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文献名1大本史料集成 2 >第2部 昭和期の運動
文献名2第1章 運動の概要 >第4節 随感録 >(二)五色草よみ(新仮名遣い)
文献名3第1章 弥勒の世よみ(新仮名遣い)
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ページ389 目次メモ
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(九月十五日午後於五六七殿教主輔大先生御講演筆記)
 五六七殿は昨日迄は門戸開放主義でありました。併し愈々神様の御祭を致しましてからは何も分らぬ人が始めて研究に来ると云ふ如な事であつては誠に神様に対して相済まぬ次第であります。恐れ多くも神様を研究して見様と云ふ様な精神の人は亀岡道場の方へ行つて貰ふ様に願ひます。それであそこに大道場を拵へたのであります。此処に御出でになる方は総て稍と徹底した人、神様の稍々分つた人、斯う云ふ人に今日から此処で御話する事になつたのであります。尤も急に今日から始める事でありますから、充分には行かぬか知れませぬけれども、是迄の様な、学究的の話はせぬのであります。唯神様や皇室の尊い事、有難い事許りを御話する事になりました。それで結構な神様を御祭りになつて居るのでありますから、今迄の様に趺座をかいたり足を前に投げ出したりする様な人は一切断る様になつたのですから、其の御考で願ひます。

 御筆先にミロクの世が出て来ると云ふ事が載つて居ります。是は仏法の法滅尽経にも出て居ります。又阿弥陀浄土の教が滅ぶる時に、弥勒菩薩が現れて来ると云ふ事が出て居ります。基督教でも天国が来ると云ふ事が聖書に出て居つて、神道で云ヘば、松の世、即ち神の世が出て来る。斯様に皆知らされてあります。所が御筆先を始終読んで居る様な人が、弥勒の世は何時出て来るかと云ふ事を尋ねて来ることがあります。而も十年或は二十年も御筆先を戴いて居る人が、斯の如き事を尋ねて来る。斯う云ふ事は、とうの昔に分らなければならぬ筈であるのにそんな事を尋ねて来ると云ふ事は、実に呆れて、私は開いた口が閉がらぬのであります。それで私は御筆先の上から、弥勒の世が何時から始まて居るかと云ふ事を一言御話したいと思ひます。
 弥勒と云ふ中には、法身、応身、報身と三つに分れて現れて居るのである。所謂明治二十五年の正月元旦に国常立尊が愈々ミロクの世が来ると云ふ事を御知らせになつた。是は明治三十年からと云ふ事で、明治三十年に神界の世の立替をする、さうしてミロクの世、神代が地上に来ると云ふ事が書いてあるのであります。さう致すと、教祖は明治二十五年に現れ玉うたのであります。神様の御道の中に御這入りになつて、愈々法身弥勒の御働を遊ばしたのが明治三十年からの事で、法身弥勒は至善、至美、善一筋の遣り方をなされる所の神様であります。所謂弥勒の出現と云ふ事は、霊体を以て現れられたのを、時節到来して、茲に或形体を持つて此の世に現はれたのでありますから、明治三十年からは弥勒の世になつて居るのであります。それから又三十年で世の立替をすると云ふ事は、明治二十五年に御筆先が出ましてから、三十年後と云ふ事になる。此の御筆先はどちらにもとれる。丁度皇典古事記を解釈致しますと、其の時代々々に応じて、活生命を具備せる予言が書いてあつて、大正の世には、大正の世のやうになつて活きて居り、明治初年には、初年の如くに活きた教訓であり、又徳川時代には、徳川時代の活きたる解釈が出来るやうになつて居ります。是が古事記の名文たる所以であります。御筆先もさうであつて、其人の身魂相応にとれる、又時代々々によつて活きた解釈が出来る、実に伸縮自在な教である。此の法身の法と云ふ字は、水扁に去ると云ふ字である。それで此の法身弥勒の御代身たる教祖様が、本当の法身になられたのであります。
