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文献名1霊界物語 第38巻 舎身活躍 丑の巻
文献名2第5篇 正信妄信よみ(新仮名遣い)せいしんぼうしん
文献名3第22章 難症〔1059〕よみ(新仮名遣い)なんしょう
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2022-11-09 14:55:36
あらすじ明治三十七、八年ごろは、日露戦争の勃発で四方平蔵、中村竹蔵ら十二人の幹部たちは、いよいよ世の立替で五六七の世になる、それまでに変性女子を改心させねばお仕組が遅れると信者の家を宣伝に回っていた。十二人の熱心な活動のおかげで、喜楽の言うことを聞いて布教に従事してくれたのは、西田元教と、浅井はなという婆さんの二人だけであった。三人は園部を根拠として細々と宣伝をやっていた。片山源之助という材木屋が園部に参拝して信者となり、幽祭の修業を始めた。天眼通を習得し、旅順の要塞を透視したり日露戦争の始末を予言したり不思議なことが実現したので、非常にたくさんの信者が集まってきた。綾部から幹部が来て、喜楽は小松林の悪神が憑いていると吹聴しまくるから、信者たちは一も二もなく信じてしまい、会長を軽蔑して片山を先生と尊敬しだした。西田はたいへんに憤慨したが、綾部の妨害がはなはだしいので挽回することができなかった。仕方なく自分は綾部に帰り、平仮名ばかりの経典を作って西田に持たせ、宣伝に歩かせた。綾部にいると、中村や四方平蔵がやってきて、ふらふらとあちこち布教に歩いたりせずに早く改心しろと責め立てる。始末におえないので、しばらく経典を書くことに全力を尽くしていた。西田が北桑田に来てくれと頼んできたので、八木の祭典の出張にかこつけて抜け出した。西田は山里で爺さんの鎮魂をしてリウマチスを治し、歩けるようにしてあげていた。しかし非常に執着心の強い爺さんだったから、欲張って西田の怒りを買い、それきり偏屈人の西田は寄り付かなくなってしまった。また西田とともに、リウマチで苦しんでいた小西松元という男を訪問し、そこを根拠に布教していた。小西は、川漁が得意で魚をたくさん取っては朝から晩まで女と酒を飲んでいるような親父だったので、リウマチにかかってしまった。園部にやってきて西田の鎮魂で足が立つようになり、熱心な信者となった。しかし養生せずに川漁に出て川に落ち、またリウマチが再発して苦しんでいた。この男を本復させて神様の御用に使おうと、西田と二人で訪ねて行ったのである。喜楽は初めて小西に面会し、二日ばかりの間に二三回鎮魂をしたところ、すっかり全快した。小西は熱心に布教し、信者が集まってきて毎日二三十円ものお賽銭収入があるまでになった。すると小西はよい気になり、信者の女に手をかけたり、朝から晩まで酒を飲み始めた。そのとき喜楽は京都の皇典講究所へ通っていたので小西の広間をかまうことができなかった。そうすると、小西は慢心して西田の言うことを聞かなくなってきた。小西夫婦の息子は日露戦争に出征していたが、電報間違いで戦死の知らせが届いた。すると小西夫婦は西田を問い詰め、真冬の夜に外に出されて酷い目にあわされた。しかし小西の息子・増吉は幾度も危険な目にあいながら神様に助けられ、連隊長の従卒になって楽に勤めて帰ってきたのであった。また、自分が建勲神社の主典を務めていたとき、小西から手紙が来て矢代というところに大変にきつい曲津がいるから助太刀に来てほしい、と依頼があった。そこで公務を繰り合わせて行ってみると、吉田竜次郎氏がひどい博奕打ちで祈祷してほしいという。明治四十年の夏の初めであった。吉田宅に行ってみると、自分が来るのを知って曲津は早くも逃げ出してしまっていた。それから吉田氏と懇意になり、竜次郎氏は神社に訪ねてきて神勅をうかがったり、また細君の熱心で後に大本に帰依するようになった。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月18日(旧08月28日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年4月3日 愛善世界社版230頁 八幡書店版第7輯 245頁 修補版 校定版234頁 普及版122頁 初版 ページ備考
