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文献名1霊界物語 第38巻 舎身活躍 丑の巻
文献名2第5篇 正信妄信よみ(新仮名遣い)せいしんぼうしん
文献名3第26章 日の出〔1063〕よみ(新仮名遣い)ひので
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ焚書 データ凡例 データ最終更新日2022-11-12 10:45:48
あらすじ明治三十二年の夏、上谷で修業中の喜楽に小松林命が神がかりされ、明治三十五年の正月十五日までは綾部にて迫害に耐えるように、とお諭しがあった。明治三十五年の正月十五日、今後のことを小松林命に尋ねると、明朝から園部方面に行くようとのことであった。澄子は臨月だったが、神様のお告げに夫婦だけで相談して出立することになった。園部の奥村氏の別宅を貸してもらい、日夜宣伝した。奥村氏は園部の名望家だったので、その協力を得て地域の紳士連中の入信を得ることができた。園部に落ち着いてから十二日目に、澄子が出産した夢を見た。神様に聞いてみると、たしかに出産したのでひとまず帰るようにと言われた。一人で綾部に戻る途上、自分を探しに来た四方祐助爺さんに出会った。四方祐助に澄子と赤子の様子を尋ねたが、爺さんは答えをはぐらかし、自分を不安にさせるようなことを言って、行ってしまった。綾部の役員信者たちは、無事に長女が生まれたことを告げたら喜楽は安心して園部に戻ってしまうだろう、と考えて四方祐助をよこし、わざと喜楽を不安にさせるようなことを言わせたのであった。直日は自分が園部で夢を見た日に生まれた。新暦三月七日、旧正月二十八日であった。綾部では教祖様からさんざん小言を言われ、宮参りの済むまでの三十日は蟄居していた。園部からの手紙で再び綾部を飛び出して、園部で布教をしていた。その間に四方平蔵・中村竹蔵に自分が三年間執筆した五百冊の書物をすべて焼かれてしまった。それから大阪へ進出しようと、溝口中佐という休職軍人と一緒に、市中の稲荷下げを回って霊術比べをしたりしていた。今から思えば馬鹿らしいことを得意になってやっていた。しかしこれもうまくいかず、綾部に戻り、明治三十八年の八月まで時を待つことにしたのであった。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年10月19日(旧08月29日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年4月3日 愛善世界社版266頁 八幡書店版第7輯 259頁 修補版 校定版272頁 普及版142頁 初版 ページ備考
OBC rm3826
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本文
 明治三十二年の夏、上谷の修行場にて幽斎修行の最中審神者の喜楽に小松林命神懸せられ、
『如何なる迫害や圧迫があつても綾部を去つてはならぬ。兎も角明治卅五年の正月十五日までは綾部で辛抱をせよ』
とのお諭しであつた。それで喜楽はあらゆる迫害と侮辱を隠忍して卅五年を待ちつつ、神妙に神様の道を修行して居た。愈卅五年正月十五日が来たので、
喜楽『今後如何しませうか』
と伺つて見た所、
『明日の朝からソツと園部の方面を指して行け』
との神示が降つたので軽装を整へ、只一人澄子に其意を告げ布教伝道の途に上つた。澄子は初めての妊娠で已に臨月であつた。何時出産するかも知れない場合である。自分も大変に初めての子の出産であるから気にかかつて仕方がない。けれども一旦神様に任した身の上、妻の為に神務を半時でも悤にする事は出来ぬと決心し、夫婦相談の上出立したのである。
