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文献名1霊界物語 第37巻 舎身活躍 子の巻
文献名2第4篇 山青水清よみ(新仮名遣い)やまあおくみずきよし
文献名3第23章 海老坂〔1035〕よみ(新仮名遣い)えびさか
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-10-27 16:53:24
あらすじ小林貞蔵氏の宅で四五日ばかり滞在し、村中の老若男女が信者になった。信者たちからお礼をいただき、北桑田へ渡ろうと海老坂峠にさしかかった。そこで日暮れになり、坂道の途中にある古寺の地蔵堂で横になり、眠りについてしまった。夜中に坊主に怒鳴りつけられ、出て行くようにと言われたが、神も仏も元は一株だからと一夜の宿を乞うと、坊主はなかなかものの分かったことを言うと感心し、庫裏に招いてくれた。話してみると奇遇にも、この坊主は喜楽の伯母の兄の子で、子供のころに四五回遊んだこともある人見与三郎という男であることが判明した。与三郎と喜楽はすっかり打ち解けて、ここに四五日逗留したのち、再開を約して出立した。安懸という田舎の村では、井戸堀人足たちが生き埋めになる事故に遭遇し、とっさに神勅によって指示を出して人足たちを救うという経験もした。この村は船岡の妙霊教会の信者が多くいたが、そこは喜楽の伯父が教導職であったため、そこでの布教はせずに園部へ帰ってきた。それ以降、この村の人々は妙霊教会への参拝の途次に、園部に立ち寄ってくれる者がたくさんあった。また、小林貞蔵氏も信者を連れて園部に来ていた。人見与三郎は大正六年ごろ大本に来ていたが、その後再び乞われて元の地蔵堂に帰ってしまった。明治三十二年ごろ、船井郡紀伊の庄村木崎の森田民という婆さんに稲荷が乗り移ってたくさん参拝者があるというので、信者に紛れて調べにいったことがある。婆さんは狐の焼き物に向かって神占をなし、信者たちに判じ物の答えを与えていた。婆さんは喜楽が霊学の先生だと見破り、狐の神様が先生に頼んで教導職を授けてもらうように言っている、と告げた。聞けば、もともと百姓をしていたときに無実の罪で狐の親子三匹を殺し、狐の霊に悩まされるようになった。そこで狐の霊に談判をし、神様に祀るから赦してくれと頼んだところ、世間の仕事を辞めて人助けをするなら赦してやる、という条件で今のような境遇になったのだという。喜楽は婆さんに自分のことを判じてくれと頼んだ。すると婆さんの狐の神様が言うことには、今、園部で信者たちが先生としてかつごうとしているが、喜楽が納まるべきところはここから七里ほど西北であり、一月後に迎えがくる、また嫁もちゃんと決まっている、とのことであった。園部に帰ってみると、田植えが終わったころに再度迎えに行く、という四方氏の手紙がきていたのである。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月12日(旧08月22日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年3月3日 愛善世界社版275頁 八幡書店版第7輯 134頁 修補版 校定版286頁 普及版138頁 初版 ページ備考
OBC rm3723
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本文
 小林貞蔵氏の宅で四五日計り滞在してゐる間に、村中の老若男女が集まり、鎮魂を受けたり、神懸の修行をしたりして、神徳の広大なるに感謝し、全部信者となつて了つた。小林氏はせめて一月計り自分の宅に居つて貰ひ度いと頼むのも聞かずに此家を立出で、信者から二三円計りの礼を貰ひ、それを以て北桑田へ渡らむと、日の暮前から神の命のまにまに海老坂峠まで差かかつた。日はズツポリと暮れ、其上に坂路のこととて、最早一歩も進む事が出来なくなつた。此坂路の中途に古寺が建つてゐる。そして古い堂に地蔵が祀つてあつた。止むを得ず喜楽は此堂へ這入つて一夜を明かさうと、仏壇の前でゴロリと横たはり其儘眠に就いた。
