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文献名1霊界物語 第47巻 舎身活躍 戌の巻
文献名2第2篇 中有見聞よみ(新仮名遣い)ちゅううけんぶん
文献名3第8章 中有〔1241〕よみ(新仮名遣い)ちゅうう
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじ人間がこの世に生まれたばかりのときは、その意志の方面は自己の都合のいいことばかりを考えており、悪しきことばかりである。この不善な意志を根本的に改めて善に遷らせるために、誠の神様より人間に対して真理を会得すべき直日の霊の力が付与されているのである。人間の天賦の智性の中の真が、意志中の善と相和合しない間は、まだ中程の状態にある。現世の人間はたいていこの状態にある。一方では悪を愛する心から心理に背反する動作をなす者もある。人間は、高天原と根底の国のいずれか一方に適従するため、霊肉が離脱した死後にはまず、中有界に導きいれられる。中有界(精霊界)において、高天原に昇るべきものは善と真の和合が行われ、根底の国に投げ入れられるものは悪と虚偽の和合が行われる。治国別、竜公両人が中有界(精霊界)において伊吹戸主神から受けたまわった霊界の消息について、その大略を述べる。まず地獄界の入り口は、精霊界に対して硬くふさがっている。ただわずかに岩間の隙間のような裂け口があり、あるいは大きな門戸があって暗い道がわずかに通じ、ふんぷんたる臭気を帯びた風が吹いているのみである。地獄の入り口は守衛が厳しく立っていて、みだりに人間の出入りを許さないことになっている。地獄を探検することは、伊吹戸主神の許しを得なくては容易に許されない。ただ現界へ帰って人間に霊界のことを説き諭したり、緊急の必要がある場合にのみ許されるのである。瑞月が高熊山の聖城において地獄界を探検したのもやはり八衢の神の許可を受けて行くことができたのである。高天原へ上る道も四方がふさがり、容易に見当たらない。わずかにひとすじの小さい道が通ってあって守衛がこれを守っている。しかし高天原へ上る資格のないものには到底見ることはできない。中有界は山岳と岩石の間にあるけわしい谷に似たところが多い。高低があり、大川、深い谷、広野など種々雑多の景色が展開している。中有界に迷っている精霊には、高天原への道や地獄への道は到底発見することはできないようになっている。高天原に上る準備ができたものは、精霊界から天国の各団体に通じるひとすじの細い道を登って行き、次第に道は分かれて数条となり、おいおい幾十条にもわかれて各団体に通じているのである。根底の国に通う入り口は、これに入るべき精霊のために開かれる。善霊すなわち正守護神は、その入り口から出てくる悪臭を忌み嫌い、恐れて一目散に逃げ去るが、地獄の団体に籍を置いている悪霊すなわち副守護神は、この暗黒と悪臭を悦び楽しむがゆえに、勇んで地獄の入り口に飛び込むものである。実に大本開祖の神示にある身魂相応の神の規則とは至言というべきである。すべて人間には、高天原に向かう門と、根底の国に向かう門、二個の門が開かれている。高天原から流れてきた神様の光明は、情報の隙間からわずかに数条の線光が下がっているにすぎない。人間がよく思惟し究理し言説するのは、この光明によるのである。善に居り真に居るものはおのずから高天原の門戸が開かれているのである。人間の理性心に達する道は内外二つに分かれている。もっとも高い道は内分であり、、愛の善と信の真とが大神より直接入り来る道である。もう一つは低い道、外部の道である。外部の道は根底の国からあらゆる罪悪と虚偽が忍び入る道である。内部外部の道の中間に位置しているのが理性心である。高天原より大神の光明が入り来るかぎり、人間は理性的であることを得る。これを拒んで入れなかったならば、その人間の実性はすでに滅びているのである。人間の理性心は精霊界に相応している。その上にあるものは高天原に相応し、その下にあるものは根底の国へ相応する。高天原へ上る準備を成したものは、その上方の事物がよく開けている。そして下方の事物はまったく閉塞して、罪悪や虚偽の内流を受けない。これに反して根底の国へ陥るべき準備をなせるものは、低い道すなわち下方の事物は開けているが、上方の事物すなわち霊的方面はまったく閉鎖しているがゆえに、愛善と信真の内流を受けることができない。頭上をあおぎ高天原を仰ぎ望むは、すなわち大神を拝しその霊光に触れ、無限の歓喜に浴することができる。しかし足下すなわち下方を望むものは真の神に背いている身魂である。
