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文献名1霊界物語 第42巻 舎身活躍 巳の巻
文献名2前付よみ(新仮名遣い)
文献名3総説に代へてよみ(新仮名遣い)そうせつにかえて
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。神界は神道家の称える高天原であり、仏者のいう極楽浄土、キリスト教徒のいう天国である。中界は神道の天の八衢、仏教の六道の辻、キリスト教の精霊界である。幽界は神道の根の国底の国、仏教の八万地獄、キリスト教の地獄である。天の八衢は高天原ではなく、根底の国でもない。両界の中間に介在する位置にあり、中間の情態である。人が死後、すぐに至るべき境域で、いわゆる中有である。中有にあることやや久しくして、現界にあったときの行為の正邪により、ある者は高天原に上り、ある者は根底の国へ落ちていく。しかし人の霊魂中にある真善美が和合するときは、その人は直ちに天国に上り、霊魂中にある邪悪と虚偽が合致したときは、その人はたちまち地獄に落ちるものである。人間が死すと、神は直ちにその霊魂の正邪を審判し給う。肉体のときに朋友知己、夫婦、兄弟、姉妹となりしものは、神の許可を得て天の八衢において会談することができる。しかしいったんこの八衢で別れた時は、高天原においても根底の国においても、再び相見ること、相識こともない。ただ同一の信仰、愛、性情に居ったものは、天国においても行くたびも相見相識ることができる。直ちに高天原に上るものは、その人間が現界にあるときに神を知り信じ、善導を履行し、霊魂が神に復活してすでに準備ができていたからである。内心悪を包蔵し、自己の凶悪を装い、不信仰にして神の存在を認めなかったものは直ちに地獄に墜落し無限の永苦を受けることになる。死後に高天原に安住し霊的生涯を送るということは、世を捨てて身体に属する情欲を離脱しなくてはならない、という人がある。しかし天国はそのようにして上り得るものではない。世を捨て、霊に住み、肉から離れようと努めるものは、かえっていっそう悲哀の生涯を修得し、高天原の歓楽を摂受することはとうていできるものではない。人は各自の生涯が死後にもなお留存するものだからである。高天原に上って歓楽の生涯を永遠に受けようと思うのなら、現世において世間的の業務を執り、その職掌を尽くし、道徳的民文的生涯を送り、かくして始めて霊的生涯を受けなければならない。内的生涯を清く送ると同時に、外的生涯を営まないものは、砂上の楼閣のごときものである。あるいは次第に陥没し、あるいは壁落ち床破れ崩壊し、傾き覆るがごときものである。
主な人物 舞台 口述日1922(大正11)年11月14日(旧09月26日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年7月1日 愛善世界社版3頁 八幡書店版第7輯 643頁 修補版 校定版3頁 普及版 初版 ページ備考
OBC rm420002
本文のヒット件数全 7 件/根底の国=7
本文の文字数2041
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本文 ○霊界には神界、中界、幽界の三大境域がある。
○神界は神道家の唱ふる高天原であり、仏者の謂ふ極楽浄土であり、耶蘇の曰ふ天国である。
○中界は神道家の唱ふる天の八衢であり、仏者の謂ふ六道の辻であり、キリストの曰ふ精霊界である。
○幽界は神道家の唱ふる根の国、底の国であり、仏者の謂ふ八万地獄であり、キリストの曰ふ又地獄である。
 故に天の八衢は高天原にもあらず、また根底の国にもあらず、両界の中間に介在する中程の位置にして即ち情態である。人の死後直に到るべき境域にして、所謂中有である。中有に在ること稍久しき後、現界に在りし時の行為の正邪により、或は高天原に上り或は根底の国へ落ち行くものである。
○人霊中有の情態(天の八衢)に居る時は、天界にもあらず又地獄にもあらず。仏者の所謂六道の辻又は三途の川辺に立つて居るものである。