 夜中時分に妙な物音がしたので、フト目を醒まして見れば、黒い提灯をさげた大坊主が堂の入口に立ち、大きな声で心経を唱へてゐる。喜楽は驚いて起上ると、坊主は大きな声で、
坊主『断りもなく此堂に寝てゐる奴は何者だ。怪しからぬ、サア早く出て行け!』
と呶鳴りつける。喜楽は起あがり、一寸頭を下げて、
喜楽『お和尚サン、誠に済まぬ事を致しましたが、私は霊学の修行者で、神道を開きに歩いて居る者で御座りますが、思ひの外道が遠かつたので、途中に日が暮れ、一寸失礼さして貰ひました。どうぞ今晩丈此処で泊めて下さいな』
坊主『神道の行者が仏の堂で泊まるといふ事があるものか。お前サンはイカサマ神道家だ。売僧坊主だなア』
と自分の坊主たる事を忘れて、声に角を立てて呶鳴つてゐる。
喜楽『神さまも仏さまも元は一株だから、そんな区別を立てずに今晩丈泊めて下さい』
坊主『ウンさうか、神も仏も一株だといふのか。中々お前は能う分つたことを言ふ。そんなら今晩は泊まつて下さい。併しここでは仕方がないから庫裏の方へ来て下さい。何だか地蔵堂が気に掛つて寝られぬので、一寸見に来たのだ。お茶なつと進ぜよう』
と打つて変つた砕け方に喜楽はヤツと胸をなで卸し、大坊主に導かれて、庫裏の方へついて行つた。
 此寺は此坊主一人より外に誰も人らしい者は住んで居なかつた。ソロソロと身の上話を互に始めて見ると、不思議にも此坊主は喜楽の伯母の嫁入つて居た、南桑田郡千代川村字今津の人見弥吉といふ伯父の兄の子であつた。子供の時には四五回も遊んだことのある人見与三郎といふ男で、放蕩の結果親の財産を残らずなくして了ひ、それから園部監獄の看守となり、巡査も勤め、これも又酒の為に免職さされ、それから易者を習ひ、真言秘密の法を覚え、無住の寺を幸ひ、留守坊主に雇はれてゐた事が分つた。此奇遇に両人は打とけて、いろいろの事を語り合ひ、ここに四五日逗留して、人見に鎮魂帰神の霊術を教へてやり、後日の再会を約して海老坂峠を北へ渡り、安懸といふ田舎の村迄辿り着いた。
 さうすると俄に警鐘が響く、太鼓が鳴つて来る。村人は『野添に火事がある!』と云つて、一生懸命に鳶口や竜頭水、水桶などを持つて駆出す。喜楽も村人の後から走つて野添といふ小村まで従いて往つた。併し乍ら何処にも煙は立つてゐず、火事らしきものも無かつた。されど野添の寺の鐘や太鼓が頻りに鳴つてゐる。向うから走つて来た人の話によると、深い井戸を掘つてゐた所、俄にウラが来て、井戸掘人足が埋まつて了つたから、掘り出す為に、近在の人を集める為の警鐘太鼓であつた事が分つた。
 行つて見れば百人計りの人が井戸の端へ寄つて、鶴嘴や鍬で井戸から四五間わきの方から掘りかけてゐる。グヅグヅしてゐると、埋つた土砂と水の為に息が切れて了ふ虞がある。喜楽は忽ち大地に瞑目静坐して神勅を受けた。さうすると腹の中から、
『小松林だ』
といふ声が出て来て、
『種油を五六升、井戸の中へまくか、油がなければ酢を一斗計り撒け』
といふ神勅が下る。そこで其由を村人に告げてやると、忽ち酢屋から五升樽を二つ計り持つて来て、井戸の中へダブダブと投込んだ。そして大勢がよつて集つて二時間計りかかつて、埋つた人足を引上げて見た。幸ひに息は絶えて居なかつた。其男は口中某といふ男であつた。其男の話によると、
口中『俄にウラが来て土砂に埋められた時、幸ひ横の方から出てゐた大きな石の下に体をのがれ、腰から下は水にひたり、体中土砂につめられたけれ共、突出た石のおかげで首丈は自由に動く事が出来た。追々息は苦しくなつて、最早生命が終るかと思つて居ると、俄に酢の匂ひがして来て、息が楽になりました。其時にどこともなしに小松林が……今お前の生命を助けてやらう……といふ声が聞えました』
と嬉し泣きし乍ら物語つてゐる。大勢の人々は喜楽に向つて、非常に感謝をし、二三日逗留してくれといふので、口中の家に泊つて、霊学の話をしてゐた。併し此村は大部分船岡の妙霊教会所の信者であつた。そして其教会の会長といふのが、喜楽の伯父に当る佐野清六といふ教導職であつた為、宗教上の関係から村人の止めるのも聞かず、園部の会合所へ帰つて来た。
 それより此附近の人々は船岡の妙霊教会へ参拝の途次、黒田の会合所へ参拝して帰る者も沢山にあつた。又小林貞蔵氏も沢山な信者を伴れて、黒田の会合所へ幾度となく参つて来た。
