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文献名1大本七十年史 下巻
文献名2第8編 >第4章 >1 文書による海外宣教よみ(新仮名遣い)
文献名31 文書による海外宣教よみ(新仮名遣い)
著者大本七十年史編纂会・編集
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-02-22 11:21:54
ページ1184 目次メモ
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本文 〈海外との連絡〉 大本の海外宣教は、第二次大本事件によって一〇年余の空白時代をよぎなくされた。しかし、平和日本の建設、人種・国籍・宗教の差別を超越した理想世界の達成を目標として新発足した愛善苑の活動は、国内宣教の進展にともない、しだいに国際社会にも展開されてゆくことになる。
 一九四六(昭和二一)年二月一九日、『にっぼん日記』でしられているシカゴーサン社の特派員M・ケーンが亀岡をおとずれ、出口聖師ならびに二代すみ子夫人にあい、主として大本の歴史や大本事件などについて取材した。ケーンは一九三五(昭和一〇)年第二次大本事件当時、大本の名をしり関心をもっていたが、来訪する二年前に「ロンドン・タイムス」に大本に関する記事がのったので、その後の模様を報道するためにおとずれたものである。
 一九四六(昭和二一)年一二月八日、教務部のなかにはじめて国際課がもうけられ、西村光月が課長に就任した。このころから外国との文通がゆるされ、かつての海外の会員・信徒からつぎつぎと手紙がおくられてきた。ドイツで発行するエスペラントの一流誌「へロルド・デ・エスペラント」や、スイスに本部をおく世界エスペラント協会(Universala Esperanto-Asocio,略称UEA)の機関誌「エスペラント」には、第二次大本事件解決の報道がはやくも掲載されていた。
 一九四八(昭和二三)年二月には、大本宣伝使であったチェコスロバキアのS・チペラ(女性)から音信がとどき、出口聖師が自由の身となったことを知って、今後大本が従前の活動をつづけるか、雑誌の再発刊を意図しているかを問いあわせてきた。また同年五月、熱心な人類愛善会員であったイタリアのA・パセリーニは、事件の解決を祝福する音信をよせてきた。
 一九四八(昭和二三)年、出口聖師昇天の報をうけた世界エスペラント協会は、その機関誌「エスペラント」の一九四八年六月号で、左記のように聖師の訃報を報じて、その功績をたたえた。

出口王仁三郎氏は日本における大本運動の提唱者であるが、本年一月十九日七十八才にて昇天せられた。大本という名称ならびにその提唱者である同氏の名を記憶している人は多い。氏は自身優秀なエスペランチストで、亀岡における世界エスペラント協会の代議員でもあり、非常に適切なエスペラント教程を著わし、かつ、日本人のエスペラント学習の便宜用に作歌辞典を著わすなどして、信徒たちにもエスペラントの奨励をした。葬儀は亀岡から六〇キロ距った同運動のかつての中心地である綾部でおこなわれた。出口王仁三郎氏は理想のための真の殉難者であり、牢獄の苦難をうけ、日本の軍国主義者によってあらゆる迫害を加えられたのであった。七ヵ年入牢の後、連合軍の勝利によって再び自由を与えられ、不屈の精神を以て、さらに「愛善苑」の名をもって運動を立て直した。愛善苑とは神愛の国という意味である。かつての大本運動の海外における多くの同志たちは、その提唱者をいまもなお好意をもって記憶している。

 米占領軍によってエスペラントの使用禁止が解除されたのは、一九四八(昭和二三)年五月一日からであるが、このころには、海外からよせられる旧同志たちの通信も日ましにおおくなってきた。そのなかには、かつての提携団体であるドイツの白旗団(Weisse Fahne)理事長K・O・シュミットからの通信(一九四九年五月)があり、文面には、世界同胞主義を国境をこえてひろく世界に強調したため、時のヒットラー(ファシズム)主義と衝突し、同団幹部は第二次世界大戦中投獄せられ、創始者V・シュヴァイツア博士は獄死し、シュミットは一〇ヵ月の牢獄生活ののち釈放せられたが、終戦まで監視をうけたこと、またこの年の秋までに機関誌を発刊したいとしるされてあった。また、かつて大本の欧州本部に奉仕したことのあるブルガリアのV・M・シシコフからは、「わたしがパリでうけた大本的教育と指導とが、今日になって立派な成果を与えるもとになり、実に感謝にたえません」との通信(一九四九年六月)があった。
