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文献名1大本史料集成 2 >第1部 明治・大正期の運動
文献名2第1章 出口王仁三郎関係文書よみ(新仮名遣い)
文献名3随筆『神霊界』大正8年11月1日号掲載よみ(新仮名遣い)
著者
概要
備考
タグ我が在る(ガガアル、ガガール、ハザール) データ凡例 データ最終更新日2021-04-12 22:37:51
ページ52 目次メモ
OBC B195502c110703
本文のヒット件数全 2 件/五六七の神世=2
本文の文字数13045
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本文     △
 日本は古来言霊の天照国と称え、上下共に善言美詞を使用し、毫も悪言妄語する事無く、実に至善至美至真の国体が確立して在つたのである。
 畏くも天祖天照大神様が、皇孫二々岐尊を豊葦原の水穂国の主として、天降し賜ひし時の御言葉に、我皇御孫命は云々と仰られて在ります。皇も御も孫命も全部敬称である。当世外国思想の侵入した人民の耳には、何故に謙譲なる大神の口から、現在自分の孫様を、マゴと仰せられずに、沢山に頭にも足にも敬称を附けられるのであろう乎と、疑ふで在りませうが、是が則はち日本神国の神国たる所以で、外国の如くに、虚偽空式を使用されず、天地の神則に遵つて斯くは仰せ遊ばしたので在ります。
 要するに神も人も皆な天地の分霊分体である以上は、霊魂は天之御中主大神の分霊であり、肉体そのものは大国常立尊の分体であって、霊体共に天地の先祖様の直々の尊いもので在るから、仮令自分の生んだ子と雖も、決して自分の力で出来たのではない。皆天地の神の御経綸に由つて、一時の形式を採つて、人体を生成遊ばしたので在る。以上は之れを敬ひ尊ばねばならぬのが当然で在るからで在ります。実に天地の真理に合致した美はしい国体で在ると云ふ事は大神の此の神勅の一片にも明白に現れて居るので在ります。誠に四海同胞、神人一如にして、外国の如く自他の区別が無い、天ケ下に他人も無ければ外国人もない、天地間の生物は、仮令禽獣虫魚と雖も、天地の神の吾々と同じ分霊分体を、其分に応じて賦与されて居ると曰ふ、真相を知悉した以上は、他人視したり、劣等動物視しては、天地の神に対して実に不敬の罪を重ねるので在ります。
 素盞嗚命が出雲の国肥の川上に八重垣を廻らしたる須賀宮を建て、稲田姫を妃として住たまふ。時に非常に清快の念を興されて「吾御心すがすがし云々」と仰せられたのも、大物主神が崇神天皇の御夢に現れて「此は吾御心なり」と仰せられしも、亦た雄略天皇が葛城山に狩り賜ひし時の御歌にも「朕が御腕に虻かき付き、其虻を蜻蛉はや喰ひかくの如、名に負はむとて、あきつ洲といふ」と仰せられしも、皆善言美詞、言向平和す神国の自然の風儀を重んじ給ふ、聖旨に出でし故で在ります。然るに中世儒仏の渡来してより、国民の風俗は日に月に悪化し、虚礼虚式等盛に行はれ、終には飾言偽語を以て一種の礼式と心得る如うに成つて了つて、国家は益々乱れ、神国の精神は何処へ乎飛び去つて了ふたので在る。故に平素の言語は虚偽斗りに成つて、友人や下僕を呼にも君と称し、又はクンと軽く唱へ、自分を称するに僕とか、拙者とか、坊主なら愚僧とか称して、普通の事と思ふやうに堕落して来たのである。君主にあらざるものを君と称し、僕婢に非らざる自分を僕と称する等は、実に虚偽の骨頂にして、人の天賦的職掌を忘却した不敬者と曰はねばならぬ。他人の父を称して、賢父又は尊父と曰ひ、自分の父を称して、愚父又は拙父と曰ひ、他人の妻を称して御賢室、御内室、御令室など称し乍ら、自分の妻を称して荊妻愚妻等と曰ひ、他人の子女を称して御賢息、御令嬢と曰ひ、自分の子女を称して、豚児、愚児、愚女、又は野娘など曰ふは、今日の習慣であつて、何れも知つて嘘を吐いて居るのであります。
 日本は神の選民で在るからは、一入吾身の霊魂肉体を敬い奉ると共に、他人も同様に敬まふ事神明の如くに致さねば成らぬのである。故に大本の五ケ条の誓約の中にも、
「一、神を敬する如く人を敬し吾身を敬すべし」と示して在る所以で在ります。艮の金神様の御神諭の文中に、「大国常立尊の御用を聞て下されよ」等の神語は、所々に散見しますのも、太古の神様であるから、日本神国、太古時代の風儀たる善言美詞を御使用に成つた所以である。
