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文献名1神霊界
文献名2大正8年1月15日号(第78号)よみ(新仮名遣い)
文献名3教祖偉績こぼれ梅よみ(新仮名遣い)
著者岩田鳴球
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2016-11-28 01:34:28
掲載号1919/01/15号 ページ21 目次メモ
OBC M192919190115c04
本文のヒット件数全 1 件/本宮山=1
本文の文字数4565
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本文 教祖偉績 こぼれ梅 岩田鳴球

   教祖の霊示

 本宮山の麓、並松に面した踏切のそばに、ささやかな草屋が一軒あって、そこのお婆様は本年五十七歳、森下八重という名であるが、かねて教祖様の知り合いだと聞いていたから、ある朝咲き遅れた野菊の露を踏んで教祖様の話を聞くべく訪問した。
 息子さんは不在であったが、息子様の細君らしい女と子供が二人、他に四十五くらいの男の客が一人火鉢を囲んで話をしておる最中であったが、あわてて席を譲って快く話をしてくれた。
 教祖様と一緒に連れ立ってボロなどを買いに出たのはこの婆さんではなくて、お婆さんの亭主の岩之助という人であった。
 この人は教祖様の長男の竹造様と仲良しで、アホ正直(お婆様のお話の通りを書く)の方であったが、十九年前に病死したそうである。
 お婆様もまんざら教祖様は知らぬ仲ではなかったが、詳しい話は亭主から聞いて知っているのであって、むしろ教祖様よりは教祖様の長女のお米さんとは、自分が位田に娘でいた時分から友達のようにしておったとのことであった。
 亭主の岩之助様は元・河合の大地主で、熊野権現様のお世話もしていた家柄であったが、酒は好きなり、だんだん落ちぶれて、しまいには幾らの口銭にもならぬけど、飲み代にボロ買いをやったので、その時分教祖様と一緒になったことがあるのだそうな。
 お直さんは大変苦労した人で、娘のお竜さんもお澄さんも泣きの涙で暮らした人じゃが、今は大変出世をなさった。
 いつも子供らの見せしめに言って聞かしております。お直さんは発狂とると言って今森屋の鹿様が世話をして座敷牢に入れておったが、言うことは不思議に少しも違ったことはなかった。
 森下が商いに出るときはいつも牢の前へ行って、お直様に聞こえるように「ヘーット」と大きな声をして考え込むのである。そうするとお直さんが「岩さんか、今日は北の方へ行けば沢山商いがあるぞよ」と言われるから、きっとかと念を押して行ってみると不思議に商いがあるが、時々ためしに反対の方へ行ってみるとさっぱり商いがないので、しまいにはお直さんの言うちゃった通りに行ったということである。
 座敷牢の中から大きな声で怒鳴られたことは度々であったが「発狂とると言うけれど、私は神様だ、世の中の人は足元から鳥がたつのも知らんで、せんでいい苦労をするのじゃ」などと言われたこともあるし、綾部の人のことなども色々言われたが、あの折のお話はこれかいなーと、ヒシヒシ胸に応えるようなことが後から後から出てくるので、お直さんは発狂じゃなかったと思ったことも度々あった。
 それにいくら厳重に見張っていても時々牢から出られるが、どうして出るのか不思議だと鹿蔵様が言っておられたこともあった。「私は出やせんがチャーンと出す方があるで」とも言われたそうじゃ。
 牢から出られてからも、いろいろ仕事やら商いなどもされたが、饅頭と一緒に藁餅を拵えて売られたこともあって、珍しものだと思って買って食ったこともあった。
 「八重さん、人間は沢山苦労をせにゃならんで、難儀なときにはお互いに手を引き合うて行こいの」などと親切に言ってくれてぢゃった。
 裏町の倉におられた時分、森下が病気したからお頼みしに行ったことがある。いっぱし良くなって二度目に死んだのだが、そのとき御劔先を拵えて新しい御宮に入れて祭ったが、今も台の取れたままでお祭りしております。
 どう言うて拝んだらいいと聞いてみたら、金神様ヂコーヂン様(地金神か)天地金の大神様、艮の金神様とさえ頼めば、あとは私が頼んであげるでというお話であった。
 孫娘が火鉢の上へ転んで大火傷をした時は、森津由松様に金神様のお土を戴いてつけたらこの通り跡もつかずに良うなったと言って、わざわざ孫娘の手をまくって見せた。
 時々参らしてもらいたいと思うて出掛けてみることもあるが、知らん人ばかり大勢ござるから途中から帰ってくるようなこともありますという話であった。
 来合わせていた男の客人というのは権現様の前の出口松之助という人で、その人の話に私の母親はおみつという名で、三年前に七十三で亡くなったが、お直さんとは仲良しで、一緒に商いに出たから、母がおると昔の話なら何でも分かるのだがなーと、いかにも残念そうであった。