 次に善人、真人、聖人と云ふ事に就て少し御話致します。善人と云ふ事は善なる人、誠の人と云ふ事であり、美人は読んで字の如く、風貌の美しい人である。是には心の美しい人もあり、形体の美しい人もある女を大抵美人と云ふけれ共、中には醜婦もある。男が溺死すれば土左衛門と云ふけれ共、女は必ず溺死美人と云はれます、然し美人善人と云ふと、美しい人、又善人計りであるかと云ふに、必ずしもさうではない。茲に善悪の標準から考ヘて行かなければならぬ。人を殺せば国法によつて、自分も殺されなければならぬ。けれ共時と場合とによつて、勲章を貰ふ事がある。例へば宣戦の詔勅が下り、大君の御命令に依つて出征をした時に、敵を斃して多数の人を殺す。其時は勲功者、殊勲者として、罪になるどころか勲章を戴くのである。斯様に時と場合とに依つて、悪い事ともなり、善い事ともなる。爰に至つて善悪に迷ふ事が出来て来る。宗教は人を殺す勿れと、唯単に教へ居るが、是では戦争が出来なくなつて了ふ。此の善悪の標準は何処に在るかと申しますと、日本人は皇祖皇宗の御遺訓及び明治天皇の下し給へる教育勅語並に戊申の御詔書、五箇条の御勅諭、之に合致したものが善で、之に違反したものが悪であるから、此の標準の下に善を行つて行かなければならぬ。或は一家を円く治め、隣人と親しみ、知己朋友の中に苦しんで居る人があるならば、自分の力丈の事を尽して助けてやる。是が慈悲深い人で、斯う云ふ人を指して善人と云ふのである。実に一点の非難の打ち所のない人、斯う云ふ人を本当に偉い人、善人と称するのである。即ち善人と云ふ事は、法身弥勒の事であつて、世の中を善一筋に治め、善の鑑をなされた教祖様や、是に類した善行を励まれた人の事であります。
 次に応身と云ふ事でありますが、是は身に応ずると云ふ事である。例へば盗人に向つて、頭から不可ぬと叱つても中々直らぬ。自分も共に盗人の群に這入つて、一遍位は自分も盗人をやつて見る。さうして此の行はいかぬと言つて、本当に改心をさせる。又芸者買ひの好きな人がある、之も同様に自分も一緒に行く。さうして斯う云ふ事は詰らぬから止めようではないか善い事ではないと云つて、責め諭して改心をさせる。博奕打とても其の通り、斯う云ふ具合に之に応じて改心をさせる、是が応身と云ふ事であります。仏法の観世音は、三十三世相を変へる。是も其通りで、観音様は天照大御神ともなり、木花咲耶姫ともなり、或時は天佐具女ともなり、又下照姫ともなつて、色々変化をされます。是は何であるかと云ふと、丁度応身と云ふ事と同じ働をして居るのである。つまり盗人の群に自分も交つて、さうして改心をさせると云ふ事が、観音の働であります。それでありますから、法身の弥勒、即ち善人から之を見ますと、応身の弥勒は非常な悪にも見える事がある。正邪善悪を超越して、社会の毀誉褒貶等は眼中に置かないで、天下国家の為に一身を捧げる、是が応身弥勒である。つまり人が悪く言はうが、笑はうが、そんな事には頓着しない。唯天下国家のため、飽までも自分の力のあらん限り、霊力の続かん限り、天下万民の為に一身を犠牲にする所の働であります。斯う云ふ人の行を見ると、気の小さい人は非常に恐れるのである。今日新聞や雑誌で非常に大本の事を喧しく言うて来出した。所が是は一つも的の中に這入つて居らない。影も形もない事計りを書き連ねて居る。例へば、天王平に於て出口王仁三郎首め、浅野総裁、小牧会長、二代、三代の五人の者が短銃で脅迫したとか、色々なことを気狂が喋って居る、さうして又中村古峡其他の学者が変態心理の学者であり乍らその変態なることを知らず一緒になって攻撃をやつて居る、斯んな馬鹿気た事は無からうと思ふのであります。その筋からは気違である間違ひであると云ふことを出して居るけれども、新聞と云ふものは妙なもので、自分が非常に悪く吹聴した事を後から直すと云ふ事を嫌ふ。新聞は嘘を書きながら、嘘だと云ふことは決して言はんのである。正誤を出した所が、小さい六号活字で、何処ヘ出したか分らんと云ふやうな具合で、世の中は斯様な有様になつて居るのであります。併し之を大きく考へて見ますと応身の働で、神界からさう云ふ具合にさせられて居るのである。御筆先に大本は悪く云はれて良くなる仕組であるぞよと云はれて、仕組まれて居るのでありますが、之が分つて居る人は結構であるが、併し一面から考へると、真直な人、天下国家を思つて、大本と一緒になつて尽したい人を、この為に誤らせる事があります。又中には斯う云ふ具合に悪く云はれるからには、大本には何か必ずあるに違ひないと思つてやつて参ります。これは先づ上等な人である。さうして此処へ来て見たならば、新聞や雑誌に書いてある事が、真赤な嘘であると云ふ事が一遍で分るけれども、世の人は総て新聞を迷信して居る。何でも新聞に出て居る事は、嘘のこともあるが、多くは正直なものであると誤解して、丁度官報と同じやうに見て居る人があるから仕方がない。
