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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第2章 >3 諸団体の活動よみ(新仮名遣い)
文献名3大本青年会よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
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ページ1060 目次メモ
OBC B195402c8231
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本文  一九五二(昭和二七)年三月二七日、第八回青年中央委員会を天恩郷でひらき、青年会規約を一部改正してあらたに会長をおくことになり、四月一日には会長に出口光平が任命された。さらに青年会中央事務局の機構を整備して組織・指導・育成の三部をおき、もっとも弱点となっていた青少年指導者の養成に重点をおくことになって、八月には第一回の講習会がひらかれた。なお、一九五〇(昭和二五)年の八月頃から、京都の諸大学に在学する信徒の学生や卒業生らが学生グループをつくっていたが、昭和二七年には全国の諸大学に在学または卒業した信徒の学生層によびかけ、同年九月の瑞生大祭に、大本全国学生会が結成されているのもみのがせない。学生会は本部の大祭時を利用して連絡・親睦をふかめ、また機関誌「大本全国学生会誌」を発行した。
 一九五三(昭和二八)年、青年会はひきつづき、地域活動の確立と未開地開拓・青年運動指導者養成・共同社会意識の高揚などの方針をかかげ、懸案の指導者養成のために専門の講師をまねいて、社会福祉・話術・青少年心理やケースワーク、グループワーク、コミニュティ・オーガニゼイションなどの講習会をすすめた。こうした講習会は地方でもたびたびひらかれた。このころにはまだ少年育成に指導者もすくなく、わずかに徳島・石川・大阪などで活動がみられたにすぎなかった。そこで中央事務局では少年育成を重視し、綾部での夏季学級の指導にあたった。機関誌「青少年ニュース」は九号で休刊していたが、同年四月から「愛善青年」(A5判二〇頁)を月刊として発刊し、四号からタブロイド判にあらため、紙上講座・地方活動の情況をつたえて青年運動の推進に役だてた。
 一九五四(昭和二九)年三月一日、ビキニ環礁の水爆実験による「死の灰」の被害は、日本のみならず世界の人心に異常な衝撃をあたえた。大本愛善青年会は率先してたちあがり、同年三月に就任した出口栄二会長を陣頭に教内の諸隘路を克服して、四月二五日から五月二五日までの1ヵ月間、人類愛善会・婦人会と協同で全国いっせいに水爆実験反対署名運動を展開した(三章)。七月四日には、全国連合会会長会議をひらいて、大本愛善青年会の名称を「大本青年会」とあらため、中央事務局を本部事務局とした。また地方の声をよりおおく反映させ、積極的な運動推進をはかるために、中央委員制を廃止して、連合会長会議を審議機関とし、そのなかに常任委員をおき、「愛善青年」は八月号から「大本青年」と改題して内容の充実をはかった。運動方針としては、自体組織の強化・研修の強化・少年育成の推進・対社会活動の強力な展開などをあげた。
 この時点でもっとも特長的なことは、「われわれ青年は目に見えない世界の研鑚のみでなく、もっと現実を直視し考慮していかねばならぬ。時代の悩み、民衆のなやみを己れが悩みとして、その解決のため広く根源的な努力をすることこそ、今日の宗教人の緊要の責務であろう」(「大本青年」21号)との主張にもみられるように、立教の根本精神にたって、社会的な実践活動によりいっそう熱心にとりくんだことである。地方では活動的青年会員を中心としてつぎつぎと青年遊説隊を結成し、大本巡回講座・食糧自給国民運動や人類愛善会の平和活動に協力して、街頭宣伝・「人類愛善新聞」の一部売り・座談会・幻灯会の開催など、宣教や運動の第一線にたって多角的に活動した。このような活動のなかで、翌年の三月までに関東・石川・静岡など一五ヵ所で連合会が結成され、自体組織の強化がおしすすめられた。