 因に海老坂の地蔵堂の留守坊主であつた人見与三郎は、何とかいふ法名を持つてゐたが忘れて了つた。大正六年頃大本へやつて来て、門掃きや其他種々の事を手伝ふてゐたが、再び村人の請ひに依つて、元の地蔵堂へ帰つて了つた。
 船井郡紀井の庄村木崎の、森田民といふ五十余りの婆アサンに稲荷サンがのり憑り、沢山な信者が参拝するのを聞き、明治三十二年の五月の末、喜楽は羽織袴をつけず、普通の百姓のやうな風をして、一ペンどんな神懸だか調べて見ようと思ひ、信者に紛れて行つて見た。
 産土の大宮神社の一町計り上の方にクヅ屋葺の小さい家があつて、其横に六畳敷計りの新しい紅殻染の家が立つてゐた。其前に小さい祠が赤く塗つて建ててある。そして焼物の狐が四つ計り祀つてあり、小さき鈴をつつて、赤や白や黄色の鐘の緒が一尺五寸計り垂れ下がり、それに何歳の男とか女とか書いて五筋六筋づつ下がつてゐる。数十人の老若男女の参詣者を背後にして、其婆アサンは祠の前にしやがみ、鈴をからからとふつては、
婆『あゝ左様か、へー、さ様ですか、オホヽヽヽヽ』
などと独り言をいうてゐるかと思へば、又、
『只今何村の何某といふ何才の男が、病気で困つて居りますが、これは如何したら直りますか?』
と云つては手を拍ち、
『あゝ左様か、分りました』
と云ひ、又次の伺ひをしては、
『あゝ左様か、そんなら大バコを煎じて呑ませばよいのですな。ヘー黒豆と柳の葉とまぜてどすか、ハイそない言うてやります』
と云うてる。一わたり伺ひがすむと、記憶のよい婆アサンと見えて、一々病気の様子から薬のさしづをやつてゐる。不思議なことには、此婆アサンの指図に依つて大体の病気は治つたといふことである。そこで一つ可笑しい事は、一人の婆アサンが心配相な顔して伺つて居た。其次第は、
女『何遍嫁を貰うてもすぐに帰つて了ふので、両親も心配を致して居りますが、嫁が育たぬのは何ぞ先祖の祟りでもあるのか、但は家相でも悪いのですか、一遍伺うて下さい』
といふ。沢山の信者は一人も残らず帰つて了つた後には、お民といふ婆アサンと、今尋ねてゐる五十計りの女と喜楽と三人であつた。
 お民は早速例の祠の前で伺ひを立て、
お民『義経大明神さま、桂大明神さま、玉房大明神さま、玉芳大明神さま』
と連呼し乍ら、以前の女の願を伺つてゐる。そして時々『ホヽヽヽヽ』とこけるやうにして笑ふ。暫くするとお民サン此方へやつて来て云ふには、
お民『お前さんとこの息子はコレで嫁さんを五人貰うたでせう。皆帰つたのは肝腎のお道具が蓑○になつてるから、それで皆帰つて了はれるのですから、此奴ア一寸六つかしいものです。毛抜で抜いた所で又生えますサカえなア』
女『何とかお稲荷サンのおかげで治して頂く訳には行きませぬか』
と心配相にお民の顔を覗き込む。お民サンは首を傾け、
お民『マア信心して見なさい。信心さへ通つたら、神さまの事ですから、何とかして下さりませう。サアもう帰つて下され。私はこれから一つ行をせなならぬのです。神さまが大変お急きですから……』
といつて体よく帰して了つた。そしてお民婆アサンは喜楽に向ひ、
お民『先生、あなたは黒田の御方ですやろ。信者に化けて私を調べに来なさつたなア。神さまが先生に頼んで、教導職を受けるやうに手続きをして貰へと言うてゐやはります。どうぞお世話をして下さいな』
喜楽『お前サンは普通の御台サンと違うて仲々能う分る人だ。そして焼物の稲荷サンに向つていろいろと話しをして御座つたが、あんな焼物の稲荷サンが物言ひますか』
と尋ねて見ると、お民サンは、言下に、
お民『へーへー言ははります共、今あの帰んだお方の息子はんの事を伺ひましたが、妙でしたよ。私がジツとして焼物の稲荷サンを見つめて居ると、稲荷サンの股から、突然にポコンと○○が現はれ、先まで毛が一杯生えて居りましたので、私が稲荷サンに向つて、……此男は蓑○だから、それで嫁さまが居りつかぬのどすか、と尋ねましたら、オヽさうだと言はれました。オホヽヽヽ』
と笑うて居る。そして、
お民『先生も一ぺんあの稲荷サンの前で問うて見なさい』
とすすめるので、稲荷の前にしやがんで、いろいろ問答をしてみたけれど、何ともかんとも一口も答へなかつた。それからお民サンの霊感者になつた来歴を尋ねて見ると、左の通り面白い経歴を物語つた。