 ミロクの世と謂ヘば、天下泰平、至善至美なる世、安心な世、鼓腹撃壌の世の中のやうに思つて居る人が多いが、併し是が報身のミロクの世の中とならなければさうはならぬのである。夫迄は、ミロク様は応身となつて現はれ、総ての世の悪魔と戦はなければならぬ。ミロクには大自在天と云ふ敵がある、ミロクに百の力があれば、大自在天には九十九の力がある。若しミロクの百の力が一つ欠けたならば、大自在天は勝つのであつて、是ではどうしてもミロクの世になることは出来ぬのである。大自在天には財力がある。さうして今日は筆の力、口の力で攻めて来る。或は法律権力で攻めて来る。或は軍隊の力を以て攻めて来ると云ふやうに、どんな権力でも持つて居る。即ち九十九の力を持つて居るのであるが、ミロクの方はさう云ふものは何も持つて居らぬ。唯誠と云ふ一つの玉を持つて居るのみである。剣とか、弓とか、さう云ふ圧迫するものはなくて、唯誠一つで、大自在天の各種の力にぶつかつて行くのであります。さうして応身の働をせねばならんと云ふのであつて、ミロクの立場と云ふものは、実に苦しいのであります。さう云ふ事も知らずに、何時ミロクの世が来るか、何時立替があるかと云ふこと、それ計りを待つて居る人があります。神様の方では、明治三十年に立替をすると云ふ事が決つて居る。若し三十年に立替が出て来たならば、一人も助かる者はない。教祖様は一方には立替を延して置いて、一方には改心する者を、一人でも拵へる様にと、神様に御願になつたのであります。吾々もさうである、既に明治三十年と云ふ時期が来て了つて居るのであるから、何時何ん時でも立替は出来るのである。今でも出来るのである。けれども此処まで開けた此の世の中であるから、一人でも助けたい、餓鬼虫族までも助けたいのが、神様の大御心でありますから、之を助けなければ申訳がない。それで天地の神様にお詫をして、延ばして頂いて居るのであります。神の心と人民の心とは、全く反対であります。人民は早う立替が来たらよいと待ちつつあるが、若し今日突然立替が来て、所謂大三災が来るとしたならば、大本に於ても、十人と助かる者はないものの様に思ひます。皆考へが違つて居る、本当の神心になつて居らぬ。神様の御心に叶ふ心、即ち誠の心──善人になつて居らぬ。さうして一方には物質文明が益々発達して、汽車、汽船は頻々として往来し、空中には飛行機、飛行船が飛んで居る。又電信、電話も整備して、天地間と云ふものは非常に縮小して居ります。昔五年かかつたものが、今は五日と云ふ短時日で、飛行機で世界を一周する事が出来る、斯う云ふ具合に縮小して来て居るのである。之が軈て統一されて一つになる。もう一つに出来て居る。
 通信機関、交通機関が既に統一されて居るのであります。統一と云ふ事は、例へば電信電話が何処へでも通ずる、汽車ならば何処へでも行ける、是が電信電話汽車の統一である。即ち交通の統一である。斯うして余す所は唯精神界の統一が残つて居る丈である。吾々の魂は非常に曇つて居る。曇りに曇つて悪い血が流れて居る。併し目を以て無限大の宇宙を見ると、一遍で広い空界の現象が映つて来る。斯う云ふ様な結構な目を持つて居る。併し神様は尚夫れ以上に魂とか、言霊とか云ふ力を吾人に与へて居らるるのである。我々は目を以て無限大の蒼空が見えるやうに、耳も、鼻も、口も、悉く一身上の統一が出来なければならぬ。併し肉眼を以てしては形体丈は見え得るが、細かい所は見えない。日月星辰の輝いて居る事は分るが、目を働かすと同じやうに言霊を以て風雨雷霆を叱陀して其妙用を発揮し得る人は、未だ出来て居らぬ。