 随分古来沢山の神柱が日本にも顕はれましたなれど、何れも中古以下の神霊が多いので、其神言にも矢張り現代人の如く、自他の言語の上に区別が付いて居り、且つ又た長上から目下に対する言語と、目下から長上に対する言語とに、余程精粗の区別が附いて居るので在ります。是を伺ひ奉つても艮の金神と申す神様は、天照大御神以前に現はれた神霊に坐す事が明白に成るので在ります。

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 神さまに祭典を執行し、いろいろの幣帛や供物をする時の祝詞にも、海川山野種々の美し物を、八足の机代に横山のごとくおき足わして捧げまつるとか、甕の閉高知り、甕の腹満て並べて云々と唱えるのが、日本固有の美しき風儀であつて、たとえすこしの供物でも、横山のごとくと、神直日大直日に見直し詔り直しつつ、神人を和めまつるのは、神人一貫の妙辞にして、言霊の幸わう国の特色であります。
 これはすこしの物を、横山のごとく置き足わしてたてまつると申しても、けつして神さまにたいして嘘言にならぬのであります。その真情を神界から納受あそばすのであつて、神さまは勇ましきことや盛んな言辞を非常に歓ばれて、悲観的の言葉をお嫌いになるからであります。
 人間界で、物を土産として贈答する日用の言辞に、これは誠に粗末な物なれどもお目にかけるとか、まずい物なれど進上いたすとか、きわめて軽少ながらとか言つて平然としているのは、たいへんなまちがつた行為であります。実際に粗末な品なれば、人に贈つては礼を欠く、まずい物を土産にするというは失礼になるのである。これも知りつつ嘘をついていて、そうとうの礼儀をつくしているように誤解している一例であります。

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 日本人は黄色人種だ。西洋人は白色人種だから文明の程度が高とか、黄色人種は劣等じやとか言つて居る外人が在るのみならず、日本人自からも斯く信じて居るものが在るが、冠履転倒も甚はだしと言はねばならぬ。日本は金色人種であり、洋人は銀色人種であり、印度人は銅色人種なり、亜弗利加人は鉄色人種である。是れを今日礦物学上の価値から言っても、銀よりも金の方が幾十倍尊貴なか知れぬではないか。亦た銅鉄よりは銀の方は余程価値が貴いのは勿論である。故に日本人は性質上から見ても、品格上から見ても、言霊の円満具足せる上から見ても、決して白色人に劣るもので無い。否な幾十倍も貴い人種である事を自覚して、各自天賦の人格を研き、世界各国の人民を治め導かねば成らぬ天職を、惟神的に具備して居る事を悟り、夢にだも外人を畏れては成らねのであるが、現代の日本人には指で数る程より斯の理を弁知したものが在りませぬ。故に神諭にも、斯の尊い日本神国の人民が、我の身分を忘れて他国人に化かされ、尻の毛まで抜かれて居りても、未だ目が覚めぬ、困つたもので在るぞよ、と出て居るのも、無理なき事と思ふのであります。
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 物価は際限なく騰貴し、国民の生活難は時々刻々に脅迫され、各種の方面に怨恨の声を聞く、実に神典に所謂、常夜往く荒ぶる神の音なひは、五月蝿なす水湧き万妖悉く起り山川草木皆動揺むの現状である。斯る乱世天の岩戸隠れに際しては、何しても八心思兼神の出現して、天の岩戸開きの大神楽を奏上せねば、到底是のただよへる不祥の現状を救ひ、五六七の神政を永遠に樹立すると曰ふ事は不可能である。今日と成つては如何なる智者学者政治家が現はれて、盤根錯節を料理せむとしても、既に手遅れである。瀕死の病人にカンフル注射を為て見ても、只一時の生命を保持する丈けのもので、到底何の役にも立つもので無い。只此上は神に任して、天然力の神の大修祓を願ふより外に方法は絶無である。
 今日の世界にドンナ立派な有力な守護神が現はれた所で時勢の悪潮流を根本的に清むる事は何しても出来ない。吾々の唯一の頼みの綱とするは、只々艮の大金神、大国常立尊様の万代不易の周到なる御経綸の発顕を待つ斗りで在る。アヽ孤立の日本神国、混乱の極に達せる地上の各国、二十億の蒼生を救ふの道は、天津日嗣天皇の御稜威と、国祖の御神威の発動と、吾々国民の思神、思君、思国、思道の日本魂の発揚である。