OBC rm3822
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本文
 明治三十七八年頃は日露戦争の勃発で四方平蔵、中村竹造等十二人の所謂幹部役員は愈世の立替で、五六七の世になる、それまでに変性女子を改心をさしておかねばお仕組が遅れると、しやちになつて、信者の家を宣伝にまはり……会長が改心せず、又小松林の居る内は、門口の閾一つ跨げさす事はならぬ、大変な神罰が当ると一生懸命に一軒も残らず触れ歩いてゐる。そしてどんな立派な事を会長が言うても、一つも聞いてはならぬ、小松林が艮金神さまの御仕組を取りに来てるのだから……とふれまはした。信者は一人も残らず、熱心な十二人の活動で、彼等の云ふ事を固く信じて了ひ、且つ園部で狐の真似したのが大変に祟つて、信者一般から四ツ足の守護神と思ひこまれたからたまらぬ。此時喜楽の云ふ事を聞いて布教に従事してゐた者は西田元教と浅井はなといふ五十余りの婆アサン二人のみであつた。
 西田と浅井とは代る代る園部を十二時頃に立つて三里計り日をくらして綾部へやつて来て、大槻鹿造の家で、夜中ソツと会長と会見し、教理を研究しては、又夜の間に園部へ帰り、園部を根拠として、細々と宣伝をやつて居た。喜楽は意を決して、園部迄夜の間に浅井に伴れられて、逃げのび、船井郡や北桑田郡の信者未開の地を宣伝して居た。
 片山源之助といふ材木屋がふと園部の支部へ参拝して来て、教理を聞き、俄に信者となつて、幽斎の修行を始め、天眼通を修得し、旅順の要塞を透視したり、日露戦争の始末を予言したり、いろいろと不思議な事が実現したので、非常に沢山の信者が集まつて来た。さうすると又もや綾部の連中が嗅つけやつて来て、沢山の信者の前で、
『会長は小松林といふ四ツ足の守護神が憑いとるのだから、相手になつては可けませぬぞや、貧之神ですから』
と吹聴する。片山の天眼通が呼物となつて沢山の信者が集まつて来た。そこへ綾部から来て、会長の悪口雑言を並べ立てるので、訳も知らぬ信者は一も二もなく信じて了ひ、会長を軽蔑し、片山先生片山先生と尊敬して、遂には会長を邪魔者扱ひにするやうになつて了つた。西田は大変に憤慨していろいろと活動したけれ共、綾部の妨害が甚しいので、頽勢を挽回する事が出来なかつた。それから会長は再び綾部へ帰り、仮名計りの教典を作り、西田元教に持たせて宣伝に歩かすこととしてゐた。
 再び綾部へ帰り、離れの六畳に蟄居して教典を書いてゐると、又もや四方中村の幹部がやつて来て、
中村『会長サン、行けば行く程茨室、神に反いて何なとして見よれ、一つも思惑は立ちは致さんぞよ、アフンとして青い顔をして、家のすまくらに引つ込んで、人に顔もよう会はせず、悄気てゐるのを見るがいやさに、神がくどう気をつけるぞよ……と現はしなさつた筆先を実地に御覧になつたでせうな。さうだからどつこへも行くでないと仰有るのに、小松林の四ツ足にチヨロまかされて、又しても又しても、綾部を飛出しなさるもんだから、こんなザマに会ふのです、モウこれからはどつこへも行かず、教祖さまの御命令を聞いて役員の言ふ通りになされ、世界の人民が苦みますから』
と中村がそれみたか……といふやうな冷笑を浮かべて喋り出した。会長は、
喜楽『ナニ、私は失敗したんでも何でもないワ、自分の心がお前に分るものか、細工は流々仕上げを見て貰はな分らぬワイ』
と言はせも果てず、中村は大きな声で、
中村『コラ小松林、まだ改心を致さぬか、ツツボにおとしてやろか、慢心は大怪我の元だぞよ』
と呶鳴りつける。四方平蔵は側から、
四方『会長サン、あんたの仰有る事も先になつたら又聞く時節が来ますから、今の所ではお気に入らいでも辛抱して御用聞いて下され、今年来年が世界の大峠、グヅグヅしてる時ぢや厶いませぬぞや、これ程御大望が差迫つて来て居るのに、大本の御用継ともある人が、そこらをウロウロとウロつきまはるとは何の事ですか、教祖さまが、又何時もの病が出て小松林がそこら中へつれて歩くから、役員気をつけよ……と厳しう仰有るのですから、こうして皆の者があなた一人の事に付いて心配して居るのに、お前サンは吾々役員が可哀相なとは思ひませぬか』
