の社会を築く」の二つに集約し、「大本神のみ教にもとづき、真に人間を神の子として尊重し、信じあい愛しあうところに、始めて真の平和の社会を築くことができるのであります。このことがすべての幸福のもとであり、社会立直しの原理であります」(「愛善苑」昭和36・2)とその方向がしめされた。
 そしてすべての施策を宣教に集中するため開教七十周年特別宣教体制を確立し、本部・地方を通じ、人類愛善会・大本婦人会・大本青年会および教団の各機関が協力して総合一体的の運営をはかった。本部には、これらの各機関で構成される特宣本部をもうけ、それに幹部会・企画委員会・宣教問題協議会をおき、全国を北海道・東北・関東・東海・北陸・近畿・山陽・山陰・四国・九州の一〇地区に分け、それぞれに特宣連絡会議をもうけた。本苑・分苑・主会単位には特別宣教委員会をおき、実情に即して管下の分苑・支部・会合所を、活動しやすいいくつかの地区にまとめ、その地区単位に特宣分会をもうけて指導の強化をはかった。
 この特別宣教体制は、一九六一(昭和三六)年の節分大祭から推進せられ、みろく大祭までに、全国の多数の地域が体制をととのえ、この年の四月から二ヵ年間の入信おみちびき目標を二万〇八二〇人とさだめた。主会単位におかれた特宣委員会は、各分会の連絡機関の役割をはたし、これまで運動の推進母体であった主会の活動面は、この期間は分会にうつされた。この特宣体制のねらいは、末端の特宣分会を母体として、地方の自発的な宣教活動体制を強化し、宣信徒の信仰と体験を十分に活用して、地域に密着した宣教を展開することにあった。四月一四日には亀岡天恩郷で、全国一〇ブロックの特宣宣伝使・分会代表八〇余人をあつめての研修会が、翌一五日には全国各機関長五〇〇人が参加しての特別宣教全国大集会が開催されて、その趣旨の徹底につとめ、これを契機として全国的な活動にはいった。
 本部からモデル特別宣教地区の指定をうけた東海本苑では、管下を七地区に分けて、各地区に協議会を結成し、宣信徒宅を会場に活発な座談会をおこなった。内容には講師の入信の体験などもおりこみ、つねにあたらしい講題が提供された。三月から五月末までに、一戸について五回以上の座談会を実施し、あたらしい入信徒宅が第二・第三回の会場となった例もおおい。また積極的な家庭訪問などもおこなって宣教をもりあげ、新入信徒は団体修行者として聖地への参拝をすすめた。五月三日東海本苑春季大祭にははやくも一二〇〇人の目標を突破し、五月三一日には一八〇〇人にたっした。五月から三ヵ月間は九州全域を指定して、第二次の集中宣教がおこなわれた。また同時に全国の各ブロックでも次第に活発な動きをみせ、地域的にそれぞれ特色ある神教宣布の運動を展開した。その結果、入信のおみちびきは、八月には全国平均で全体の四〇・六%を達成し、ブロックでは東海の一三五・八%を筆頭に、関東の七五・三%、東北の五五・五%、近畿の五二・一%、北海の四〇・四%、四国の三一・三%と各ブロックともよい成績をおさめている。
 宣教を効果的にみちびくためには、映画・スライド・テープ・文書・電波などのマスコミが活発にもちいられた。映画宣教では、本部映画班が三月から翌年の節分にかけて、九州・北陸・北海・近畿・静岡・山陰の各地を巡回し、とくに熊本市大洋デパートでは、人型協力者や団体関係者五〇〇〇人を招待して多大の成果をあげた。地方機関のなかには、16ミリ映写機をそなえて、自体組織で映画宣教をおこなうところもあり、また8ミリ映画・スライドやテープ宣教も、一般家庭や山村僻地へ携帯されておおいに活用された。文書宣伝はもっとも活発におこなわれ、『天祥地瑞』『信仰覚書』(第二巻)のほか本部・地方の特宣体制のなかから、『おほもと』(一般向・婦人向)、『みてしろおとりつぎ』『大本開祖』『みたままつり』『霊界の話』『人類同胞観と一つの世界』『生きる糧』『節分大祭写真グラフ』『大本神の出現』『八分間の話題』(1~6)『おほもとの神』『自立』『大本紹介のしおり』など数おおくのパンフレットやチラシ類が発行された。さらに電波による宣教も、昭和三五年五月以来継続してきた朝日放送の「大本の時間」をはじめとして、この年には北陸放送・ラジオ山陰などから、半年にわたって放送がつづけられた。
 この特別宣教期間中に特記すべき動きとしては、五島における「かくれキリシタン」の集団改宗がある。五島への宣教が本格的におこなわれたのは、一九六〇(昭和三〇)年一月からであった。当時支部はなく信徒わずかに四家族という五島へ、有川潔本部派遣宣伝使がはじめて派遣され、以来約七ヵ月半にわたる活動によって、玉之浦に支部が設置された。その後特派や地元信徒の努力によって、大本の教線もしだいに拡大されつつあったが、三五〇年にわたって信仰の自由をまもり、権力の圧迫にたえてきた玉之浦地方の「かくれキリシタン」信徒のおおくが、集団的に大本に改宗したのである。この入信は、当時新聞やテレビのニュース映画などにもとりあげられた。一九六一(昭和三六)年一〇月二五日には、出口栄二総長・米川宣教部長参列のもとに五島分苑(福江島玉之浦町)の開苑式がおこなわれ、その機会に京都大学教授柴田実・同助教授上田正昭・東京大学東洋文化研究所員村上重良らによる学術調査団が組織されて、五日間にわたる調査がおこなわれた。「大本」に何故多数の改宗をみたのであろうか。「かくれ宗」とよばれて、徳川幕府以来の弾圧にたえて潜伏してきたキリシタンの信仰をうけつぐ人々は、再度の弾圧に抗してたたかいきたった大本信仰に内在する信仰の内容とその情熱に、あるべき信仰のふるさとをみいだしたのである。
