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文献名1霊界物語 第48巻 舎身活躍 亥の巻
文献名2第3篇 愛善信真よみ(新仮名遣い)あいぜんしんしん
文献名3第10章 天国の富〔1264〕よみ(新仮名遣い)てんごくのとみ
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2019-01-14 18:59:27
あらすじ自然界と霊界には惟神の順序によって相応がある。人間は天人の有するところをすべて有している。人間はその内分から見れば霊界に居る。しかしまた同時に、外分から見ると自然界に居る。人間の自然的・外的記憶に属するものを外分と言う。人間の知識や学問等から来る悦楽および会館のすべて世間的趣味を帯びるもの、肉体の感覚、言語、動作が外分である。外分は、大神より来る神的・霊的内流が止まる終極点の事物である。神的順序が究極するところは万物の霊長、神の生き宮、天人の養成所である人間なのである。ゆえに人間は神様の根底となり基礎となるべきことを知らなければならない。このような尊い存在である人間が、内分を神に背けて高天原との連絡を断絶し、自然界と自己に向けて自己を愛し世間を愛し外分のみに向かっているゆえに、大神はぜひなく予言者という媒介人を設けて地上に降し、御経綸を行わせ給うたのである。治国別は竜公とともに言霊別命の化相身である五三公に案内され、珍彦の館を後にして中間天国の各団体を訪問することになった。一行は樹木が秩序よく生えている金砂銀砂をしきつめた平坦な道を進んで行く。道の両方には天国の田が展開し、涼風にそよぐ稲葉の音が心地よく耳に響いてくる。天人の男女は水田に入って草取り歌を歌いながら草を取っている。五三公は、天国では土地は全部団体の公有でありながら、みな一切平等に御神業と額に汗をして神様のために活動し、それぞれの愉快に立ち働いているという。そして、天国にも貧富はあるが、貧富は現界のようによく働く者が多くの報酬を得るのではなく、神様の賜うところであるという。各人の努力によって獲得するものではなく、現界にあるときに尽くした善徳の如何によって貧富が惟神につくので、貧者は富者を見てこれを模範とし、善徳を積むことのみを考えるのだという。治国別の問いに答えて五三公は、天国の富者は現界にあるうちによく神を理解し愛のために愛をなし、善のために善をなし、真のために真を行い、自利心を捨てて神の国の建設のために心身を尽くして現界で十分に活動した者たちだと説いた。竜公も交えて四方山話した後、五三公は霊陽山の名所に二人を案内しようと歩を進めた。一行は天国街道を進み霊陽山のふもとについた。五三公は、ここは第二天国の有名な公園地であると紹介した。二人の目には天国の公園の景色はかすんで見えたが、五三公に言われて被面布をかぶり、麗しい公園の花卉・庭園を見ることができた。五三公の諭しを聞いて、二人もようやく被面布を取っても花園の光景を見ることができるようになってきた。二人は神の御恵に感謝した。
主な人物 舞台 口述日1923(大正12)年01月13日(旧11月27日) 口述場所 筆録者加藤明子 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年10月25日 愛善世界社版149頁 八幡書店版第8輯 643頁 修補版 校定版155頁 普及版77頁 初版 ページ備考
OBC rm4810
本文のヒット件数全 1 件/ミロクの世=1
本文の文字数4904