 また重点目標の一つである少年育成を強化・充実するために、本部事務局は信徒の教職員の参加をもとめて、昭和二九年八月に全国青少年育成協議会を設置し、一〇月からは機関紙「はぐくみ」(季刊)を発行するとともに、幻灯フィルムなどの自主制作をもすすめた。とくに少年夏季学級の開催には力をいれ、大阪・京都・石川・長野・静岡・東京・山形・徳島・山口などの地域に少年育成活動がさかんになった。地元の三丹主会では、一九四九(昭和二四)年からはじめていた少年研修会を、一九五三(昭和二八)年に少年夏季学級と改称して六日間とし、海水浴もくわえて行事内容を充実させていたが、昭和二九年には本部事務局との共催で全国的行事とし、全国各地から一六〇人もの参加者があった。それ以来年中行事の一つとして少年育成・指導者訓練に果した役割はおおきい。全国雄弁大会も毎年おこなわれ、各連合会では自主的に研修会を企画し、日常活動をとおして青年会活動も着実な前進をしめした。
 そこで青年運動の重要性をよりいっそう徹底させ、積極的な実践への力強い踏台となすために、一九五五(昭和三〇)年八月六日、天恩郷で大本青年全国大会を開催した。大会では少年会の育成助長、時代の認識にたって強力なる神書拝読会をもち真信仰の確立をはかる、組織の充実、平和憲法を護持し原水爆の製造使用禁止と軍事基地化の反対に総力を結集して、社会的実践を強化するとの四項目を決議し、これを後半期の運動方針とした。とくに社会的実践では、農村青年の具体的目標として、教団方針による農村の立直しと新生の問題をとりあげ、愛善みずほ会と協力して、みずほ会農業技術と教典の研鑚をあわせた研修会を、この年一一月の大本大祭から翌年の節分大祭までの期間、全国各地で実施した。また都市青年の目標には、さかんに研修会をおこなって教義の現代的把握につとめ、宗教的立場からの自主的な社会的実践活動を強調していった。
 一方、事務局は昭和三〇年の四月に、青年会歌を制定し、自動車宣伝班を編成して、近畿・東海で街頭演説・講演会をひらき、信徒には信仰の現代的あり方を、大衆にむかっては平和への努力をうったえた。
 一九五六(昭和三一)年度には、ひきつづき農村運動をとりあげ、農業技術の向上と農村生活の立直しのために率先して活動し、会員管理による試験田を綾部・姫路・山口・徳島に設置した。また世界連邦都市宣言の推進・原水爆禁止・憲法擁護などの平和運動をとりあげ、世界連邦都市宣言の推進では、中小都市を主力に市町村会議員と密接な連繋をとり、講演会を開催してその啓蒙につとめた。原水爆実験禁止の実現にむかっては、原水爆禁止日本協議会との緊密な連絡のもとに、自治体単位の原水協の組織化に協力し、八月には長崎における第二回原水爆禁止世界大会に参加した。憲法擁護では、国内の憲法問題にかんする情勢判断にもとづいて、内部啓蒙および研修に重点をおき、八月六日に亀岡で、憲法問題をテーマとする研究討論会をひらいた。
 この年の四月には教団一本化の方針にしたがって、「大本青年」「はぐくみ」を廃刊し、四月より総合雑誌「おほもと」のなかに青少年の欄がもうけられることになった。本部事務局は地方機関誌の育成にもつとめ、機関誌コンクールなどを開催して奨励した。その結果、地方機関誌の発行は、この年は一三誌、翌年には一二誌と漸次増加し、会員の研修と相互の連絡に成果をもたらした。少年育成については、大本婦人会との協力のもとに積極的にとりくみ、少年会の設置、本部・地方における少年夏季学級の開催および児童作品展などをおこなった。二月から二ヵ月間にわたって東北・北海道をリレーして研修会をひらき、会員の内修と未開地宣教にもつとめている。四月からは会則を改正して副会長かおかれた。翌一九五七(昭和三二)年五月七日、会長出口栄二・副会長広瀬静水が欧米および南米宣教に旅だったので、会長代理を出口光平かつとめた。昭和二九年の再編強化以来この年までに、再登録をおえた会員は二〇〇〇余人、少年会の設置は一三ヵ所となった。