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 デモクラシイは現今の一大流行物と成て居る。学者は一も二も無く之を謳歌し、次に宗教家までが驥尾に附随して得意がつて居るとは、実に神国の国体上から見て怪しからぬ次第である。九分九厘と一厘と云ふ神諭が出てあるが実に外国の思想及び行動は、日本人を駆つて、九分九厘まで此主義に心酔せしめて了うた。我々は飽く迄、天祖の神勅を遵奉し、且つ実行して、祖先の遺風を顕彰すべき天賦の職責ある事を、片時も忘れては成りませぬ。上下混乱の極に達せる現代を救ふは、神の御子と生れ出たる日本人の天職であるから、将来に於て如何なる思想が蔓延して来ても、亦た如何なる不祥事が頻出しても、皇祖の神の神勅と、一天万乗の大君様の御事は、造次にも顛沛にも忘却する事は出来ぬのであります。
 万々一にも此の事を忘れて、外来の思想に迷つたならば、最早や日本神国の人民とは申されませぬ。神界に対し奉り、天地容れざる逆臣逆賊であります。其故に艮の金神、大国常立尊は、世界の中心地の高天原なる下ツ岩根の竜宮館に出現遊ばして、変性男子の身魂を機関として、石屋の世界を攪乱しつつある悪の陰謀を、日本の人民に警告されたので在ります。悪神の計略に甘々と乗せられ切つて居る。国民は盲目や聾と同じく、誰一人として真実に耳を藉すものも無く、眼を開くものも無かつたので在りますが、今や神諭の実現は時々刻々に顕著に成つて来ましたから、一日も早く覚醒して頂き度いものです。

 世界二十億の生民の身魂を清めて、天神地祗の教に従はしむる、大本の教を難じて、何程大本教か天下の修斎を叫んでも、又た何程神徳が強くても、到底言ふべくして行ふ可らざる妄語であると、得意に成つて反対する人が十中の八九迄あるやうだ。成程一応聞けば無理のない、御尤至極の御考である。併し何事も時と処と位置と云ふ事を考へぬ人の説である。例へば百石の汚濁水の中へ一片の明礬を投入して見よ、百石の汚水は忽ち清水に成つて了ふで無いか。マツチ一本摺出ても、世界中を焼き尽す事が出来るでは無いか。微弱なりとは云へ、天地神明の神慮を奉て、至誠通神の活動を続つつある大本の明礬で、世界を清むるに何の造作があらう。我々は大本大神の御経綸を確信する以上は、天下に不能事や困難事は無きものと、固く固く信頼し、永に胸中神国を既に已に建設して居るので在ります。
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 源九郎義経を助けて置いた石屋の弥陀六爺さん驚いて曰く、彼の時に助けおかねば今に源氏は栄えぬものをと、智略縦横の石屋の悪神も、艮の金神、坤の金神を知らざりし為に、何程「我が在る」大将でも、初陣に損害を受け、末尾に大損昔からの大計謀を、一朝にして破壊さるる運命に立到るは、大本神諭より観察して瞭かな次第で在る。併し燈火の滅せんとするや、其光り殊に強し。今一時は旭日登天の勢を以て、著々目的を遂行するなれど、一厘の艮めと成つた時に、神国の経綸の奥の手を出して、手の掌を覆へして、天下泰平に世を治めて、天地の神へ御目に掛け、万人を平安無事に救ひ助くる中心点は、有難き事には、日本国に唯一ケ所ある事を衷心より感謝する次第であります。而て其中心地点は、読者の頴敏なる御判断に一任するより仕方は無いので在ります。
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 某地の海軍工廠では、是まで日蓮宗の僧侶や基督教の牧師を招いて、精神修養の御説教を、海員一般に注入して居た。処が坊主や牧師の御託宣では、薪に醤油を浸した程の功力も無いと在つて、此頃は浪花節語りを頼んで、時は元禄十四年を唸なつて貰らふ事に成つた。所が非常な大人気だと曰ふ。宗教家も茲まで、無能視されては、最早末路であらう。
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 横須賀の土産に、諏訪神社と曰ふ立派な御宮がある。其神社に奉仕する神職某に、或る人士が、神様は如何なる御方かと、コハゴハ尋ねて見ると某言下に対へて曰く、神だの仏だのと云ふやうな怪しい者は実際に於て無いものだ。実は形式に過ぎないのだと、アア実に不敬も甚だしいでは無いか、斯んな神職が沢山に存在して居る間は、皇道も神道も発展せないのは、寧ろ当然の結果であらう。彼は大本教祖の神諭を評して易の毛が少し生えたものだと、妄断して居るので在る。愚蒙も竝に至つて極まれりと、云ふべしである。