   神前の杉の木

 広前の御宮の前、右手の方に杉の木が一本あります。あれは以前、出口の家と四方源之助の家の境界の杉垣の杉であったのを、手入れをしなかったために、ヅンヅン延びてしまったのが一本残っておるのであります。
 出口の方から見れば垣の外になって、いつの間にか四方のもののようになってしまったのである。
 現在の広前横手の六畳すなわち別荘と称するところに、教祖様がおられた時の話であるが、当時信者として熱心に参詣していた木下慶太郎(現姓・出口)に向かって、突然教祖様の言われるには、「あの木は決して伐れませんぞ、伐ったら神様のお叱りがあるで」とのこと。
 木下は夢中でハイと言って承知はしたものの考えてみると妙な話だ、隣の四方の杉であるから、伐るも伐らぬも四方の自由であるのに、時分の持ち物のようなことを言われるのは不思議だと思ったが、いったんハイと言った以上、これはどうしても伐らしてはならぬと、それ以来この杉のことが心配になってたまらなかった。
 そのうち四方の家では主人が亡くなり、不幸が続いてだんだん左前になったので、薪にでもしないかとますます心配になってきた。
 果たせるかな、四方では幾度も幾度もこの杉を伐り倒そうと考えて、あるときの如き田中善吉に向かって、伐り倒してくれぬか、そうしたら伐り賃に半分やるとまで言っておった。
 田中はかねて教祖様のお声がかりの杉の木であることを木下から聞いていたから、いい加減にあしらってとうとう伐らなかったが、あとに御宮を建てるため、この四方の屋敷を買うことになり、木下が交渉してようよう大本のものになったので、初めて安心をすることができたのである。
 教祖様から伐ってはならぬと言われてから、六年ぶりで手に入ったのであった。(出口慶太郎談)

   神懸りに対する祈祷

 明治二十五・六年頃の話である。
 教祖様の神懸りは狐か何かが懸かったものだと考えて、教祖様の長女の亭主の大槻鹿造はどうかして除かしたいと思っておった。
 教祖様ご自身も肉体としては非常に神懸りを嫌われ、疑い通しに疑われておられたのである。
 そのころ小呂に算盤の名人がいて算盤で色々の判断をしたり、憑き物を除かしたりすることが上手だということを聞いて、鹿造同道で小呂へ行かれた。
 算盤師は子細らしくバチバチと算盤を弾かせていたが、やがて頓狂な声を立てて「コリャマー一体どうするつもりだ、こんなお宮を建てて綾部の町がひっくり返るような騒ぎになるが、身分不相応な大望だから、一層封じてしまう方がよかろう」ということであった。
 訳の分からぬ妙なことを言うと思われたが、教祖様も自分には別に望みも何もないので、糸引きにでも何でもして、親子が食いさえすればよいのであるから、封じるなら封じてくれろと頼んでおいて帰られたのである。
 そして神前へ行って御拝をなさったら、直ちに神懸りになられ、小呂の審は神の大望を知りながら、かりそめにも封じようとしたのは不都合であるから罰するという神勅であった。
 小呂の算盤師は自分の霊力を利用して、時折善からぬことをするという噂もあるから、あるいは神様が罰せられるかも知れないと半信半疑で一週間してから小呂へ行って聞かれたら、某はにわかに腹痛を起こして頓死したので、昨日葬式を済ませたばかりであるということで、教祖様は驚かれたそうである。
 山家に本経寺という法華寺があって、祈祷が上手だということであったから、ある日、教祖様と大槻鹿造と山家の銀十郎と、三人で祈祷を頼みに行かれたことがあった。
 坊主が祈祷を始めようとすると、教祖様は神懸りになられて「お前さん、そんなことしてやけど、大きな声でヨボル(怒鳴る)ぜー」と言われたが、坊主は知らぬ顔をして祈祷を始めた。
 大きな数珠で教祖様の手を幾重にもギリギリ巻きにして木剱で九字を切ったら、その数珠がブツリと切れて本堂一面パラパラに数珠が飛び散った。
 珠が飛ぶと同時に教祖様は坊主の頭を三つ叩いて「モット修行せ-」とわめかれた。
 神懸りが静まってから坊主にお詫びして、祈祷料をやって帰られたこともあったそうである。
 教祖様はこんなふうに最初は自分の神懸りを嫌われて、どうかして除かしたいと色々やってみられたのであるが、神様の経綸であるのだから、如何とも致しようがなかったのであった。
(湯浅仁斎談)