 こうして文通による海外との連絡が緊密になる一方では、直接愛善苑をたずねてくる外国人もおおくなった。前述のM・ケーンにつづいて、一九四六(昭和二一)年八月には、在日生活三〇年という弁護士のG・サンが、アメリカ政府の依頼による日本の宗教事情調査のかたわら来訪した。翌一九四七(昭和二二)年一月には宗教研究家のグラソン、一九四八(昭和二三)年二月には、アメリカ進駐軍のフィタースが、アメリカの雑誌「ライフ」に出口聖師を写真で紹介するため、取材におとずれてきた。同年三月にはキリスト教ワイズメンの会員一〇人、ついで七月には米国外国伝道協会の教育部長R・I・シーベリー博士(女性)が、日本研究のため来日したさい、愛善苑をおとずれている。これらの来訪者をとおして、大本のことがさらにひろく海外に紹介されたことはいうまでもない。
 一九四八(昭和二三)年一〇月、国際課は宣教部内におかれ、課長に出口光平が就任した。この年からブラジル、メキシコの信徒との間にも連絡が復活しはじめた。
 一九四九(昭和二四)年一〇月、教団は大本愛善苑と改称され、教団規則は全面的に改正された。国際課は海外宣伝課となり、課長に中村陽宇が任命され、海外との連絡を積極的に推進した。一九五〇(昭和二五)年一月には、左記二八ヵ国の同志・各種団体などにたいして、第二次大本事件後はじめての挨拶状七五通を発送し、旧信徒・会員の再糾合と、雑誌・新聞への広告文の掲載を依頼した。

ドイツ(一〇通)・オランダ(一〇)・オーストラリア(二)・フランス(五)・イギリス(五)・ギリシア(一)・スウェーデン(五)・ユーゴスラビア(一)・朝鮮(二)・ブルガリア(三)・ウルグァイ(一)・アイルランド(一)・フィンランド(一)・デンマーク(四)・ボリビア(一)・ノルウェー(一)・スイス(二)・ハンガリー(一)・ポルトガル(一)・チェコスロバキア(一一)・カナダ(一)・北アメリカ(三)・スペイン(一)・アルゼンチン(一)・ポーランド(一)・スコットランド(一)。

 この連絡にこたえて、個人ならびに諸団体から祝辞や照会状、あるいは寄稿などがぞくぞくとよせられた。戦前、大本本部に奉仕して「国際大本」を編集したハンガリー人J・マヨールは、ニュージーランドから健在のたよりをよせ、イギリスの旧提携団体である至大世界キリスト教心霊主義連盟(The Greater World Christian Spiritualist League)からは、「突然お手紙をいただき喜びにたえません。今回貴運動が再建された報告に接しおよろこび申しあげます。金沢市における全日本宗教平和博覧会のことも嬉しく拝見しました。当方の雑誌にかつて大本紹介記事を掲載した分、ならびに近刊誌取揃え、本日空便をもって送りましたからご利用下さい。貴運動の模様お知らせください。当方の機関誌に発表いたしたいと思います」との通信がとどいた。
 また、オランダに本部をもつ人類同盟(Universala Ligo)の副会長J・イスブルッカ(女性)は、あらたに愛善苑との提携を申しこんできた。イスブルッカは第二次大本事件前、西村光月の滞欧時代からの友人である。ドイツの白旗団理事長シュミットからは、機関誌「ディ・バイゼ・ファーネ」(白色旗)を復刊し、同誌上に愛善苑の再出発紹介記事を連載している旨通知してきた。このように海外における大本への態度はすべて好意にみちたものであった。
 第二次大本事件によって、大本のエスペラント雑誌による活動が中絶したことについて、とくに海外同志のおおくが心から惜しんだことは、「愛善苑」誌一九四八(昭和二三)年七・八月号の出口王仁三郎をしのぶ特集号に、岡山大学の八木日出雄博士がよせた「エスペラントの功績に就て」のつぎの一文によくうかがえる。

一九三七(昭和一二)年のある日、わたしはオランダのハーグで「ヘロルド」の主筆T・ユングに会った。氏は開口一番「国際大本は何故休刊したのか、その訳をきかしてくれ、実に惜しい」という。わたしが当時大本教の蒙った打撃につき説明し、当分再刊不可能だろうと言うと、氏は「あの雑誌がエスペラント界に与える力はヘロルド以上だ」と結んだ。いかに外人に愛読され信頼されていたかがわかろう。この雑誌の休刊を惜しむ声は、その後欧米各地のエスペラント界で聞かされた。