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旧八月十二日午後瑞龍園山上の神社、天照皇大神宮に中村、田中、深町、福本諸氏と共に参拝せむとし、瑞祥閣を立ち出づる際、一天曇り甚だしく、大雨まさに来らむとす。
  今しばし降らずに坐ませ水分の神のいさほのしるし在りせ婆
昇水の霊なるア行のウ声を一度高唱するや、忽ち小雨となる。直ちに深さ三十間の岩穴に提燈を携へ一行奥深く進み、神界の経綸の固くして動かず、深くして測知すべからざるを感謝す。
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日蓮上人の辻説法したといふ旧蹟の前を通り、時の執権北条時宗の胆力を追懐し同時に、大塔宮、源頼朝、青砥藤綱などの事蹟連々として胸に浮かび来る。アア我今神命を奉じてここに在り。千古の神契実に神妙不測の感なき能はず。
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地質学上より見たる大地の中心点に、天下無類の大化物が顕現して、丹波の真奈井の石清水と五十鈴川の清流を酌み上げ、駿河と美濃と尾張の米を掲き研ひて、古今独歩珍無類の美味を有する大本の濁酒を醸造し、これを天下に普く売り出したる所、上戸も下戸も先を争ふてこれを飲み、酔ふて管巻くものもあり、歓び勇んで踊るもあり、笑ふもあり、泣くもあり、怒るもあり、顛倒するもあり。されども一旦美味を覚えた上戸も下戸も、再び呑まずにはゐられないと見えて、各自に小言を並べ管を巻きつつ、盛んに大本濁酒を買つて飲まんとするものの日に月に殖えるばかりである。しかし神諭所示の如く、七月十二日も過ぎたることなれば、最早濁酒の売り出しはやめねばなりませぬ。その代りとして三千年間の日子を費やして、神の造られた清酒の売り出しを致します。酒の名は大江山の鬼ころしと命名しました。何人も勝手次第に汲み取つて下さい。売るといつても決して代金は請求致しませぬ。ただただ丹波の山奥まで来て頂くのが御苦労であります。しかし世界の鬼を退治して心の鬼を殺す、力のある酩酒である事だけは、どこまでも保証致します。今度の清酒をよく燗をして、適度に飲んで、腹綿へ浸みこましさへすれば、今までの濁酒を呑んだやうに、泣いたり、怒つたり、下らぬ管を巻いたりする心配はいりませぬから、安神して買ひ求めを希望する次第であります。今までの濁酒といへどもよく注意して飲んでゐた人には良薬にこそなれ、決して毒にはなつてゐないのであります。ただ下戸の中に一人や二人や三人ぐらい悪酔ひして、乾坤一擲と云ふやうな管を巻いて、皆さんに心配をかけた泥酔者が、少しく現はれたに過ぎないのであります。しかし飲んだ酒なら酔はねばなるまい。酔うた酒なら醒めねばなるまい。忠臣蔵の文句じやないが、いづれさめる時が来るでありませう。
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神国の畠をサツマ芋や丁子が荒らして来たのであるから、跡の整理も荒らしたものがする責任があるにも拘はらず、雲にかくれて首を出さぬ大熊の卑怯さ。これも自業自得とは云ひながら、よくも行き詰まつたものだ。俗謡に「あとの始末は誰がする鬼が出て来て始末する」何だか肩が凝るような、我々は思ひがするのである。
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浅野将軍有異声 進言霊隊登高嶺 天地震動風雨起 皆是神洲清潔霊

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一声力震撼天底 一音駆風雨雷霆 大本言霊宇内冠 真言神語護朝廷