主な人物 舞台 口述日1923(大正12)年01月08日(旧11月22日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年10月6日 愛善世界社版128頁 八幡書店版第8輯 518頁 修補版 校定版134頁 普及版62頁 初版 ページ備考
OBC rm4708
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本文  人間が此世にギヤツと生るるや、其意思の方面から見た時は即ち其吾の儘なる時は悪き事ばかりである。人間は何程立派に博愛だ、善道だ、忠だ、孝だと云つて居つても、詮じつめれば、只自己のみ都合の好い事ばかりを考へて容易に他の事を顧みないものである。斯の如く己のみ良からむ事を願ふ利己心の強い人間は他人の不幸を見て、結句心地よく思ふものが多い様である。他人の不幸が却て自分等の利益となる場合には殊更に福でも降つて来た様に思つて北叟笑をするものである。何故なれば、かかる利己的の人間は総じて他人の利福や名誉たると財力たるとを問はず、何とかして自分の所有になさむ事をのみ願ふものである。かかる不善なる意思を根本的に改めて善に遷らしめむが為に、誠の神様より人間に対し諸々の真理を会得すべき直日の霊の力を賦与されてゐるものである。此真理を判別する所の直日の霊の光によつて、其意思より起る所の一切不善の情動を覆滅し断絶せしめむとし給ふのである。人間が天賦の智性中の真、未だ意思中の善と相和合せざる時は所謂中程の状態にあるものだ、現世の人間は大抵此状態に居る者が多い。彼等は真理の何たるを知り、又知識の上や理性の上にて真理を思惟する事は出来るけれども、其実地行ふ所の真理に至つては、或は多く或は少なく又絶無なるものがある。或は悪を愛する心即ち虚偽の信仰よりして真理に背反せる動作をなすものがある。故に人間は高天原と根底の国との何れか一方に適従する所あらしめむが為め、霊肉脱離後即ち死後先づ中有界一名精霊界に導き入れられるものである。高天原に上るべきものには此中有界に於て善と真との和合が行はれ、又根底の国へ投げ入れらるべき精霊には此八衢に於て悪と虚偽との和合が行はれるものである。何故なれば高天原に於ても根底の国に於ても善悪不決定の心を有する事を許されないからである。即ち智性上に此を思うて意思の上に彼を志すが如き事は許されない。必ずや其志す所を諒知し其知る所を志願せなくてはならない事になつてゐるからである。治国別、竜公両人が今や精霊界に進み、天界地獄の中間状態にその身を置いて伊吹戸主神に種々の霊界の消息を承はつた其大略を此処に述べる事とする。
 先づ地獄界の入口は如何なるものなりやを示すならば、一切の地獄界は此精霊界の方面に対しては硬く塞がつてゐるものである。只僅かに岩間の虚隙に似たる穴があり裂け口があり、或は大なる門戸があつて暗い道が僅かに通じ紛々たる臭気を帯びた風が吹いてゐるのみである。地獄の入口には守衛が厳しく立つてゐて、猥りに人間の出入するを許さないことになつてゐる。故に地獄界を探険せむとせば、伊吹戸主神の許しを受けなくてはならない。之も容易には許されない事になつてゐる。