と詰りよる。会長は、
喜楽『お前らがトボけてるのが可哀相なから、早く目をさましてやろうと思うて、いろいろと気をつけるけれども、小松林の四ツ足が吐すのだなどといつて一口もきかず、目をさましてくれぬので、綾部に居つても用がないので、今の内に一つでも神界の御用をしておかうと思つて、そこら中を布教に歩くのだ。日露戦争が起つても、それ位で世界の立替が出来るものでない、まだまだ世界の大戦争があり、それから民族問題が起り、いろいろ雑多な事が世界に勃発して、最後にならねば立替は出て来るものぢやない、ここ十年や二十年で、そう着々と埒があくものか、今の内にチツと目をさましておかぬと、此戦争は済んで了ふなり、立替は出て来ぬなりすると、又虚言ぢやつたと言つて信者が一人も寄りつかなくなつて了ふ、つまりお前達は一生懸命になつて神さまのお道を潰さうとかかつてるやうなものだ』
といふのを皆まで聞かず、
『コレ会長サン、お前サン等が何程小賢しい理屈を並べても誰も聞く者はありませぬぞ、一分一厘違はぬお筆先だと仰有る神さまの御言が違うてたまりますか』
などと頑張つて、一言も聞入れぬのみか、益々四ツ足扱ひを始めて始末に了へぬので、澄子と相談の上、何事も沈黙を守り、一時の間も時間を惜んで、教典を書き現はすことに全力を尽して居た。
 そうした所が西田が一ぺん北桑田へ来てくれと秘かに頼みに来たので、何とかして又もや綾部を脱け出さうと考へて居た。幸に八木の祭典に出張する事となり、前に述べた如く八木を夜ぬけして、園部へ走り、それから人尾峠を乗越へて、宇気といふ山里へ日の暮頃に落つき、安井清兵衛といふリウマチスで身体の自由を失ひ苦しんでゐる老爺サンの鎮魂をなし、其夜はそこで一泊する事となつた。西田が鎮魂をすると、爺イサンは其場で足が立ち、座敷中を歩いて見て、大変に喜び、それから熱心な信者となつたが元来が村中でも受けの悪い親類の財産を併合して、財産家になつたやうな爺だから、金銭の執着心が甚うてモ一つといふ改心が出来ぬので、僅に室内を歩くよにはして貰うたが、まだ外へ出て働くまでにはならなんだ。そこで爺イサンが西田に対して言ふには、
安井『どうぞ私が山へ行けるよにして下さつたら、内の林の杉や檜の屑をさがして切つて、それで神さまのお祭り場所を建て、教会を開き、私が隠居の代りにお守をさして貰ふ』
と虫のよい事を言ひ出した。そこで元教が大変に腹を立て、
西田『神さまの御祭り場所を建てるのに、屑をよつて建てるといふ様な事を云ふ爺イは嫌だ。一番よい木を上げるのが信神の道ぢやないか、そんな事言うとると、又元の通りいざりになつて、折角拵へた財産迄なくなつて了うぞ』
と云つたきり、サツサと安井の内を飛出し、それきり変屈人の西田は寄りつかぬやうになつて了うた。果して此爺は元の通りの難病になり、欲にためた財産も息子の縫之助が人にだまされて、一獲千金のボロ儲けをせうとして大失敗をなし、財産の九分通まで、三年ほどの間になくして了うた。
 さて会長は西田と共に其時分これもリウマチで平太つて居た小西松元といふ男の内へ訪問して、暫く其家を根拠として布教に従事してゐた。此小西は園部の支部へ駕籠に乗つて出て来て、西田の鎮魂で即座に足が立ち、大変に喜んで、材木などを献納し、支部の拡張までやつた位な熱心家であつた。此小西は川漁が大変上手で寒中でも一寸出て来ると、三升や五升の川魚をとつて来る河童と仇名をつけられて居る酒飲み爺である。毎日三升位は平気で平げて、朝から晩まで女を相手に酒を呑んで居つた。西田が小西の病気を直した時今後は決して魚をとつてはいかぬ、そして酒を二三年呑まぬやうにせぬと今度はリウマチ所か中風になつて了ふと注意しておいたのも聞かずに、寒の内に網を持つて宇津の川原へ籠り魚を掬ひに行つて、柳のヌツと川へ出た、幹からふみ外し、川へドンブとおち込み、再び大熱を発し、元の通りにリウマチになり、昼夜間断なくウンウン唸つて苦んでゐた。そこで西田が再び鎮魂をして余程よくなつたが併し、足の痛みが止まつた丈で、行歩の自由が叶はぬ。そこで喜楽を綾部から引出し、小西の鎮魂をして貰ひ、病気を本復させて、神さまの御用に使はうとしたのであつた。