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旧八月七日、王仁一行、日本国の臍なる世継王山に昇り、言霊の実習を為す。大祓の奏上中、大雨巽方より襲い来る。忽ち白扇を披いて天津祝詞の太祝詞を高唱す。風伯雨師声に応じて東北に去る。旧八月八日浅野氏一行の言霊隊を送る時、前記二首の蕪詩を詠す。一隊は近江国伊吹山に、一隊は大和国大台ケ原に登る。大台ケ原は綾部の正南方に位し、伊吹山は正東方に位す。大台ケ原に向ひし一隊は八月十一日絶頂に達し、伊吹山に向ひし一隊は八月九日に絶頂に達し、各自声調を揃へて、天津祝詞並びに大祓詞を臍下丹田より伊吹き放ち、七十五声を幾度も繰り返し了つて下山す。今回の挙はただ単に探険に止まり、実際的の神業ではありませぬ。されど言霊の妙用は忽ち顕現し、十月五日(旧八月十三日)台風○○○○の山麓紀州沖に現はれ、地動これに伴ひ、山系の能登に反響し、次いで名古屋、静岡、信越地方に突破し、○○○○終に東都を襲はむとする時しも、王仁幸ひにして鎌倉に在り、神宮山に登りて言霊を活用せし結果、東京方面の被害を免がる。アア言霊の天照国。アア言霊の幸ひ助け生ける日本神国、天祖の神勅言向け和す、世界統御の深遠なる御経綸、吾々は感慨無量である。

 毎年九月は我国に於ける輸出超過期なるにも拘はらず、成金者流の奢侈熱の隆盛なる為、却て輸入超過の変調を来たしつ丶あり。通貨膨脹に伴ふ国民の消費力は、益々増大し、物価は日に月に暴騰し、殆ど停止する所を知らず、神諭所示の如く、猪一疋の餌は、白米五舛の騰高を視るかとまで案じられるのである。物価騰貴の半面には、民間の事業界にては、賃銀の増加を要望して、怠業又は同盟罷業の頻発に苦しめられ、厳重なる官紀の下に在る官吏社会や、教育社会に於ても、増俸の要求、頻々相踵ぎ、今や其の官吏たり、教育家たる体面を保持するに暇無く、終に怠業または同盟罷業に類する態度を採るの、止むを得ざるに立到らしめたのである。茲に於てか貴族院の活動となり、現内閣に向つて警告を発したのは、機宜の所置ではあれど、既に已に十数年以前より培はれた我が在るの奸計に、甘々と乗られたる日本の社会は、何人が出て内閣を組織するとも、到底現在国民生活の不安に、思想界の動揺を救治する事は不可能である。神諭にトント行詰りた処で、何程気が附いて焦慮りても、百日の説法屁一ツにも成らぬぞよと出てある通り、焦頭爛額の危急に迫つてからは、聖人賢哲の応急策も、何の効果も揚らないのである。只此上は行く処まで行かして、後の修理固成の神法を極め、最終の準備に専心注意するより外に、天下国家を救ふ道は無いのであります。
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 清濁併せ呑むは英雄の心事である。吾人は清濁併せ呑む所でない、毒蛇でも悪人でも劒でも、平素常食の如うに心得て居るから、三本や五本の刃位いは咽に触らない。乾坤を呑んでも少しも痛痒を感じない程無神経である。如何となれば、宇宙万有の主宰に坐します、宇宙の大神霊と同化し、神人合一し、以て既に已に宇宙そのものを呑んで了うて居るから、五大洲位ゐ呑んだ所で、余り喉に約ないからである。斯く言ふ時は、吾々は大言妄語するものと評されるで在らうが、真に皇道神道を解し、大本教を覚り、神人合一、顕幽一致、精神統一の境地に入て見れば、決して吾々の言の架空にあらず、妖言にあらず、妄語にあらざる事を知り得るに至るのであります。
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 五六七の神世には、文明の利器益々発達して海水を減じ、坤輿を縮少し、世界の隅々まで、親く坐ながら談話を交換し、一切万事鏡の如く、明かなる時世となるのである。今日の発達したる交通の機関や、通信機関の利用も皆弥勒出現の先駆であります。只弥勒の世に於て採用すべ可らざる文明利器は、電鉄及び飛行機、飛行船等である。然るに頑迷なる信者の中には、一切の文明利器は、五六七の神世には用られ無いで、太古の不便利な社会に逆戻りする事を以て、神代復古の目的の様に考えて居られる方もあるやうですから、誤解されない様に老婆心ながら注意して置きます。
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 言霊の実習に就ては、種々の形式があるものですが、一々七十五声に就いて説明する時は、到底百頁や二百頁で書き尽す事は出来ませぬから、実地の説明により、茲には省略します。