 先づ園部本町の奥村と云ふ雑貨店へ落ちつき、主人夫婦の懇篤なる世話によつて其家の別宅を無料で貸して貰ひ、且つ衣食万端を奥村から支給され日夜宣伝に従事しつつあつた。奥村氏は園部に於て相当の地位名望もあり財産もあつた。さうして清廉潔白の聞えの高い紳士である。其奥村氏が先頭に立つて商業の傍、熱心に宣伝したので、地方の紳士連中は先を争うて入信した。園部へ落ちついてから十二日目の夜に、綾部に残してある澄子が出産した様な夢を見たので、神様に聞いて見ると出産をしたから一先づ帰つてやれと云ふ事であつた。そこで奥村氏に其旨を告げ留守中を頼みおき、浅井はなと云ふ婆サンに神前の御給仕を命じて只一人スタスタと檜山の坂原巳之助と云ふ熱心な信者の宅へ立寄り昼飯を供せられ一服して居ると、其処へ慌ただしく綾部から四方祐助と云ふ爺サンが尋ねて来り門口から、
祐助『海潮サンはお内に居られますか』
と尋ねてゐる。坂原巳之助は綾部の中村一派のやり方に愛想をつかし、喜楽の教のみを信従してゐたのだから、屹度喜楽は此処に居るだらうと思つて尋ねて来たのである。奥の間で祝詞を奏上して居た喜楽は此声を聞いて静かに表へ出て、
喜楽『あゝ祐助さん、能う来て呉れた、まあ一服しなさい』
と云ふと爺サンは庭に立ちはだかつた儘、
祐助『これ海潮、何をグヅグヅして居るのだ。綾部は大変な事が出来て居りますぜ』
とゴツゴツした声で睨めつける様に云ふ。喜楽も何か澄子の身の上に就て変事でも出来たのではないかと、少しく不安の念に駆られて、
喜楽『祐助サン、澄子は機嫌よく出産しましたかな』
と尋ねると、祐助は首をブリブリと振つて、
祐助『えー、出産も糞もあるものか。自分の女房が臨月になつてゐるのに教祖様に隠れて其処ら中をうろつき廻り、悠々閑々と何の事ぢやい。綾部には大変の事が出来ましたぞ。それだから教祖様が何処へも行くでないと仰有るのだ。教祖様の命令を背くと何時でもこの通りなりますのぢや』
と息を喘ませて諒解し難い事を呶鳴りたてる。喜楽は益々不安の雲に包まれて、
喜楽『澄子は安産しただらうなア。そして男か女か何方が出来た、早く知らして呉れ』
と云はせも果てず、祐助は又もや首を頻りに振つて、
祐助『え、凡夫の俺がそんな事分つて堪るものか。海潮サンは天眼通が利くぢやないか、小松林に尋ねたら、それ位の事は分りさうなものぢやないか。それが分らない様な事で偉さうに神懸ぢやの、先生ぢやのとは云ふて貰ひますまい。綾部は何どころの騒ぎぢやないわ。改心をせぬと、こんな事が出来ると何時も教祖さまが仰有つたのを尻に聞かして居るものだから、こんな不都合な事が出来たのぢや。初産の事とて教祖さまも大変な心配、此祐助も何れ丈心配したかしれませぬぞや。お前サンも綾部へヌケヌケと帰つて来る顔がありますまい。帰るのが嫌なら帰らいでも宜しい左様なら』
と云ひ乍らスタスタと阪原の家を出て行かうとする。喜楽は益す気になつて、
喜楽『これ祐助サン、吉か凶か、どちらか、それだけ聞かして呉れ』
と小さい声で尋ねて見ると祐助は、
祐助『そんな事の分らぬ様な天眼通が何になるものかい』
とブツブツ囁き乍ら委細構はず駆け出し、
祐助『よう思案するがよい』
と捨台詞を残して早くも綾部へ帰つて行く。喜楽は慌て阪原氏に送られ一目散に祐助の後を追ひ駆けた。さうすると祐助は三の宮のある茶店で腰をかけ、
祐助『あゝ云つておけば屹度帰つて来るに相違ない』
と高を括つて居る。
 『兎に角安産した。そして女の子が出来た』と云つたら、『あゝさうか』と云つたきり喜楽は帰らぬから心配さしたら帰つて来るだらうと、綾部で役員信者相談の結果祐助が代表者になつて選まれて来たのだと云ふことが後になつて分つた。丁度自分が園部で夢を見た其日に直霊が生れたのである。其日は新三月七日旧正月二十八日であつた。祐助と三人連れで綾部の宅に帰つて見ると、盛に赤児の泣き声が聞えて居る。初めて自分の子の声を聞いた時は何とも云はれぬ感じがした。然しあの声で子は達者であるが、澄子の身体は如何だらうと案じ乍ら門口を跨げて見ると母子とも至極壮健であつた。それから教祖さまに、
『自分の女房が臨月で何時子が出来るか分らぬのに、神様の命令も聞かずに、そこら中に飛び出すのは余り水臭いぢやないか』
