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文献名1霊界物語 第36巻 海洋万里 亥の巻
文献名2第4篇 言霊神軍よみ(新仮名遣い)ことたましんぐん
文献名3第22章 春の雪〔1010〕よみ(新仮名遣い)はるのゆき
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-10-14 12:44:56
あらすじ神地の城は天恵的に火の洗礼を施され、すべての建造物は焼け落ちたが浄化された。また人々はその身にまったく傷を負うこともなかった。人々はサガレン王派も竜雲にしたがっていた者も、一同神徳に感謝した。そして天の目一つの神の導師のもとに、国治立大神、塩長彦大神、大国彦大神を祀る祭壇を作り、天津祝詞を奏上して感謝と悔い改めの祈願をこらした。敵味方、宗教の異動も忘却してひたすら神恩を感謝し、たちまち地上の天国は築かれた。サガレン王がもしもの時のための用意に造っていた河森川の向こう岸の八尋殿は、火災に遭わずに残っていた。王は一同を率いて新しい八尋殿に入り、天の目一つの神、君子姫、清子姫を主賓として感謝慰労の宴会を開いた。竜雲とケールス姫も、この宴の片隅に息を殺してかしこまっていた。悪霊が脱出した竜雲は、依然と打って変わってその身は委縮し、以前のような気品や勢いがなくあわれな姿になってしまった。人は守護する神の如何によってその身魂を向上したり向下したりするものであり、善悪正邪の行動を行うものである。また悪魔は、常に悪相をもって顕現するものではなく、善の仮面をかぶって人の眼をくらませ、悪を敢行しようとするものである。逆に悪魔のごとく恐ろしく見える人々の中にも、かえって誠の神の身魂の活動をなし、善事善行をなす者のたくさんある。ゆえに人間の弱い眼力ではとうてい人の善悪正邪は判別しえるものではない。人を裁く権力を有し給うのは、ただ神様だけなのである。みだりに人を裁くのは神の権限を冒すものであり、大きな罪なのである。悪霊が脱出して委縮した竜雲も、再び正義公道に立ち返って信仰を重ね、神の恩寵に浴すれば、以前に勝る身魂を授けられるのである。ケールス姫は一足先に改心をなしたため、比較的泰然としてこの場に会った。竜雲とケールス姫は懺悔の歌を歌い、恥ずかしげに片隅に身をひそめてうずくまっている姿は、人々の同情を誘うほどであった。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年09月24日(旧08月4日) 口述場所 筆録者加藤明子 校正日 校正場所 初版発行日1923(大正12)年12月30日 愛善世界社版247頁 八幡書店版第6輯 670頁 修補版 校定版257頁 普及版108頁 初版 ページ備考
OBC rm3622
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本文  神地の城は、天恵的に火の洗礼を施され、城内の悪魔は残らず退散し、すべての建造物は烏有に帰し、天清く風爽かに、土また総ての塵芥を焼き尽し、天清浄、地清浄、人清浄、六根清浄の娑婆即寂光土を現出した。
 サガレン王の率ゐ来れる正義の人々をはじめ、城内に止まりて竜雲の頤使に甘んじ、知らず知らず邪道に陥り居たる数多の人々も残らず目を醒し、広き城の馬場に集まつて、何れも身に微傷だにも負はざりし神徳に感謝の涙を流しつつ、天の目一つの神の導師の下に、国治立大神、塩長彦大神、大国彦大神を斎くべく、俄作りの祭壇の前に、天津祝詞を奏上し、神徳を讃美し、悔い改めの祈願を凝らし、敵と味方の障壁もなく、宗教の異同も忘却して只管神恩を感謝するのみにして忽ち地上の天国は築かれけり。
 神地の城は火の洗礼によりて、地上に一物も止めず烏有に帰したれども、サガレン王がまさかの時の用意にと、新に造り置きたる河森川の向岸の八尋殿は、未だ一人の住込みたるものもなきままに、完全に残されありしかば、サガレン王は一同の人々を率ゐて新しき八尋殿に立入り、都下の人々が先を争うて、火事見舞として奉りたる諸々の飲食を並べ一同を饗応し、且つ天の目一つの神、君子姫、清子姫を主賓として、感謝慰労の宴会を開く事とはなりぬ。