 要するに言霊の発声は、天地の水火に合致せし時を考へ澄し、臍下丹田に息を詰め、其息が自然に秋の木の葉の風も無きに、梢を離て落る如うに、丹田より少しの支障も無く発する様にならねば、真の言霊の活用は不可能であります。是は何しても百ケ日位の練習を要するので在ります。併し一兵卒を教育するにも、現役二年の厳格な修養が必要である。
況んや一声の下に天地を震動し、一言の下に風雨雷電を駆使する大神法に於てをや。相当の苦辛と修養を要するは当然の道理であります。
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 八月十五日、朝来快晴、王仁数氏と共に鶴ケ岡八幡宮に賽す。一昨々年の祈願成就御礼のためなり。折柄、煙草専売局芝支局赤羽分工場の職工慰安会と在つて、自動車、腕車の往来最頻繁、数千の女工は白襷十字に文どり、何事か一斉に歌つて居る、八幡宮の拝殿には洋服の紳士、数十名が並列して、女工に向かつて賞与して居るのは良いが、神聖なる官幣社の拝殿に西洋靴を所狭きまで並べて在るを見ると、実に上流社会の敬神思想に乏しく、神明に対し奉りて、不敬の罪科赦すべからざるを、慨歎せずには居られ無かつたのである。次に楼門を潜り、社殿に拝跪し、感謝数刻の後ち、社務所に至たり、神饌料を奉献す折りしもあれ、野木常月田能村直入の守護神、洋服に沓の儘、社務所の椽を通りて、昇殿参拝するを見る。アヽ神聖なる大神の神庭までも斯くの如く体主霊従の悪魔に蹂躪されたるか。此所斗かりは至清至潔にして、一点の汚濁なかるべきに、時勢の悪潮流は何処までも暴威を逞ふする乎と思へば、国家の前途、益々懸念に堪えず。直に社殿を拝辞し、国宝一ノ鳥居の傍、畠山重忠の墓に立寄り、今昔の感に打たる。次に男爵○○○○氏の別邸に王仁、社、深町、訪問し、午後一時過ぎ同邸を辞し、瑞祥閣に帰る、由井ケ浜、滝の口、稲村ケ崎、源氏山、牡丹餅寺等、歴史上の追憶浮み来ると雖も、王仁の守護神巡覧を許し玉はず、五日の滞在中、今日一回の他出を赦されしのみ。神明に仕ふる身は、勿体ない事乍ら、実に窮屈至極なものである。
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 変性女子は悪の御用が命してあると、神諭に出て在るのを見て、直ちに悪役呼はりをする人も在るが、悪と謂ふ意味は、神聖なる神界から見ての悪役であつて、人間界から見ての悪では無い、寧ろ俗悪世界の一般人に比較すれば、決して悪と認むべき行為は、絶対に無いと謂つても好い。遙に善行者の方である。別に法律を潜るやうな事は一つも無いのみならず、君国に対しては実に忠良なる臣民たる事を、自覚して居るのであります。要するに神界に仕ふるものは、至純至精の神格を具えて、天神地祗八百万の神々に対して、善の模範を示し、言霊一声の下に天地を動かし得る、天津誠の道を実行せぬ間は、神界の所謂悪の御用である。
 是が実行成し得るだけの誠が身魂に具足したならば、神界の所謂善一と筋の行ひであります。今日の世の中で、忠臣じや、義士じや、慈善家じや、聖人じや、学者じやと云はれて居る位では、神界にては善人じや、聖人じやとは仰せられないので在る事を覚悟して貰いたい。
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 言霊の活用の偉功あるは、○○○○と○○○の実験に由りて、既に証明されたので在ります。即ち一週問以内に天地の水火を左右し、国防上の大権威を発揮せしは、天祖の言向和せの神勅の確固として万古に動かず、言霊の幸ひ助け天照り、生ける神軍の兵法、数億万の大敵をも決して恐る丶に足らざるを、心底より教授されたのであります。国家は実に危急存亡の一大事の時である。日本国民は一日半時も愚図々々して利已主義に耽つては居られない場合である。殊に神の特選に預つた大本の信者は、此時此際万障を繰合せ、君国の為に一日も早く言霊の実習を初めて貰はねば、肝心の言霊が曇つて居つては、イザ鎌倉と云ふ場合に成つて、トチ面貌を振て、狼狽えねば成らぬ如うに成りますから、御神諭所示の通りに、一日も早く綾部の大本へ出て参ゐり、いろはからの言霊活用の勉強を為て戴かねば成らぬ事に成つて来ました。綾部は日本国を人体にたとえて、臍下丹田である。人間の息は皆此の下津岩根に納まつてありますから、此の霊地即ち神言発祥の場に於て、研究否な奉修せざれば到底十分の卒業は出来ませぬ。今迄に言霊を実地に応用して和歌を詠じ、雨を降らせた人は、彼の有名な小野の小町只一人ぐらいなものであって、外には未だ曾て一人も有りませぬ。机の上や書物の上で、言霊の功用を説いた人は、今迄に沢山に現はれて居りますが、是を弥々実地に活用する事を知つたのは、大本が初めであります。要するに今迄の言霊学は準備や研究の時代で在つて、活用の時機で無かつたからであります。