と散々叱言を云はれ、謝り入つて三十日の間、宮詣りのすむ迄綾部に蟄居して居た。さうすると園部の奥村から『沢山の信者が待つて居るから早く来て呉れ』と云ふ手紙が毎日の様に出て来るので、四月の三日再び綾部を飛び出し園部で布教をつづけて居た。其留守中に自分が明治三十一年、穴太に居つた時から三十四年一杯かかつて執筆しておいた五百冊の書物を、四方平蔵、中村竹造の発起で立替の御用ぢやと云つて悉皆焼いて了つたのである。それから園部を根拠として大阪へ教線を開き、陸軍砲兵中佐の溝口清俊と云ふ休職軍人と心を協せて大阪市の宣伝に従事して居た。此中佐の宅へ心安く遊びに来る、背のスラツとした、人品のよい少し頭の光つた男が溝口中佐に説きつけられて熱心な信者となり、追々中流以上の信者が出来て天王寺の附近に一万坪の地面を買ひ、霊学会の本部を設置する段取とまでなつてきた。さうして其溝口の宅へ出入りして居た男と云ふのは、大阪の難波分所長の内藤正照氏であつた。内藤正照氏と溝口中佐と喜楽の三人は大阪市中の稲荷下げの教会を巡歴して種々と霊術比べをやり、それを唯一の楽しみとして布教は、そつちのけに三百六十軒ばかり市中の神懸を探し廻つて霊縛をしたり、色々と自分等の霊術を誇り得意になつて居た。今から思へば実に馬鹿らしい事を得意になつてしたと思ふ。然し此間に神懸に対する非常な経験を得た事を思へば、これも矢張御神慮であつたかも知れぬ。それから北海道の銀行の頭取をやつて居た山田文辰と云ふ男や内藤や、京都牧場の松原栄太郎等と人造精乳会社を、京都、大阪、園部に設置し、数千円の金を醵出して一つの事業を起し宣伝の費用に当てやうと目論見、已に着手して居る所へ、京都の高松某が中村竹造の指図によつて会社の工場修繕の大工に雇はれ散々に喜楽の悪口をなし、それが基となつて松原栄太郎、若林某、山田文辰等が変心し出し、折角組み立てた発頭人の喜楽や内藤を放逐せむとした。中村は何とかして喜楽が京阪地方で活動するのを妨害し、失敗の結果綾部へ逃げ帰り一間へ押し込めて活動の出来ないやうにしてやらねば此儘にして置いては虎を野に放つやうなもので、大本の教をとつて了ふに違ひないと役員一同が相談の結果、かう云ふ手段をとつたのであつた。そこで喜楽は已を得ず精乳会社を脱退し、内藤正照と愛善坂の麓で神様を祀り、布教宣伝に着手して居た。難波新地の婦人科の医者で杉村牧太郎と云ふ金光教の熱心な信者があり、又杉本恵と云ふ御嶽教の教導職や大阪大林区署に勤めて居た高屋利太郎、並びに錻力職の池田大造らと図り大宣伝をやつて居た。大阪の侠客の団熊や山田嘉平等も信者となつて大活動を始め、漸く曙光を認め、高屋利太郎は一同の代表者として一度綾部へ参拝して来やうと云つて詣つて来た所、中村が一生懸命に喜楽の悪口をついて且脱線的の言葉を並べ『洋服を着た様な連中は此処には来る事ならぬ』と高屋氏を箒で掃き出したので、高屋氏が大阪へ帰つて来て憤慨し折角組み立てた霊学会へひびが這入り、ゴタゴタして居る所へ中村竹造の内命で三牧次三郎が尋ねて来て、此男が口を極めて喜楽を罵倒したので止むを得ず大阪を立ち綾部へ帰つて来たのは明治三十六年の十一月頃であつた。さうすると役員が寄つて集つて自分の洋服を剥ぎとり、帽も靴も服も引裂いて雪隠へ突つ込んで了ひ、
『さあ、これで四ツ足の皮を剥いでやつた。これで海潮も改心をして、おとなしくなるだらう。神に背いて致した事は何事も九分九厘でグレンと覆るとお筆に出て居りますが、これで海潮サンも気がつくだらう』
と自分等が極力妨害しておき乍ら、神さまの業の様にすまし込んで居る。それから自分も再び離れの六畳に蟄居して又もや隠れ忍んで古典学を研究したり、筆の雫や道の大本等の執筆にとりかかり、明治三十八年の八月まで綾部に尻を据えて時を待つ事としたのであつた。
(大正一一・一〇・一九 旧八・二九 北村隆光録)
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