 ケールス姫も竜雲も亦悄然として、此席に恥かしげに小さくなつて片隅に控へ居る。人の性は善なりとは宜なるかな、ケールス姫は一時、妖邪の気に迷はされ、心汚き竜雲が計略の罠に陥り、恐れ多くもわが夫たり君たる国別彦の神司を無視し、且つ放逐したる其悪業を心の底より悔い、身も世もあられぬ思ひにて、良心に責められながら、つつましやかに片隅に息を殺して畏まり居る。又竜雲も一時の欲に搦まれ、悪鬼邪神の捕虜となり、悪逆無道の醜業を繰返したることを深く悔い、今迄犯せし罪の恐ろしく心の呵責に身の置き処もなく、人々に顔を向ける勇気もなく、頭を下げて片隅に縮こまり居る。今迄の竜雲は大兵肥満にして、一見温良の神人の如く見え居たりしが、己が悪事を悔悟すると共に、深く身魂に浸み渡り居たる曲神の、身内より脱出し終りたる彼の身は、忽ち縮小し、萎微し、以前の如き気品もなければ、打つて変つた痩坊主の見るもいぶせき姿となりしぞ憐れなり。
 これを思へば、総ての人は憑霊の如何によつて其身魂を向上せしめ、或は向下せしめ、善悪正邪、種々雑多の行動を知らず知らずに行ふものなるを悟らるるなり。神諭にも、
『善の神が守護致せば善の行ひのみをなし、悪の霊が其肉体を守護すれば悪の行ひをなすものだ』
と示されてあるは宜なりと謂ふべし。又悪魔は決して悪相をもつて顕現するものではなく、必ず善の仮面を被りて人の眼を眩ませ、悪を敢行せむとするものである。一見して至正至直の君子人と見え、温良慈悲の聖者と見ゆる人々にも、また柔順にして女の如く淑やかに見ゆる男子の中にも、悪逆無道の行ひをなすものがあるのは、要するに悪神の憑依して、其人の身魂を自由自在に使役するからである。又一見して鬼の如く、悪魔の如く恐ろしく見ゆる人々の中に、却て誠の神の身魂活動し、善事善行をなすものも非常に沢山あるものである。故に人間の弱き眼力にては到底人の善悪正邪は判別し得らるるものでない。人を裁くは到底人の力の能くし能はざる処、これを裁く権力を享有し給ふものは、只神様計りである。故に三五教の宣伝歌にも、
『神が表に現はれて善と悪とを立て別ける』
云々と宣示されてあるのである。漫りに人の善悪正邪を裁くは所謂神の権限を冒すものであつて、正しき神の御目よりは由々しき大罪人である。又心魂の清く行ひの正しき人が一見して其心の儘が現はれ、至善至美至直の善人と見ゆる事もある。又心の中の曲り汚れて悪事をなす人の肉体が、一見して悪に見え卑劣に見える事もある。総ての人の容貌は心の鏡であるから諺にも云ふ通り、
『思ひ内にあれば色必ず外に現はる』
の箴言に漏れないものも沢山にある。然るに凶悪獰猛なる邪神は容易に其醜状を憑依せる人の容貌に現はさず、却つて聖人君子の如き面貌を表はし、悪を行ひ世人を苦しめ、以て自ら快しとする者も沢山にある。故に徒に人の容貌の善悪美醜を見て其人の善悪や人格を品評する事は到底不可能なる事を考へねばならぬ。
 千変万化、変幻出没極まりなく、白昼に悪事を敢行するは悪魔の得意とする処である。悪魔は清明を嫌ひ、暗黒を喜び、暗にかくれて種々雑多の罪悪を喜んで行ふものである。然しこれは一般的悪魔の為すべき働きである。大悪魔に至つては然らず、却つて清明なる天地に公然横行し、万民を誑惑し、白日の下正々堂々と其悪事を敢行し、却つて心暗き人々より、聖人君子英雄豪傑の尊称を与へられ、得々として誇り、世人与し易しと蔭に廻つて、そつと舌を吐き出す者も沢山ないとは云へない世の中である。
 一旦悪魔の容器となつて縦横無尽に暴威を振ひ、旭日昇天の勢を以て数多の部下に臨みたる竜雲も、悪霊の神威に恐れて雲を霞と脱出したるより、今迄威風堂々たりし彼も今は全く別人の如く、身体の各部に変異を来し、非力下劣の生れながらの劣等人格者となつてしまつた。されどもこの竜雲にして、再び正義公道を踏み、信仰を重ね、神の恩寵に浴しなば、以前に勝る聖人君子の身魂を授けられ、温厚篤実の君子人と改造さるるは当然である。ケールス姫は竜雲に一歩先んじて心の妖雲を払ひ、心魂に真如の日月を輝かし、前非を悔ゆるに至りしかば、今此場になつても比較的身魂を動揺せしめず、自若として神に一身を任せつつあつた。
 竜雲は恥かしげに立ち上り一同に向つて懺悔の歌を謡ひ、天地の神明に謝罪の誠を尽した。其歌、
『天と地とは古の  無限絶対無始無終