 斯くの如く地球上の事一切は皆片輪になつて居る。一方が進めば一方は退いて居るのである。日本の今日の国情を考へて見ると、愚図々々して居る時ではない、考へて見れば見る程、夜も昼も眠れぬ位に不安な状態になつて居ります。世界の思想界は混乱の極に達し、又資本家と労働者との軋轢、是も至る所に起つて居るのである。其の他国交上の問題等を考へて見ると、何うしても或る国と戦はずには居られないと云ふやうな有様であります。某国は既に着々として軍備を整へて居る。若し今直ちに○○が戦争をしたならば、○○は滅茶々々にされて了ふ事は分かり切つて居る。今でさへも此の通り、まして二、三年先になつたならば、到底勝つ事は望めない。物質的に勝つと云ふ事は出来ないのであります。今の中ならば何とかなるだらうと云つても無謀な軍は出来ませぬ。若しさうやつて旨く行けば宜いけれ共、若し○○が独逸のやうに敗けたならば、再び起つ事は出来ぬ。独逸以上の惨害を蒙るのである。故に戦ひも考物である。是は何うしても人事を尽す上に於て某国との戦争を免れ或は軽くして○○が勝つと云ふやうに、大難を小難にまつり代へて貰ふと云ふ事を考へなければならぬ。さうして手を尽していけない時には、所謂言向和はすと云ふ天照大御神の御神勅に依つて、言霊の妙用を発揮するより外はありませぬ。武士の言葉に二言なしといふ如く、若し言霊を一遍使つたならば、二度とは使ヘない。私も雨や風を必要に応じて降らせたり止めさせたり、又役員信者も之を行つて、実際に経験して居りますが、本当の事は一言一遍言つたならば、再び言ふことは出来ませぬ。無茶苦茶な事は出来ない。鶴の一声とか、武士の言葉に二言無しといふ事があるのに、まして神様の御道に二言のあるべき筈がない。唯一回である。それであるから非常に難しい。大なる修養を要するのであります。鼬が最後屁をしたやうなものである。最後屁を放つた鼬はモハヤ生命はなくなる。又蜂が人を刺すに一遍刺したならば其蜂の命が無くなる。それと同じ事で言霊といふものは、其の運用が軽々しく出来るものでない。魂を磨きに磨いて愈々と云ふ時に使ふ。国家の危急存亡の場合、又背に腹は代ヘられぬといふ時に使ふのであります。
 亀山上皇が元冦来襲の時に、身を以て国難を救はうと神祗に誓はれた。是も上皇の言霊の力であります。斯の如く大なる力を有つて居るのが言霊である。その代り之を屡々運用する事は出来ぬのである。それで応身弥勒のことは大略申し上げました積りでありますが、要するに物に触れ事に接して千変万化の働をする。さうして此の世の中が安けく平けく治まるやうに、上は天津日嗣天皇を首め奉り、下は万民の為に、世界人類の為に一切を抛つて尽す、之が即ち応身の働であります。例ヘて言ひますと、応身弥勒は米の種のやうなものであります。此籾を苗代に蒔いてさうして草を取る、それから田に植付けてまた草を取り、水を注ぎ、稔つた後は稲を刈り、稲木にかけ、臼でひく、さうして俵に詰める。此処迄にするのが応身の働であります。大本が思ふより早く発達するのは、応身のミロクの働であります。
 次に報身の弥勒の世になれば、皆が喜ぶ世になる。之を天国とも極楽の世とも云へるのでありませう。実に鼓腹撃壌の世の中になつて来るのでありませうけれ共、夫れ迄になるには一つの大峠があります。この大峠を越さねばならない。御筆先に『大難を小難にまつり代へてやる』といふ事が出て居りますが、この大難と云ふのは三つの大なる災で、風水火と云ふこと、又小難といふのは饑病戦といふことである。不作が続いて饑饉になる。或は虎列剌とか、ペストとか、チブスとか、流行性感冒だとか、斯ういふ事が起つて来る、之が小難であります。戦争も人事を尽したならば免れる事が出来るのである。故に是も小難の中に入つて居ります。総て人間の力に依つて、幾分でも防ぎ得るものが小難であります。けれども風水火は人力の奈何ともする事が出来ぬものである。能く新聞などに出て居りますが、小区域の風害があるけれども、これでさへ天文学者や如何なる智者でも、又角力取りでも之を奈何ともすることが出来ませぬ。水も又其通りであつて、大洪水などは奈何とも為がたい。