 一旦現界へ帰つて現界の人間に霊界の事を説き諭す宣伝使か、或は緊急の必要ある場合に限つて許さるるものである。瑞月が高熊山の聖場に於て地獄界を探険したのも矢張り八衢の神の許可を受けて行く事を得たのである。高天原へ上る道も亦四方が塞がり高天原の諸団体に通ずべき道は、容易に見当らないのである。僅かに一条の小さい道が通つてあつて守衛が之を守つてゐる。然しながら高天原へ上るべき資格のないものの目には到底見る事は出来ないものである。又中有界は山岳と岩石との間にある険しい谷に似た所が多い。此処彼処に折れ曲りの所が沢山にあり、又非常に高い処や低く窪んだ処もある。或は大川が流れ或は深い谷があり、広野があり種々雑多の景色が展開してゐる。そして高天原の諸団体に通ずる諸々の入口は、高天原に上るべき準備を終へたる天人の資格を持つてゐる者でなくては見る事は出来ない。故に中有界に迷うてゐる精霊や地獄行の精霊の目には到底発見する事は出来得ないのである。精霊界から天国の各団体に通ずべき入口は只一筋の細い道があるばかりである。此道をダンダンと上り行くに従つて道は分れて数条となり、追々分れて幾十条とも分らなく各団体にそれぞれの道が通じてゐるのである。又根底の国に通ふ所の入口は、之に入るべき精霊の為めに開かるるものであるから、其外の者は其入口を見る事は出来ない。入口の開くのを見れば薄暗うて恰も煤けた蜂の巣の様に見えて居る。さうして斜に下向しておひおひと深い暗い穴へ這入つて行く事になつてゐる。此暗い入口を探り探りて下つて行くと、先になつて又数個の入口が開いてゐる。此入口の穴から悪臭紛々として鼻をつき出て来る其不快さ、自然に鼻が曲り息塞がり眉毛が枯れる様な感じがして来るものである。故に善霊即ち正守護神は甚だしく之を忌み嫌ふが故に此悪臭を嗅ぐやいなや恐れて一目散に走り逃げ去るものである。然し乍ら地獄の団体に籍をおいてゐる悪霊即ち副守護神は、此暗黒にして悪臭紛々たるを此上なく悦び楽しむが故に、喜んで之を求め勇んで地獄の入口に飛び込むものである。世間の大方の人間が己の自性に属する悪を喜ぶ如く、死後霊界に至れば其悪に相応せる悪臭を嗅ぐ事を喜ぶものである。此点に於ては彼等悪霊の人間は貪婪飽くなき鷲や鷹、狼、虎、獅子、豚の類に比ぶべきものである。彼等の精霊は腐つた屍骸や堆糞等の嘔吐を催さむとする至臭至穢物を此上なく喜び、其臭気を尋ねて糞蠅の如くに集まつて来るものである。是等の人間の霊身は高天原の天人の気息や芳香に合ふ時は、内心の苦しみに堪へず悲鳴をあげて泣き倒れ苦しみ悶えるものである。実に大本開祖の神示にある身魂相応の神の規則とは実に至言と云ふべしである。凡て人間には二箇の門が開かれてある。さうして其一つは高天原に向つて開き、一つは根底の国に向つて開いてゐる。高天原に向つて開く門口は愛の善と信の真とを入れむがために開かれ、一つは所在悪業と虚偽とに居るものの為めに地獄の門が開かれてあるのだ。さうして高天原より流れ来る所の神様の光明は上方の隙間から僅かに数条の線光が下つて居るに過ぎない。人間がよく思惟し究理し言説するは此光明によるものである。善に居り又従つて真に居るものは自ら高天原の門戸は開かれてゐるものである。
 人間の理性心に達する道は内外二つに分れて居る。最も高き道即ち内分の道は愛の善と信の真とが大神より直接に入り来る道である、さうして一つは低い道、即ち外部の道である。此道は根底の国より所在罪悪と虚偽とが忍び入るの道である。此内部外部の道の中間に位して居るのが所謂理性心である。以上二つの道は之に向うてゐる故に高天原より大神の光明入り来る限り人間は理性的なる事を得れども、此光明を拒みて入れなかつたならば其人間は自分が何程理性的なりと思ふとも其実性に於ては已に已に滅びて居るものである。人間の理性心と云ふものは、其成立の最初に当つて必ず精霊界に相応するものである。故に其上にある所のものは高天原に相応し、其下にあるものは必ず根底の国へ相応するものである。高天原へ上り得る準備を成せるものにあつては、其上方の事物がよく開けて居るけれども、下方の事物は全く閉塞して、罪悪や虚偽の内流を受けないものである。之に反し根底の国へ陥るべき準備をなせるものにあつては、低き道即ち下方の事物は開けて居るが内部の道即ち上方の事物、霊的方面は全く閉鎖せるが故に愛善と信真の内流を受ける事が出来ない。之を以て前者は只頭上即ち高天原を仰ぎ望み得れども、後者は只脚下即ち根底の国を望み見るより外に途はないのである。さうして頭上を仰ぎ望むは即ち大神を拝し霊光に触れ無限の歓喜に浴し得れども、脚下即ち下方を望むものは誠の神に背いて居る身魂である。
(大正一二・一・八 旧一一・一一・二二 北村隆光録)
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