 神徳無辺の大神が  陰と陽との息をもて
 造り固めし御国なり  国治立大神は
 天津御神の勅もて  尊き御身を顧みず
 豊葦原の瑞穂国  下津岩根にあもりまし
 大海原に漂へる  島の八十島八十国を
 完美に委曲に造り終へ  百の神人悉く
 守らせたまふ有難さ  神世はやすく平けく
 治まりまして吹き荒ぶ  醜の魔風の跡もなく
 罪も汚れも無かりしが  神の御息に生れたる
 蒼生の親とます  天足の彦や胞場姫の
 天地の道を踏み外し  皇大神の御心に
 背きたるより天ケ下  四方の国には汚れたる
 妖邪の息は充満し  其息凝りて鬼となり
 八岐大蛇や醜狐  醜女探女を発生し
 世は常闇となりにけり  それより漸く世の中に
 悪魔は盛に蔓りて  天地曇らせ現身の
 世人の身魂を蹂躙し  尊き神の生宮と
 生れ出でたる人の身を  いつとはなしに曲神の
 珍の住家となし終へぬ  吾も神の子神の宮
 恵に漏れぬ身なれども  いつとはなしに曲神に
 つけ狙はれて由々しくも  天地容れざる大罪を
 重ね来りし恐ろしさ  至仁至愛の大神は
 吾等が汚き行ひを  憐みたまひて忽ちに
 各自に洗礼与へまし  心に潜む曲神を
 苦もなく追ひ出し給ひけり  あゝ惟神々々
 御霊幸倍ましまして  サガレン王に背きたる
 吾等が罪を許させよ  ケールス姫を朝夕に
 汚しまつりし醜業は  天地容れざる罪なれど
 神の尊き御心に  清く見直し聞き直し
 宣り直しませ天地の  尊き百の神の前
 罪に沈みし竜雲が  今迄犯せし罪を悔い
 心を清めて大前に  慎み敬ひ詫びまつる
 天の目一つ神司  君子の姫や清子姫
 其外百の人々の  尊き今日の働きを
 喜びゐやまひ心より  慎み讃美し奉る
 斯くなる上は竜雲が  今迄悩みし村肝の
 胸の曇りも晴れ渡り  黒雲遠く吹き散りて
 大空渡る日月の  光を拝む心地よさ
 国別彦の神様よ  ケールス姫よ竜雲が
 今迄汝に加へたる  きたなき罪や曲業を
 広き心に宣り直し  許させ給へ惟神
 神に誓ひて将来の  わが改心を開陳し
 身を退きて天の下  四方の国々駆廻り
 命の限り身の限り  世人を救ひ身の罪を
 亡ぼしまつるわが覚悟  安く諾ひたまへかし
 あゝ惟神々々  神の御前に願ぎまつる』
 ケールス姫は又謡ふ。
『醜の魔神に迷はされ  神の末裔と現れませる
 国別彦の神司  わが背の君に相背き
 曲のかかりし醜人に  心の限り身の限り
 媚び諂ひて何時となく  罪の淵へと沈淪し
 あらむかぎりの罪悪を  尽し来りし恐ろしさ
 大慈大悲の大神の  霊の光りに照らされて
 曇りし胸も晴れ渡り  眩みし眼も明かに
 輝き渡りて身の罪を  直日に見直し聞き直し
 顧みすれば恐ろしや  天地の神の許さざる
 重き罪をば知らずして  重ね来りしうたてさよ
 あゝ惟神々々  御霊幸はひましまして
 日の出神や木の花の  咲耶姫の神言もて
 神素盞嗚大神が  世人を普く救はむと
 三五教の御道を  四方の国々島々に
 開かせ給ふ神司  数ある中に取りわけて
 清き尊き北光の  神の司や君子姫
 清子の姫を下しまし  火の洗礼を施して
 神地の都に蟠まる  醜の魔神を吹き払ひ
 清めたまひし尊さよ  心の闇は晴れ渡り
 元つ御霊に嬉しくも  立ち帰りたる吾なれど
 一度魔神に汚されし  吾身体を如何にせむ
 寄辺渚の捨小舟  取りつく島もなく涙
 いづれに向つて吐却せむ  サガレン王の御心は
 仮令吾等を許すとも  重ねし罪の吾が体
 如何でか元に帰るべき  妾は是より聖城を
 後に眺めて葦原の  瑞穂の国を隈もなく
 風雲雷雨をしのぎつつ  三五教の御教を
 開きて世人を善道に  導きまつり皇神の
 恵の露の万分一  報いまつらむ吾心
 許させたまへ天津神  国津神達八百万
 国魂神の御前に  ケールス姫が誠心を
 誓ひて願ひ奉る  あゝ惟神々々
 御霊幸はひましませよ』
と謡ひ終り、恥かしげに片隅に身を潜めて蹲まり居る様、人の見る目も哀れげに感ぜられ、一同は期せずして同情の涙にかき暮れにける。
(大正一一・九・二四 旧八・四 加藤明子録)
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