 このようにして、大本は新発足後、海外との連絡を回復していった。第二次世界大戦による有形無形の傷痕なまなましいヨーロッパにおいても、かつての大本を知っていた人々の期待とよろこびはおおきかったといえよう。
 新発足後の海外宣教─文書通信のスタートは順調にのびていった。だが、事件による一〇年間の空白が痛手であったことも事実である。かつて大本にいた有能な青年たちのおおくが戦争の犠牲となり、語学のできる人はそう簡単にみつからなかった。教団のなかの青年から語学を修得させ、人材養成をあらたにはかってゆかねばならなかった。そのためにもたえずエスペラントの講習会がくりかえされた。
 一九五〇(昭和二五)年八月、本部機構が簡素化され、海外宣伝課は宣教部宣伝課に吸収合併され、中村がひきつづき主任となった。同年末の人類愛善会会長出口伊佐男の渡欧米は、大本の海外布教におおきな刺激をあたえた。人類愛善会は海外宣伝を運動方針としてうちだし、従来教団のなかに所属しておこなわれた国際活動は、その主力が人類愛善会国際部にうつされ、部長に中村が就任した。しかし、一九五二(昭和二七)年一一月、中村は脊髄カリエスが再発して病床につくこととなり、伊藤栄蔵・重栖度哉・梅田善美らによって業務か継続された。
 一九五二「昭和二七」年、教団は開教六十年をむかえた。これを機に教団としても海外宣教に本格的にとりくむこととなり、一九五三(昭和二八)年八月には、宣教部海外宣伝課を独立させ、重栖が課長になった。その後、文字清美特派宣伝使のブラジル派遣(昭和31・4~32・12)、出口栄二・広瀬静水の欧米巡教(昭和32・5~33・1)の経験にかんがみ、海外宣教に一層意がそそがれることになって、一九五八(昭和三三)年四月、課が部に昇格し、重栖が部長代理となった。同年一〇月には、一時、宣教部海外宣伝課となったが、一九六〇(昭和三五)年四月にふたたび海外宣伝部に昇格し、同年八月、伊藤栄蔵が約一年にわたる海外宣教からかえって部長に就任した。この年の一一月には、国際血液学会輸血部門にフランス代表として来日していた医学博士K・ミションが、亀岡天恩郷をおとずれ、講師との対話形式で所定の大道場講座をうけた。年とともに大本をおとずれる外国人は数をましているが、正式に修行をしたのはミションがはじめてであった。翌一九六一(昭和三六)年には、京都短期大学教授日野巌が嘱託となり、さらに同年一〇月イギリスから来訪したD・M・ウースタ(女性)、E・M・コックス(女性)もまた海外宣伝の仕事に協力することとなって、ここにようやく海外宣教の組織が強化されるにいたった。

〈文書活動〉 まえにのべたように、愛善苑新発足後、アメリカ関係の来訪者もしだいにふえたので、英文の大本紹介用パンフレットとして、一九四八(昭和二三)年に『愛善苑の輪廓』(B6判一四頁)、一九五〇「昭和二五」年に『大本運動』(B6判三三頁)が出版された。
 一九五〇年一一月、ようやくエス文「OOMOTO」誌が月刊誌として陽の目をみるにいたった。それは事件前の「国際大本」が中断されて以来、一五年ぶりにあたる。人類愛善会と大本との海外向機関誌として、A5判一六頁で一〇〇〇部発行された。当初の内容は、大本愛善苑の主義・主張のほか、大本愛善苑が対外活動として一番力をいれた世界連邦思想に関するものがおおく、そのほか、第二次大本事件における法廷での聖師のプロフィルや、中村陽宇の「エスペランチストのノート」、あるいは「芸術と宗教」の特集などがなされ、かなりの好評をえた。その後も編集内容は主として、大本の教義や海外からよせられる宗教・哲学に関するもの、平和運動に関するもの、日本文化の紹介に関するもの、国内外のエスペラント運動、言語上の問題、書評などがあり、一九六五(昭和四〇)年にひらかれる第五〇回世界エスペラント大会の開催地が東京に決定して以来、来訪する外国人エスペランチストのために、日本に関する紹介記事が掲載された(五章二節)。編集の責任には中村があたり、病床についてからも重栖らの協力のもとに、編集の業務はつづけられている。