 特別宣教はこのように離島へもおよぼされていったが、五月一四日には出口総長が参列して、かつて聖師が別院建設の意向をもらされていた対島の南室島で、大本名室神社の鎮座祭がおこなわれた。奄美大島でも、この年の六月三〇日には宣教の拠点として奄美分苑(名瀬市)が完成し、一二月一五日には、第二次大本事件によって碑文をけずられ、道路の石垣の根石とされていた出口聖師の歌碑が、喜界島の宮原山に再建された。
 国内宣教に並行して海外宣教の面でも、ブラジルでの鈴木・有川特派を中心とした信徒の活躍、伊藤宣伝使の一年にわたる欧米宣教、原田宣伝使の北米派遣など、顕著な実績がしめされている(四章)。
 特宣活動か各地域で展開されてゆくにしたがって、新入信徒をふくめての団体修行や団体参拝の人々が、つぎつぎと聖地をおとずれてきた。一一月四日には全国特宣委員長・分会長合同会議が亀岡でひらかれ、「おみちびきと育成について」「組織指導者のあり方」などについての討議がおこなわれた。大本信徒のほこりと感激もあらたに、神教宣布に直進することが誓われるのである。そして五日の開祖大祭には、新入信徒はすでに一万五〇〇〇人をこえるにいたった。教主からは「昨今、大型核爆発の相次ぐ実験が行なわれ出しまして、ただならぬ世相になってまいりました。……私たちはこのような時代のくることを早くから知らされ、嘲笑と迫害にうち勝ちながら、ひたすら御神示を信じ、世界の救いを祈ってまいりました。……国祖御再現の意義を知らしめ、神業遂行の力となる新たな信徒のお導きをさせていただき、絶対平和の気運を盛り上げてゆくことの今日程大切なときはないと存じます。真剣な祈りと共に、救世神業の使命に励んでいただきたくお願い申し上げます」(「愛善苑」昭和36・12)との挨拶があって、信徒のいっそうの奮起がうながされた。
 この教示にもとづき、宣信徒一体となっての神教宣布と新信徒おみちびきの努力が、さらにつみかさねられていった。その結果、開教七十年の一九六二(昭和三七)年三月までに二万〇〇四一人の信徒の増加をみ、二ヵ年の目標をわずか一年でほぼ達成するほどのいきおいをしめして、信徒総数も一二万五六五一人となった。一九五二(昭和二七)年四月、三代教主就任以来の新信徒は六万人をこえ、一〇年間で信徒数は倍加したのである。
 こころみに、一九五四(昭和二九)年四月から一九六二(昭和三七)年三月までの八年間の増加信徒数四万九七五一人を分析してみると、次表がしめすように、農業世帯に並行して、商工業・公務員・会社員・学生などをふくめた都市世帯の増加がめだち、新発足当初から課題となっていた都市宣教も、着実に成果をあげてきていることがうかがわれる。なかでも高校生をふくめた学生層への浸透には注目すべきものがあるが、しかし、いわゆる中間層への固定化傾向もみうけられ、組織労働者や都市最下層への浸透には、今後なお、おおくの課題がのこされている。男女の比率をみると、女子の入信がややおおく、年令別では、二〇才以下の入信がとくにめだって、全体の三三・六%を占め、中堅層ともいうべき二一~四〇才の三四・八%にほぼきっこうしている。これは最近における顕著な傾向で、信徒倍増方法の諸問題をはらみつつも、二・三世をふくめた青少年層の成長とともに、あたらしい息吹きが教団にみなぎってゆきつつあることをしめしているといえよう。一方、亀岡・綾部の神苑では大本会館を中心とした聖地造営のひびきがたかくこだまし、開教七十年をむかえる活気が本部・地方ともども、とみにたかまってきた。こうして神教の世界的宣布への基盤は、物心両面にわたっていっそうかためられていった。

〔写真〕
○開教70年をめざして全国に特別宣教体制がしかれた 全国大集会 亀岡天恩郷 万祥殿 p1054
○モデル地区を指定して集中宣教をおこない気運をもりあげた p1055
○かくれキリシタンで知られた五島に大本の分苑が新設された 上 五島分苑の遠景(矢印) 下 五島学術調査団 正面右より柴田 上田 村上 各団員 p1057
○人間を神の子として尊重し真の平和の社会をきずこう…… 力づよくうったえる出口総長と決意をひめてききいる信徒 p1059

〔図表〕
○無題 p1059
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