 五六七の神の生き宮に降らせ給ふに由て、始めて実用時代が到来したので在りますから、今日まで活用を赦され無かつたので在ります。併し何程言霊が清まり、活用の域に達しましても、五六七の大神の御委任なき時は、到底功力は実現するものでは無い。是には神界に於いて、最も深遠なる御経綸の在る事でありますから、今日は説明する事は出来ませぬ。
兎も角も国家を思ふ忠誠の士は、一日も早く御習得あらむ事を希望いたします。惟神霊幸坐。
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教祖様の神諭に、世の立替が神界の経綸とは十年延びたと書いて在りますのを、非常に誤解して居られる人士も少々在るやうに聞きますが、神界にては三十年の間に、全部立替と立直しを遂行さるる御予定で在つたのが、立替のみに三十年掛られたのであります。今年は満二十七年以上に成て居りますから、茲三年が立替の正念場で在ります。立直の段になれば、仮令十年か丶つても建設の方でありますから、案外容易に神業が進み、亦た吾々信者も楽に御用が勤まる事と思ふので在ります。御神諭の文中に、上は破れる下は壊げるぞよ。出て来だしたらバタバタじやぞよ。と警告されて在るが、私は十月二日に綾部を出立してから、僅々一週間の短時日に出現した不祥の事実は、大略列記すれば左記の通りである。是を見ても、如何に世界は何彼に付けて切迫して居るか父分るのである。曰く大蔵省判任官の増俸同盟、会計検査院の判任官増俸同盟罷業、曰く日比谷公園の音楽堂に於いて官吏の増俸期成大会を開らいて、各官署や会社の下級員に勧誘運動を開始する、曰く政友会本部の全焼、労働時間八時間問題の沸騰、曰く京阪在住の侠客連中の首相、内相面会申込み、曰く郵便飛行通信の失敗、曰く労働代表者に対する反対運動、曰く各地工場に於ける怠業、罷業の大流行、曰く物貨の暴騰、曰く府県郡会議員選挙違反事件の検挙、目く大阪に於て全国労働者大会の開催、曰く大東島暴風雨被害者無数倒壊家屋二百戸、曰く米国船舶局の新造船シャートル、スヒリット号(五八六二頓)紀州沖にて暴風雨の為推進器を破壊し、航行不能となる。其他殺人、強窃盗、詐偽、自殺等の不祥事は新聞紙を埋め、維遜氏危篤又は発狂の報に加へて、米支対日外交の行詰り、西比利亜問題等、数へ来れば実に際限が無いのである。斯る現今の世状を何んとも思はない日本人で在つたならば、日本魂は既に已に抜けて了つて居ると謂つても差支ないのである。吾々神の道にあるもの、君国の為一日も早く神の教を遵奉体得して十二分の尽力を為し、祖先墳墓の日東帝国を守らねば成らぬ。
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 国際聯盟協約は、既に已に実際的に空文と成り、過去の歴史として、其形骸を留むるに過ぎないのである。世界各国共に利害相反し、反間苦肉の政策盛に行なはれる、今日の状況より審神する時は、何しても神諭所示の如く日本を中心としての、世界大戦争が再発するは、明白なる事実である。日本国民は下らぬ小さい争論を止めて、胆識を大にし以つて、今後の国難に当るの大覚悟を必要とする。就いては吾々大本の信者は、一身一家を顧慮せず、一意専心に敬神忠君報国の至誠を天地に貫徹し、以て我同胞に範を示さねば成らぬ。我修斎会の活動も、弥々本舞台に入りかけたから、会長以下役員の努力を肝要とするのである。
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 豊葦原中津国の瑞穂に稔る日本米を常食とする神国民は、他の肉食人種に優りて非常なる勇気を持つて居るものである。併し半搗米で無いと、精製した雪の如うな白米を常食にすると、却つて勇気が無くなるものである。米は大体陽性の植物であるから、楽天主義の元素であり、且つ清潔主義の元素である。又た日本の河海池沼等に産する魚類を常に食用する時は、智を養ふ効力がある。魚肉と雖も余り毎日食用すれば、却つて血液が濁り、精神状態に又肉体に変調を来たす恐れがあるから、魚肉は一週間に一度位ゐが、智力を養ふ点から見れば適当であります。又た魚肉を絶対に廃する時は、智力の減退を招く如うになるものであります。