 つぎに海外のエスペラント雑誌がとりあつかった批評の声をひろってみよう。英国エスペラント協会(Brita Esperan-tista Asocio)発行の「ザ・ブリティッシュ・エスペランチスト」には「OOMOTO誌はすぐれたエスペラント文で、今日の世界に価値ある記事をみたしている。現代は平和の論理をたたかわせる時期でなく、いかにこれを国際間に実践するかにある。人類愛善会が平和の基礎である愛善を世界の国々に宣布していくことは、すべての宗教、各種の団体がおおいに学ぶべきところである」とあり、スペインの「ボレティン」誌は、「日本のベテラン人類愛善会の再現に、最大の喜びと敬意を表する。古い同志であるこの会が現代に果すべき任務は大きい」とのべ、またオランダの「ラ・プラクティーコ」誌は、「本会は日本における平和運動のホープであり、その運動の基礎をなす愛善は単なる倫理や道徳でなく、自然万物の真理なるが故に、科学的にも実証しうる今日、もっとも進歩した精神体系をもつものだ」とたたえている。一九五一(昭和二六)年一一月一日、綾部でおこなわれた第二次世界大戦犠牲者万国慰霊祭には、誌上のうったえにこたえて、ブラジル、ポーランド、イタリア、イギリス、アメリカ、オランダ、オーストラリアなどから、一〇通のメッセージがよせられた。
 一九五二(昭和二七)年度の「OOMOTO」誌は、一月号から二号合併の隔月出版とし、頁をふやして内容の充実をはかり、今日までひきつがれている。この当時交換誌として外国からおくられたエスペラント雑誌数は五〇種類におよび、その他の外国語のもので、宗教界・世界連邦関係・平和団体からのものが一〇種であった。このように「OOMOTO」誌にたいする海外の批評は、そのおおくが好意的であり、讃辞にあふれたものであったが、国内のエスペランチストは、大半がまだ無関心の態度をとっていた。しかし、東京から出版されていたエス文月刊誌「サミデアーノ」の一九五三(昭和二八)年四月号に、つぎのような「OOMOTO」紹介文が掲載された。「立派な紙、立派な印刷、数多い記事、これだけのものを定期的に発行しつづけることは、普通のエスペラント団体ではできそうにない。三二頁全部エスペラント文という、ちょっと類のない編集に讃嘆の声をあげざるをえない」。
 エスペラント雑誌の発行という地味なながいあいだの努力が、しだいにむくわれてくるようになった。一九五五(昭和三〇)年ころには、フランスのニーム市に住む、熱心な世界連邦主義者でありエスペランチストであるR・ヴォルペリエル夫妻と、「OOMOTO」誌を通じて連絡がむすばれるようになる。そしてやがては、日本における世界連邦都市第一号の綾部市と、ニーム市の姉妹都市の盟約をむすばせる因縁の橋渡しを演じる通路になった。ヴォルベリエルを通じてつたえられるフランスにおける世界連邦運動のニュースは、すべて誌上に発表された。エスペラント界で世界連邦運動に協力した団体は大本のほかに、オランダの人類同盟があった。この団体の機関紙「ラ・プラクテイーコ」は大型の立派なエスペラント月刊誌で、すでに世界各国に広範な読者をもっていた。「OOMOTO」編集部は、「ラ・プラクティーコ」誌ともたえず連絡を密にとってきた。そして大本が、世界連邦運動だけでなく、原水爆禁止の運動にも熱意をしめし運動してきたことは、「OOMOTO」誌や、「ラ・プラクティーコ」など海外のエスペラント団体の機関誌を通じて、世界の読者にもひろくつたえられた。
 一九五五(昭和三〇)年の夏ごろ、ようやくソビエト連邦のエスペランチストとの連絡がとれるようになった。ソ連アルメニア共和国エレヴァン市のS・フルチャン(ジャーナリスト)からの書簡(一九五六年三月一六日付)では、つぎのようにつたえている。「わたしは日本の平和運動に深い関心を寄せている。大規模に平和運動を展開している日本人の勇気に敬意を寄せております。モスクワではエスペラント団体の創立委員会ができましたが、この委員会にはソ連各市に同様な組織を創設する任務が課せられています」。また、エストニア共和国タリン市のP・J・エシィの便りには、「現在はモスクワのボカレフ教授その他の方の努力のお蔭で、ソ連にもエスペラント運動が再び活発となってきました。モスクワでは、すでに全国的な組織や研究会ができ、わたしのいるタリン市でも研究会の設置を準備しております。この町でエスペラントの会合が催されるようになれば、貴誌へ何か書いてお送りいたしましょう」との連絡をよせてきた。
 こうして、ソ連ならびに東欧社会主義諸国におけるエスペラント運動の復活にともない、一九五六(昭和三一)年の夏には、ブルガリアの、かつての提携団体である白色連盟(Universala Blanka Frataro)とのあいだにもふたたび連絡がとられだした。この団体の使徒A・ニコロフからは、「創立者P・ダーノフは一九四四(昭和一九)年に昇天し、法燈は信徒にひきつがれているが、いまだ独自の機関紙をもつまでにいたっていない」という報告があった。