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本文  現界即ち自然界の万物と霊界の万物との間には、惟神の順序によりて相応なるものがある。又人間の万事と天界の万物との間に動かすべからざる理法があり、又其連結によつて相応なるものがある。そして人間は又天人の有する所を総て有すると共に、其有せざる所をも亦有するものである。人間はその内分より見て霊界に居るものであるが、それと同時に、外分より見て、人間は自然界に居るのである。人の自然的即ち外的記憶に属するものを外分と称し、想念と、これよりする想像とに関する一切の事物を云ふのである。約言すれば、人間の知識や学問等より来る悦楽及び快感の総て世間的趣味を帯ぶるもの、又肉体の感官に属する諸々の快感及び感覚、言語、動作を合せて之を人間の外分となすのである。是等の外分は何れも大神より来る神的即ち霊的内流が止まる所の終極点に於ける事物である。何故なれば、神的内流なるものは決して中途に止まるものでなく、必ずや其窮極の所まで進行するからである。この神的順序の窮極する所は所謂万物の霊長、神の生宮、天地経綸の主宰者、天人の養成所たるべき人間なのである。故に人間は総て神様の根底となり、基礎となるべき事を知るべきである。又神格の内流が通過する中間は高天原にして、其窮極する所は即ち人間に存する。故に、又この連結中に入らないものは何物も存在する事を得ないのである。故に天界と人類と和合し連結するや、両々相倚りて継続存在するものなる事を明め得るのである。故に天界を離れたる人間は鍵のなき鎖の如く、又人類を離れたる天界は基礎なき家の如くにして、双方相和合せなくてはならないものである。
 斯の如き尊き人間が、其内分を神に背けて、高天原との連絡を断絶し、却て之を自然界と自己とに向けて、自己を愛し、世間を愛し、其外分のみに向ひたるにより、従つて人間は其身を退けて再び高天原の根底となり、基礎となるを得ざらしめたるによつて、大神は是非なく、茲に予言者なる媒介天人を設けて之を地上に下し、其神人をもつて天界の根底及び基礎となし、又之によつて天界と人間とを和合せしめ、地上をして天国同様の国土となさしめ給ふべく、甚深なる経綸を行はせたまうたのである。この御経綸が完成した暁を称して、松の代、ミロクの世、又は天国の世と云ふのである。そして厳の御霊、瑞の御霊の経緯の予言者の手を通じ口を通じて聖言を伝達し、完全なる天地合体の国土を完成せしめむとしたまうたのである。大本開祖の神諭に『天も地も一つに丸めて、神国の世に致すぞよ。三千世界一度に開く梅の花、須弥仙山に腰を掛け艮の金神守るぞよ。この大本は天地の大橋、世界の人民は此橋を渡りて来ねば、誠のお蔭は分らぬぞよ』と平易簡明に示されて居るのである。されど現代の人間は却てかかる平易簡明なる聖言には耳を藉さず、不可解なる難書を漁り、是を半可通的に誤解して其知識を誇らむとするのは実に浅ましいものである。
 治国別は竜公と共に言霊別命の化相身なる五三公に案内され、珍彦の館を後にして中間天国の各団体を訪問する事となつた。五三公は得も云はれぬ麗しき樹木の秩序よく間隔を隔てて点綴せる、金砂銀砂の布きつめたる如き平坦路をいそいそとして進んで往く。道の両方には、天国の狭田、長田、高田、窪田が展開し、得も云はれぬ涼風にそよぐ稲葉の音はサヤサヤと心地よく耳に響いて来る。天人の男女は得も云はれぬ麗しき面貌をしながら、瑪瑙の如く透き通つた脛を現はし、水田に入つて草取をしながら勇ましき声に草取歌を歌つて居る。太陽は余り高からず頭上に輝きたれども、自然界の如く焦げつくやうな暑さもなく、実に入り心地のよい温泉に入つたやうな陽気である。さうして此天国には決して冬がない、永久に草木繁茂し、落葉樹の如きは少しも見当らない。田面は金銀色の水にて満たされ、稲葉は青く風に翻る度毎に金銀の波を打たせ、何とも筆舌の尽し難き光景である。五三公は途中に立ち止まり、二人を顧みて微笑みながら、得も云はれぬ喜びの色を湛へて、
『治国別様、御覧なさいませ、天国にも矢張り農工商の事業が営まれて居ます。さうしてあの通り各人は一団となつて其業を楽しみ、歓喜の生活を送つて居ります。実に見るも愉快な光景ぢやありませぬか』