 一九五八(昭和三三)年三月二三日、第六回全国連合会長会議では、昭和三一年以来懸案となっていた青年会会則を改正し、会員の年令を三三才から三〇才に引下げて、活動の主体を二〇代にうつし、運動の主体を地方に移してゆくこととした。そして、脚下照顧の教示にしたがって、「信仰生活を楽しいものにしよう」「親切をつくしあおう」の運動方針が決定された。四月一日に出口栄二が大本総長に就任したことによって、会長に広島県連合会長の若本三晴が就任し、新会則実施への準備をすすめた。執行機関として運営委員会をもうけ、運動方針を「誠一つの実践運動」に集約して、「みろくの世の在り方」「近代社会の進路」「大本の使命」をテーマとする全国研究集会をおこない、時代にいきる大本青年としての心がまえの確立に力点をおいた。一方、婦人会との連繋をふかめ、共同で機関誌「大本婦人・青年」を発刊して青年と婦人の団結の強化をはかった。地域社会への奉仕や、遠隔・未開地にある青年会の育成にも力をそそぎ、青少年育成のなかでは、とくにたちおくれていた高校生対策に意をもちいた。この年の一〇月には、新会則による会長公選がおこなわれ、塩見雅正が会長となった。そして一二月二五日から翌年の一月一五日までを全国一斉青年行動月間とし、この期間に冬期青年集会を連合会単位におこない、地方組織の充実をはかった。他方本部事務局では、高校生を対象とする第一回の冬季学級と、少年育成のための指導者講習会を天恩郷で開催し、このような研修会や講習会はこの後ひんぱんにおこなわれていった。一九五九(昭和三四)年の節分大祭には、会員のカンパ活動による青年会館の建設を決定し、また従来の少年育成協議会をさらに発展させて、全国各地の少年指導に活躍する青年たちによって、あらたに大本少年育成協議会が結成された。少年の育成には一段と力をいれ、ことに夏季学級は本部のみならず、地方において年々盛大に開催されてゆく。運動方針には従来の基本的な観点が踏襲されて、「言心行」一致した大本青年の信仰確立と、基本青年会の強化・充実による活動基盤の拡大、さらに大衆のなかにとけこんだ社会活動・平和活動の推進などが、その活動の基調とされた。
 対外的には、昭和三四年の第五回原水禁大会に、京都-松江-広島間七五〇キロの自転車平和行進をおこない、また世界連邦日本国家宣言の署名運動や、「人類愛善新聞」特集号の一部売りに活躍し、世界連邦日本青年協議会結成にも協力した。一九六〇(昭和三五)年には人類愛善会の運動と協調して、新安保条約の締結に反対する運動に参加した。また平和祈願富士登山を三二四人の青年男女らによって実施し、霊峰富士の頂上において、世界平和の祈りをささげた。一九六一(昭和三六)年には、人類愛善会とともに、平和憲法を生かし世界軍備の全廃をもとめる署名運動をおこない、また原水爆禁止平和大行進の山陽コース代表団に、福士高光(広島-大阪間)・井上礼彦(京都-東京)を派遣した。これらの平和運動は第三章に詳述されているので参照されたい。
 一九六〇(昭和三五)年から教団は開教七十年をむかえる準備体制にはいり、神教宣布の積極化と、教団あげての「神の家」づくりを目標とする諸活動にはいった。青年会もまたこの基本方針にそって、「家族ぐるみの信仰」と「支部・分苑の神の家づくり」に婦人会とともに協力し、総合研修会に参加した。この研修会は、世代の相違による考え方の差をちぢめ、青少年育成と二世・三世の自発的入信の必要性にたいする理解を、信徒のあらゆる階層にふかめてゆくことにあずかって力があった。こうしたなかで青少年の入信がめだって増加し、夏季学級もますますさかんとなって、この年は本部・地方一七ヵ所で約一〇〇〇人の少年が参加した。
 一方、会員の念願であった大本青年会館は、同年一一月一二日、天恩郷で地鎮祭を執行し、翌一九六一(昭和三六)年八月、瑞生大祭の吉き日に完成奉告祭をおこなった。青年会館には、本部事務局がおかれ、会員の宿泊・会合に利用されて、青年運動の本拠となった。この年は教団が推進した特別宣教に積極的に参加し、青少年信徒の倍増や、自体組織の結集につとめたが、同年一一月には任期による青年会の人事があらたまり、会長に福士高光が選任された。

〔写真〕
○大本青年会機関紙 p1061
○少年夏季学級には一般子弟の参加も年ごとにふえ情操教育に一役をになっている 綾部梅松苑 p1063
○大本青年会館 昭和36年 亀岡 天恩郷 p1066
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