 「OOMOTO」誌購読料の海外での取次は、すでに一九五一(昭和二六)年以来、オランダの人類同盟が一手にひきうけてくれていたが、このころにはアメリカ、イギリス、フランス、オランダ、スウェーデンのエスペラント団体が自発的にあっせんするようになった。編集については、当初の綜合的かつ客観的性格をつらぬき、大本の機関誌であると同時に、日本エスペラント界における唯一の綜合的月刊誌として、ひろく日本および世界のエスペラント運動の発展に寄与するよう配慮され(五章二節)、一九六一(昭和三六)年の九・一〇月号から発行部数も二〇〇〇部となり、世界一〇〇余ヵ国のエスペランチストに配布されている。
 英文機関誌「OOMOTO」(季刊)が刊行されることになったのは、一九五六(昭和三一)年からである。A4判八頁で一〇〇〇部発行し、大本の宗教的活動や平和運動を反映する機関誌としての編集がとられている。編集の責任には、当初療養中の中村陽宇があたったが、一九六一(昭和三六)年からは日野巌がひきついでいる。
 海外からの反響を二、三ひろってみると、アメリカの心理学者W・アンダーソン博士からは、「今までわたしの書きました本は、それぞれの分野でベストセラーになっており、『世界を変える七年』という本は一五万部、『予言の年』もベストセラーになりました。孫娘が日本におりますので、『大本基本教義』を航空便で送ってくれるよう手紙を出しておきました。あなた方の教えが普遍し、東西両世界に光明を掲げられますよう祈ります」との文面がよせられている。また、同じくアメリカのユニバーサル・ツルース・センター(Universal Truth Center)の創始者D・ファージー(女性)の来信は、つぎのような内容であった。「OOMOTO誌の内容をわたしは心からうれしく読ましていただきました。それはわたしたちの教えが同じ真理から出たものであり、主イエス・キリストを通じての神の生命と愛の実践も、国こそかわれあらゆる偉大な霊的指導者のおどろくべき体験も、みな同じだからです。聖師著『霊界物語』というのがほしいのですが、いくらお送りすればよろしいのですかお教えください」。
 今日まで掲載された内容の主なものとしては、『大本神諭』『道の栞』『霊の礎』『信仰覚書』『大本運動十原則』など大本の教義・主張に関するもの、世界連邦運動・原水爆禁止運動に関するものなどがあり、その他、ジャパン・タイムスの美術評論家E・グリリ(女性)やB・リビングストン(女性)など海外からの寄稿や転載などがある。
 そのほか、今日まで出版された英文のパンフレットには、前にのべた『愛善苑の輪廓』や『大本運動』(三版)のほか、『大本基本教義』(B6判・六一頁・二版)、『大本』(B6判・一二頁)、『大本神諭』(B6判・一一頁)、『道の栞』(B6判・二三頁)、『愛善の道』(B6判・三〇頁)、『聖師の面影』(B6判・二二頁)、『聖師言行録』(B6判・二一頁)、『日本文化の源流と大本』(B6判・三三頁)、『大本の芸術観』(B6判・八頁)、『大本とは』(B6判・三四頁)、『大本運動十原則』(A5判・二六頁)、『大本概要』(新書版・一六頁)、『人類愛善運動』(一〇頁)がある。
 エス文のパンフレットに『大本と人類愛善会の歴史』(一〇頁)、『大本運動十原則』(A5判二四頁)、スペイン語パンフレットには『大本運動十原則』(A5判・二六頁)、『大本の輪廓』(A5判・二六頁)などがある。そのほか、フランス語では『道の栞』(B6判・一四頁)、『日本文化の源流と大本』(B6判・三三頁)、ロシア語では『道の栞』 (A5判・一四頁)も発行されている。

〔写真〕
○国垣をこえ差別をこえて地球は一つ……世界はあらたな時代をむかえた p1184
○新発足後いちはやく世界宣教の口火がきられまず南米に拠点がつくられた ブラジル愛善堂 p1185
○海外からの来訪者と歓談される三代教主 左 ユーゴーのチヤロブスカ 亀岡天恩郷 p1189
○再刊されたエス文機関誌 第1号 p1191
○英文機関誌 創刊号 p1194
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