『成程、実に各人己を忘れ一斉に業を楽しむ光景は、到底現界に於て夢想だも出来ない有様で厶いますな。さうして矢張彼の天人共は各自に土地を所有して居るので厶いますか』
『イエイエ、土地は全部団体の公有です。地上の世界の如く大地主、自作農又は小作農などの忌はしき制度は厶いませぬ、皆一切平等に何事も御神業と喜んで額に汗をし、神様のために活動して居るのです。さうして事業に趣味が出来て、誰一人不服を称ふる者もなく、甲の心は乙の心、乙の心は甲の心、各人皆心を合せ、何事も皆御神業と信じ、あの通り愉快に立ち働いて居るのです』
『さうすれば天国に於ては貧富の区別はなく、所謂社会主義的制度が行はれて居るのですか』
『天国にも貧富の区別があります。同じ団体の中にも富者も貧者もあります。併しながら、貧富と事業とは別個のものです』
『働きによつて其報酬を得るに非ざれば、貧富の区別がつく筈がないぢやありませぬか。同じやうに働き、同じ物を分配して生活を続ける天人に、どうして又貧富の区別がつくのでせうか』
『現界に於ては、総て体主霊従が法則のやうになつて居ます。それ故優れたもの、よく働くものが多く報酬を得るのは自然界のやり方です。天国に於ては総てが神様のものであり、総ての事業は神様にさして頂くと云ふ考へを何れの天人も持つて居ります。それ故天国に於ては貧富の区別があつても、貧者は決して富者を恨みませぬ。何人も神様のお蔭によつて働かして頂くのだ、神様の御神格によつて生かして頂くのだと、日々感謝の生活を送らして頂くのですから、貧富などを天人は念頭に置きませぬ。そして、貧富は皆神様の賜ふ所で、天人が各自の努力によつて獲得したものではありませぬ。何れも現実界にある時に尽した善徳の如何によりて、天国へ来ても矢張り貧富が惟神的につくのです。貧者は富者を見て之を模範とし、善徳を積む事のみを考へて居ります。天国に於ける貧富は一厘一毛の錯誤もなく、不公平もありませぬ。其徳相応に神から授けらるるものです』
『天国の富者とは、現界に於て如何なる事を致したもので厶いませうか』
『天国団体の最も富めるものは、現界にある中によく神を理解し、愛のために愛をなし、善のために善をなし、真の為に真を行ひ、自利心を捨て、さうして神の国の建設の為に心を尽し身を尽し、忠実なる神の下僕となり、且又現界に於て充分に活動をし、其余財を教会の為に捧げ、神の栄と道の拡張にのみ心身を傾注したる善徳者が所謂天国の富者であります。約り現界に於て宝を天国の庫に積んで置いた人達であります。さうして中位の富者は、自分の知己や朋友の危難を救ひ、又社会公共の救済の為に財を散じ、隠徳を積んだ人間が、天国に来つて大神様より相応の財産を賜はり安楽に生活を続けて居るのです。そして天国で頂いた財産は総て神様から賜はつたものですから、地上の世界の如く自由に之を他の天人に施す事は出来ませぬ。ただ其財産を以て神様の祭典の費用に当てたり、公休日に天人の団体を吾家に招き、自費を投じて馳走を拵へ大勢と共に楽しむので厶います、それ故に天国の富者は衆人尊敬の的となつて居ります』
『成程、実に平和なものですな、本当に理想的に社会が造られてありますなア』
 竜公はしやしやり出で、
『モシ五三公さま、もしも私が天国へ霊肉脱離の後、上る事を得ましたならば、定めて貧乏人でせうな』
『アヽさうでせう、唯今直に天国の住民となられるやうな事があれば、貴方はやはり第三天国の極貧者でせう。併し再び現界に帰り、無形の宝と云ふ善の宝を十分お積みになれば、天国の宝となり、名誉と光栄の生涯を永遠に送る事が出来ませう』
『それでは聖言に、貧しきものは幸なるかな、富めるものの天国に到るは針の穴を駱駝の通ふよりも難し、と云ふぢやありませぬか』