   霊火と水行

 四方平蔵が使者になって園部におられた教主を綾部に迎え、ここに首尾よく教祖と教主との結合が成りたって、大本の基礎が固まったのであるが、これは明治三十二年旧五月十六日のことで、教祖様が裏町の梅原伊助の土蔵を借りて、細き煙を立てておられた時であった。
 ここに記す話というのはその一年前すなわち明治三十一年の冬、雪深き折柄の一夜の話である。
 四方平蔵は毎日毎夜、鷹栖の自宅から裏町の土蔵へ通勤して、まめまめしく教祖様に使えておったのであるが、ある日御用の都合で帰宅の時間が遅くなったから、教祖様のお勧め従って一晩泊めてもらうことになったのである。
 教祖様は薩摩芋を切って芋粥を炊いて下さったが、その時教祖様は日の大神様の御火と、月の大神様の御水で炊いた、御土から取れた御米の御粥であるから、これくらい結構なものはない、天地の大神様に御礼を申し上げねばならぬというお話であったから、その通り御礼を申し上げて有難く頂戴した。
 雪で埋もれてはいるが、横は一面の桑畑で、葉のなくなった裸の桑が寒そうに震えている。その桑畑からまともに吹きつける雪は壁を通して寒さはシンシンと骨に徹するのである。
 四方は教祖様のご厚意によって炬燵へ入って寝んだのであるが、フト目を覚ましみると、教祖様は井戸端で切りて水を浴びておられる。
 ヤット済んだと思うて三十分ほどするとまた浴びられる。
 ほとんどお寝みになる間がないくらいの荒行。アア勿体ないことだと思って寝たが、夜中の二時頃フト目が覚めて見たら、やはり水を浴びておられるので、井戸端の方を見ると、暗中の教祖様のお姿が倉の戸口の方に見える。しかも髪の毛の半分白いのまでも明らかに見えるので、これは不思議だと思って振り返ってみると、祭壇の真ん中に青色の火が炎々と燃え上がっている。
 ちょうど硫黄を燃やすような火だ。
 また教祖様を見て、もう一度祭壇を見直すと、いつの間にか火は消えてしまって、教祖様のお姿はそれきり見ることができなくなった。
 ただ浴びられる水の音がザーザーと聞こえるだけであった。
 気味が悪くなって、それきり布団を引っ被って寝たが、ウトウトして眠り切れない。
 この夜は夜明けまでに、その後なお二三回は浴びられたようであった。
 翌朝起きてまた芋粥の御馳走になりながら、祭壇の青い火のことをお話したら、いつも神様が、そんなにまでして、お守り下さるのですぜ、というお言葉であったので、恐れ入ったことがあった。
(四方平蔵氏談)
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