 又火に致しましても、火山が爆発する、さうして大地震が起る。或は桜島の噴火といふ様な事でも、人間の力では奈何ともしがたい。どれ程偉い地震学者で出ても、唯破裂の兆候があると言つて知らせる丈であつて之を防止する事は出来ない。只破裂した跡を研究する位の事しか出来ません。以上の如きものが所謂大難であります。若しこの風水火が起つたならば「ノア」の洪水以上のものになる。「ノア」の時は只洪水だけであつたが、此の風水火が働いたならば風攻め、水攻め、火攻めと云ふ事になつて、到底人力では奈何ともすることが出来ない。今日饑饉の兆候はないけれ共、このさき段々出て来るだらうと思ふ。病気なども頻発して居るけれども、是等は未だ防げるのであります。若し大難が起つたならば、世界が全滅するより外に仕様はない。故に大本では大難を小難にまつり代へて下さいと、お願ひするのであります。而して今の中は神様が天地を支へて居られるのである。世の終りが近づいたといふ事は基督教でも仏教でも唱へて居ります。それを神様が金剛力で支へて居つて、其の間に改心させて、一人でも余計に助けたいと御骨折りになつて居ります。それも知らずに、やれ大正十年頃だとか、十一年頃が本当だとか嘘だとか言つて、騒ぎ廻つて居る。若し大正十一年に大立替が来なかつたならば、吾々が先鋒となつて大本を叩き潰して了ふ、と言つて居る人等があるとか言ふ事で、実に面白い事であります。是は全く悪魔に魅せられて居るので、神様の事が分るどころか、利己主義の骨頂であります。斯う云ふ事でどうして弥勒の世が実現しませうか。若し誠があつたならば、さういふ事の無いやうに、世の中が平けく安らけく治まるやうに、祈つて居らなければならない筈である。斯んな考を持つて居つては、平らけく安らけく所ではない、大混乱大騒動を待つ所の悪魔の精神である。祝詞には決して大騒動が起るやうにとは書いてない。天下泰平を日々奏上して平けく安けくと祈りながら、心は全く反対になつて居るのである。斯んな不心得な事で何うするのでせうか。さういふ事を言ふ人は、千人の中に一人位は無いとも限らないでせう。又立替が来たならば自分は助かる、さうして今迄大本を讒謗罵詈した者は皆滅されて了ふ、実に好い気味だと思つて居るやうな不心得者も無いではない。チョイチョイ耳に這入ります。併しさういふ人間が真先に滅ぼされて了ふのであります。大本に来ないでも又大本の「オ」の字も知らない人でも、本当の誠の人であつたならば、こんな馬鹿な事は決して思はない。さうして大難も小難もないやうに、又大難を小難にする様に御祈りするのである。さうして今度の二度目の天之岩戸を開いて、立派なミロクの世として、神人共に楽しむと云ふ事が御筆先にあります。どうしても改心が出来なければ、折角御引受になつて誠に申訳がないけれども、已むを得ずのことがある、さうなつても決して神や出口を恨めて下さるなとまで、仰せられて居るのであります。此の全世界を自由にすると云ふ偉大なる神様が已むを得ずと云ふ事を仰せられると云ふ事は、余程現代の人間には愛想を尽かされてのことであります。今日の社会は人心の腐敗其の極に達し、畜生同然になつて居ります。平田篤胤翁が、
  これはしも人にあるやとよく見れば あらぬ獣が人の皮着る
と詠つて居ります。是こそ本当の人間かと思つてよく調ベて見ると、豈計らんや人間に非ずして獣である、つまり獣が化けて人の皮を着て居るのだと歎かれたのであります。その当時でも斯の如き有様であるから、まして数十年も経つた今日では、推して知ることが出来るのであります。物質文明が進歩するに伴れて、精神的方面は益々堕落するのであります。
 弥勒の世に住む人は、総て報身の働をしなければならぬ。報身の働となつて、国家天下の為に尽す、さうせぬことには、報身の世は現れて来ない。報身の世になると、すベての人は聖人君子計りになる。此世を指して神世と謂ひ、弥勒の世と謂ひ、或は天国浄土と謂ふのであります。
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