『貧しきものは常に心驕らず、神の教に頼り、神の救ひを求め、尊き聖言が比較的耳に入り易う厶いますが、地上に於て何不自由なく財産のあるものは、知らず知らずに神の恩寵を忘れ、自己愛に流れ易いものですから、其財産が汚穢となり暗黒となり或は鬼となつて地獄へ落し行くものです。若しも富者にして神の為に尽し、又社会のために隠徳を積むならば、天国に上り得るの便利は貧者よりも多いかも知れませぬが、世の中はようしたもので富者の天国に来るものは、聖言に示されたる如く稀なものです。其財産を悪用して人の利益を壟断し、或は邪悪を遂行し、淫欲に耽り、身心を汚し損ひ、遂に霊的不具者となつて大抵地獄に落つるものです。仮令天国に上り得るにしても、天国に於ける極貧者です』
『治国別さまが、今天国の住民となられましたら何んなものでせう、相当の富者になられませうかなア』
五三『ハヽヽヽヽ』
と笑つて答へず。
『ヤア先生も怪しいぞ、矢張これから天国の宝をお積にならねばなりますまい』
五三『サア是から霊陽山の名所に御案内致しませう』
と早くも歩を起した。二人は後に従ひ、麗しき原野を縫うて、樹木点綴せる天国街道を歓喜に満たされながら進んで往く。五三公は霊陽山の麓に辿りついた。
『此処が第二天国の有名なる公園地で厶います。今日は公休日で厶いませぬから、余り天人の姿も見えませぬが、これ御覧なさいませ、あの山の景色と云ひ、岩石の配置、樹木の色、花の香、到底地上の世界では見られない景色で厶いませう』
治国『ハイ、何だかぼんやりとして、私の目には入りませぬ』
『被面布をお被りなさい、さうすればハツキリと分るでせう』
『ハイ』
と答へて治国別は直に被面布を被つた。竜公も同じく被面布に面を包んだ。
治国『何故、吾々の目には被面布がなくては、此麗しき景色が目に入らないのでせうか』
『失礼ながら、天国の智慧に疎きものは此樹木花卉が目に入らないのです。総て神の智慧に居るものの前には、各種各様の樹木花卉にて満ちたる楽園の現はれるものです。是等の樹木は最も麗しき配列をなし、枝々交叉して得も云はれぬ装ひをなし、薫香を送るものです。総て天国は想念の国土でありますから、貴方に神的智慧が満つれば、直ちに天国の花園が眼前に展開致します。園亭あり、行門あり、行径あり、行く道の美麗なる事、言語の尽す所ではありませぬ。故に神の智慧に居るものは、斯の如き楽園の中を漫歩しながら、思ひ思ひに花を摘み花鬘を作りなどして、楽しく嬉しく暮し得るものです』
『成程、此楽園には被面布を透して眺めますれば、種々雑多の樹木、花卉の吾々地上に嘗て見ざるものが沢山ございますな』
『是等の麗しき樹木は正しき神の知識に居るものの愛の徳如何によりて花を開き実を結ぶものです。厳の御霊の神諭にも「一度に開く梅の花、開いて散りて実を結び、スの種を養ふ」とあるでせう。開く梅の花とは、智慧と証覚とに相応する情態の謂であります。斯くなる時は、天国の園亭や楽園に実を結ぶ樹木及び花卉は神の供へ物として、又天人各自の歓喜の種として各自の徳によつて現前するものです。高天原には斯の如き楽園のある事は聞いては居りますが、唯是を実際に知る者は、唯神よりする愛善の徳に居る者及び自然界の光と其偽りとによつて自己の胸中にある所の天界の光を亡ぼさなかつた者に限つて居ります。故に高天原に対して目未だ見えざるもの、耳未だ聞えざるものは、現に其場に近づき居ると雖も、此光景を見る事も亦斯の如き麗しき音楽の声を聞く事も出来ませぬ』
『種々の御教諭、いや有難う厶いました。これで吾々も大変に神様の御恵を頂き、どうやら被面布を取つてもこの花園の光景が見えるやうになつて参りました。嗚呼神様、言霊別命様の御化身なる五三公様の口を通して、天国の福音をお示し下さつた其御恵を有難く感謝致します。アヽ惟神霊幸倍坐世』
(大正一二・一・一三 旧一一・一一・二七 加藤明子録)
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