○人間に於ける高天原の情態とは、真と善と美の相和合せし時であり、根底の国の情態とは、邪悪と虚偽とが人間にありて合致せる時を云ふのである。
○人の霊魂中に在る所の真と善と美と和合する時は、その人は直ちに天国に上り、人の霊魂中に在る邪悪と虚偽と合致したる時は、その人は忽ち地獄に落つるものである。斯の如きは天の八衢に在る時に於て行はるるものである。
○天の八衢(中有界)に居る人霊は頗る多数である。八衢は一切のものの初めての会合所であつて、此処にて先づ霊魂を試験され準備さるるのである。人霊の八衢に彷徨し居住する期間は必ずしも一定しない。直ちに高天原へ上るのもあり、直ちに地獄に落ちるのもある。極善極真は直ちに高天原に上り、極邪極悪は直ちに根底の国へ墜落して了ふのである。或は八衢に数日又は数週日、数年間居るものもある。されど此処に三十年以上居るものは無い。此の如く時限に於て相違があるのは、人間の内外分の間に相応あると、あらざるとに由るからである。
○人間の死するや、神は直ちに其霊魂の正邪を審判し給ふ。故に悪しき者の地獄界に於ける醜団体に赴くは、其人間の世にある時、その主とする所の愛なるもの忽ち地獄界に所属して居たからである。又善き人の高天原に於ける善美の団体に赴くのも、その人の世に在りし時の其愛、其善、其真は正に天国の団体に既に加入して居たからである。
○天界、地獄の区劃は、斯の如く判然たりと雖も、肉体の生涯に在りし時に於て、朋友となり知己となりしものや、特に夫婦、兄弟、姉妹と成りしものは、神の許可を得て天の八衢に於て会談することが出来るものである。
○生前の朋友、知己、夫婦、兄弟、姉妹と雖も、一旦この八衢に於て別れた時は、高天原に於ても根底の国に於ても、再び相見る事は出来ない、又相識ることもない。但同一の信仰、同一の愛、同一の性情に居つたものは、天国に於て幾度も相見相識ることが出来るのである。
○人間の死後、高天原や根底の国へ行くに先だつて、何人も経過すべき状態が三途ある。そして第一は外分の状態、第二は内分の状態、第三は準備の状態である。此状態を経過する境域は天の八衢(中有界)である。然るにこの順序を待たずに、直に高天原に上り根底の国へ落つるものもあるのは、前に述べた通りである。
 直ちに高天原に上り又は導かるるものは、其人間が現界に在る時、神を知り、神を信じ、善道を履み行ひ、其霊魂は神に復活して、高天原へ上る準備が早くも出来て居るからである。また善を表に標榜して内心悪を包蔵するもの、即ち自己の兇悪を装ひ人を欺く為に善を利用した偽善者や、不信仰にして神の存在を認めなかつたものは、直ちに地獄に墜落し、無限の永苦を受くる事になるのである。
○死後高天原に安住せむとして霊的生涯を送ると云ふことは、非常に難事と信ずるものがある。世を捨て、その身肉に属せる所謂情欲なるものを一切脱離せなくてはならないからだ、と言ふ人がある。此の如き考への人は、主として富貴より成れる世間的事物を斥け、神、仏、救ひ、永遠の生命と云ふ事に関して、絶えず敬虔な想念を凝らし、祈願を励み、教典を読誦して功徳を積み、世を捨て、肉を離れて、霊に住めるものと思つて居るのである。然るに天国は斯の如くにして上り得るものではない。世を捨て、霊に住み、肉に離れようと努むるものは、却て一層悲哀の生涯を修得し、高天原の歓楽を摂受する事は到底出来るものでない。何となれば、人は各自の生涯が死後にも猶留存するものなるが故である。高天原に上りて歓楽の生涯を永遠に受けむと思はば、現世に於て世間的の業務を執り、その職掌を尽し、道徳的民文的生涯を送り、かくして後始めて霊的生涯を受けねばならぬのである。これを外にしては、霊的生涯を為しその心霊をして、高天原に上るの準備を完うし得べき途はないのである。内的生涯を清く送ると同時に、外的生涯を営まないものは、砂上の楼閣の如きものである。或は次第に陥没し或は壁落ち床破れ崩壊し傾覆する如きものである。
 あゝ惟神霊幸倍坐世
  大正十一年十一月十四日
      口述者識
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