 それから野菜を常食の副物に用ふるのは実に結構で、滋養物に富み、身体の血を清く為し、仁の精神を養なふものである。故に教祖の神諭にも、日本は清らかな神の血筋の人民の住居を致す神国であるから、五穀魚類野菜さへ喰て居さへすれば、身体も壮健になり、悪い病神なぞに犯される事もなく、誠の日本魂の人間になれるのであるぞよ。と、示されて在る所以であります。之に反して猛獣の如うに、肉食斗りをして居る外国人は、血液が常に濁り、且つ又猛獣の如き無慈悲な精神に化して了ふのである。今日の日本人と雖ども、常に四足ものを食ふ人々は、実に利己主義で無慈悲で、人を倒してでも自分の名利栄達を図る事斗りに熱中するやうに成つて来たのは、肉食の関係から来たものであらうと思ふ。
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 神界にては無形に視、無声に聞き、無算に数へ玉ふが故に、時間空間に超越して、過去、現在、未来の区別も、殆ンど無いのである。未来の出来事と雖も、既に已に眼前に映じて居るのであるから、神諭にも、神は世の元の根本の因縁から、万古末代のさきの事まで、鏡に掛けた如くに好く判りて居るぞよ。前の視えぬ神は、誠の神で無いぞよ、と出て在るのは、真正の神の教であると云ふ事の証言であります。神諭に、三千年の神の経綸であるから、毛筋の横幅ほども間違ひは無いなれど、日時は少し位延びたり、縮みたり致す事はあれども、延ばすのも神界の都合の事であるぞよ、と示された如く、多少の伸縮は、神と雖も現界との接触関係上止むを得ざる次第で在ります。然し今日の世態より仔細に観測する時は、何しても世の立替立直しの、実行期に迫つて来てある事は常識判断から視るも、明白な事実であります。
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 大本の神諭本年一月号に、○○○今の○○○の行状を見れば、奥山の谷の奥深き、人民の能ふ行かぬ所で、四ツ足と一つになりてジヤレて居りて云々とあるを、大本を潰さうとする悪神の守護神が、大変な事に態と曲解して吾々を○○式じやと誣ひ、○○へ○○して活動を行つて居るさうで在るが、誤解か誣言か知らぬが、実に呆然たらざるを得殿のである。我心の通りに取る神諭であるから、自分の心に邪悪分子があると、総て善良なる教義でも、邪悪に映ずるのである。さう言ふ連中こそ実に油断のならぬ非国民である。○○○今の○○○と云ふ事は、「日本の今神教者と云ふ事の○○である。今の各派神道家は、普通人の行かれぬ如うな深山幽谷で、滝に打たれるとか、荒行するとか、表面に言触らし、大台ケ原山とか御嶽山とか不二山などへ人気取りの為修業に行き、無智なる婦女の稲荷降し、四ッ足の守護神等と十中の八九まで怪しからぬ事を行つて、国家が危急に迫つて居らうが、外国人に自由に為られやうが、少しも念頭に無く、神国一の神道家の行状が出来て居らぬと云ふ事を誠められた神言であります。亦千里万里の奥山に住む山の神の精神が悪い云々と云ふ神諭は、所謂外国の某陰謀団が既に日本国の山の谷々まで乱しに掛つて居る事の神文である。雌鶏の晨を告る世であるから云々の神文は、唱ふべからざるものが唱ふと云ふ意義である。日本は神の国、天津日嗣天皇の知食す世界の宗国であるのに、日本の国体の精神を忘れて、外国の政治思想に惑はされて、得意に成つて居る人民は大多数を占て居るから、天津誠の神界の経綸に奉仕する資格は絶無であるとの誠であります。某々の如き誤解を招く信者が出来ては困るから、念のために一言注意しておく次第であります。自分の心だけに取る神諭でありますから、何程誠の教でも、心に悪のあるものは皆悪に感得るのであります、神諭を十分に注意して御研究されん事を希望致します。
(「神霊界」大正八年十一月一日号)
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