喜楽は西田と二人で小西の内へ尋ねてゆくと、小西は宮村の内田官吉といふ弟の家に世話になり、薬風呂をわかして養生をし乍ら、神さまを念じてゐた。そこで会長が始めて小西に面会し、二日計り逗留の間に二三回鎮魂をしてやつた所、漸く全快し六里計りの道を徒歩で宇津へ帰り、一生懸命に神さまを念じてゐた。沢山の信者が諸方から集まつて来て毎日日日二三十円計りのお賽銭の収入があるので、小西がよい気になり、ソロソロ信者の女に手をかけたり、朝から晩まで酒を呑み始めた。其時喜楽は京都へ行つて皇典講究所へ通うてゐるので、西田に任して宇津の小西の広間の方は構う事が出来なんだ。さうすると小西がソロソロ慢心をし出して、西田のいふ事を聞かなくなつて来た。一人息子の増吉といふのが二十聯隊へ入営し、日露戦争に出征してゐた。そして朝から晩まで自分の息子の無事に帰る事計りを祈り乍ら、沢山の信者の鎮魂をやり、日に日に信者はふえて来る許りであつた。さうした所が俄に電報の間違で増吉が戦死したといふ知らせが、北桑田の郡役所から届いたので、松元とお末といふ夫婦が西田を前後より差挟んで、ソロソロ不足を言ひだした。其お末婆アサンの言はザツと左の通りである。
末『コレ元はん余りぢやないか、内の増吉は信心さへして居れば滅多に戦死する気遣ひはない、金鵄勲章を持つて帰らしてやるというたぢやないか、ソレに此電報は何のこつちや、奴狸奴が人をダマしやがつてサア早う出てゆけ、内の爺も爺ぢや、華を第一といふ法華経の信者が、綾部の狸にだまされて、仕様のない神をまつるもんだから、こんな目に会うたのだ。早う神さまを叩きつぶして川へ流しなされ、コラ元公早ういなんか』
と雪が二尺ほど積つてゐるのに無惨にも外へつき出した。西田は日の暮前に二尺程も積つてゐる雪の中へ放り出され、漸くにして半里許りの山路を登り、人尾峠の頂きまで登りつめると、風の吹きよせで雪が五六尺もつもり、身動きも出来ぬやうになり、其夜を泣きもつて明かした事もあつた。然るに小西増吉は幾回となく危険な場合を神さまに助けられ、同じ村から六人召集されて出征してゐた者が、五人まで負傷したり戦死したりしてゐるにも拘はらず、増吉丈は怪我一つせず、二十聯隊の全滅した時に僅か二人残つた其一人であつた。そして金鵄勲章を貰うて聯隊長の従卒となり楽に勤めて帰つて来たのである。それから小西がビツクリして西田に葉書をよこしあやまつて来て、
『どうぞ一ぺん遊びに来てくれ』
というので西田も再び小西の宅へ行き、一所に神の道を開いてゐたが、又もや衝突してそこを飛出して了うた。其時は会長はすでに別格官幣社建勲神社の主典をつとめてゐた。そこへ小西から手紙が来て、
『矢代といふ所に大変キツイ曲津が居るから、私の手にあはぬよつて、先生に助太刀に来て貰いたい』
といふので、公務を繰合はして宇津へはるばる行つて見ると、
『周山村の矢代といふ所に吉田竜次郎といふ人がありますが、其奥サンが此間から二度許り参つて来られますが、主人が如何しても博奕をやめぬから、やめるよに祈祷がして貰ひたいといふのですが、神さまに伺うてみると大変な曲津があこには巣くうてゐるから、お前の力ではどうせだめだから、会長サンに御願ひをせいと云はれましたから、一寸御手紙を上げました』
と云うてゐる。それから小西の信者に案内をして貰うて矢代へ行つた。丁度明治四十年の夏の始めで田植の最中であつた。それから吉田の宅へ行つて見ると、自分が行くのを知つて、曲津は早くも逃げ出し、何にも居らぬやうになつて居た。其家の主人の竜次郎氏はどつかへ行つて居つて不在であつたが、妻君のお鶴サンに面会し小西の言うたやうな事を聞かされ、そして曲津が居りますか……と尋ねるので、何も居りませぬと答へると、たよりない先生ぢやなアと言ふやうな顔をして、お礼だというて金二円包んでくれた。それから吉田家と懇意になり竜次郎氏は建勲神社へ二三回も尋ねて来て、いろいろと神勅を伺うたりし乍ら、妻君の熱心で何時とはなしに大本へ帰依するやうになつたのである。
(大正一一・一〇・一八 旧八・二八 松村真澄録)
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