お民『私と内の太吉サンと二人が薩摩芋や桑を作つてゐますと、毎年毎年薩摩芋を掘つて食ふ奴がある。雪隠のおとしわらを引張り出し、肝腎の肥にする糞まで食つて了うので、大方裏の山に棲んでる奴狐奴が芋や糞を食ふのに違ひないから、一つくすべて捕つてやらうと相談をきめて、太吉サンと私と伜の留吉と三人が、一方の穴を松葉でくすべ、一方から掘つて居た所、夫婦の狐が子二匹うんで居りました。おのれ糞ぐらひ狐めが……と、いきなり親子三人が備中鍬を振り上げて、其狐を四匹とも叩き殺し、皮は下木崎の新平サンに売り、肉の甘い所は食つて了ひました。さうすると三日目から私の体中が、水腫れになり、苦しうて苦しうて堪らず、お櫃を開けると狐の顔が中に居る、雪隠へ行つても狐が居る。終ひには何も彼も残らずそこらが狐の顔になり、恐い顔してねめつけますので、私が狐に向つて……コレお前妾が大事にして作つた芋を毎年取つて食ひ、肥料にせうと思うた糞まで食たくせに、何が恨めしうてアタンをするのだと云ひますと、狐の親子四匹が、そこへ出て来て云ふには、芋を食たのも、糞を食たのも皆木崎の丸といふ犬の所作だ。それに私達親子の命を取り、皮を売り、肉まで食うとは余りだから、お前等親子三人の命を取り、弟の髯定の命も取らねば承知せぬと云ふて怖い顔して睨めつけました。そこで私が狐に向つて……ソラ誠にすまなんだ。お前もモウ斯うなつては仕方がない因縁ぢやと諦めて下さい。私等の命を取つた所で、お前の命が助かる訳もなし、何うぢやここは一つ相談だが、コレからお前を神サンに祀つて上げるからどうぞ勘忍して呉れと頼んで見た所、中々淡白した狐で……さうぢや、お前のいふ通り、命を取つて見た所で仕方がない、わしを祭つて呉れるのなら勘忍てやろ、其代りに人を助けて、病気を治したり、いろいろの事を知らしてやるから、お前は私の容れ物になつて、モウ今日限り仕事なんかすることはならぬぞ。其御礼に毎日七銭づつのお金をやらう……と云ひました。そして四匹の狐に義経大明神、桂大明神、玉房大明神、玉芳大明神と名をつけて祭つて呉れと云ひましたので、此赤い祠を建てて祭つて居ります。さうすると沢山の人が参つて来て、一文供へていぬる人や五厘包んで呉れる人や、中には二十銭もはり込んで供へてくれる人もありますが、妙なもんで、一月ためて置くとヤツパリ二円十銭で、一日に七銭の割になつて居ます。七銭さへあれば一寸米が七合計り買へますから、私丈食ふには不自由は御座いませぬ』
と真面目くさつて話してゐる。喜楽は、
喜楽『何と妙な狐サンぢやなア。それ丈何もかもよく分るのなら、私の事も一つ伺つて貰へまいかなア』
ときりだすと、お民サンは言下に、
お民『あんたは今園部の人が沢山寄つて、公園の中で教会を建て、あんたを先生になつて貰はうと云うて騒いでゐる。そして先生もならうかなアと思うて御座るやうだが、あんたの納まる所は之から七里ほど西北に、チヤンときまつて居ます。モ一月程したら迎へに来る人があります。あんたの嫁サンもチヤンときまつてますで、お澄サンといふ名ですワ』
と事もなげに言ふ。喜楽は昨年の秋、綾部へ行つた時、教祖にお竜サンといふ娘のあることは聞いてゐたが、お澄と云ふ娘のある事は知らなかつた。そこで大方四方すみ子の事ではあるまいかとも思うてみた。併し綾部へは殆ど十里ある。七里と云ふのは可笑しい。大方和知の方面に自分の行く所がきまつて居るのかなアとも考へても見た。それからお民に別れて黒田の会合所へ帰つてみると、綾部より四方平蔵として封書が来てゐる。開いて見れば、
『田の植付けが済み次第、出口教祖さまの御命令で、御相談に参りますから、どうぞ何処へも行かずに待つてゐて下さい……』
といふ意味が認めてあつた。……又綾部の連中から呼びに来るのかなア、モウ去年の様な事なら行かぬがましだ……と、気にもとめず、又お民の神占をも半信半疑で、手紙の事などもスツカリ忘れてゐた。
 所へ園部川で漁の為瓶付をしてゐたら、四方氏が訪ねて来たので、いよいよ綾部へ行く事となり、今度は落付いて教祖と共に金明会を開き、御用をする事となつた。
(大正一一・一〇・一二 旧八・二二 松村真澄録)
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