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文献名1霊界物語 第49巻 真善美愛 子の巻
文献名2第1篇 神示の社殿よみ(新仮名遣い)しんじのしゃでん
文献名3第1章 地上天国〔1275〕よみ(新仮名遣い)ちじょうてんごく
著者出口王仁三郎
概要
備考
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あらすじ天地万有一切を愛の善と信の真に基づいて創造し給ひし皇大神を奉斎した宮殿の御舎を、地上の天国という。大神の仁慈と智慧の教えを宣べ伝える聖場を霊国という。ゆえに、神諭でも綾の聖地を地の高天原と名付けられたのである。天国は、決して人間が想像するような宙空の世界ではない。日月星辰もみな地球を中心とし根拠として創造されている。われわれが住居する大地は、霊国であり天国なのである。人間は肉体を地上で発育させ、その精神も馴化・薫陶し、発育させなければならない。天国も霊国もすべて地上に実在する。ただ、形体を脱出した人の本体である精霊が住居する世界を霊界といい、物質的形体を有する人間が住むところを現界というにすぎない。人間は一方に高天原を蔵すると共に、一方に地獄を包有しているのである。そして霊界・現界の間に介在して、その精霊は善でもなく悪でもない、いわゆる中有界に居を定めているものである。すべての人間は、高天原に向上して霊的・天的天人となるために神が造り玉ひしものである。だから人間は、大神より来る善の徳を具有している。天人とは、人間の至粋至純なる霊身であり、人間は天界・地獄界両方面に介在する一種の機関である。人間は、愛と信の徳にある限り、高天原の小天国なのである。しかし人間は、天人が有しない外分なるものを持っている。外分とは、世間的影像である。人は、神の善徳に住する限り、外分を内分に隷属させている。そのとき、大神は御自身が高天原にいます如くに、その人間の内分に臨ませ玉ふ。大神は、人間の世間的生涯の中にも、現在し玉ふのである。神的順序があるところには、必ず大神の御霊がまします。神はすべて、順序にましますからである。この神的順序に逆らう者は、決して生きながら天人となることができない。教祖の神諭に「十里四方は宮の内」と示されているのは、神界における里数である。想念の世界における最奥第一天国たる神の御舎は、人間界の一百方里くらいに広い、という意味である。人間の目から見て小さな宮の内でも、神の愛と神の信に触れ、智慧証覚のまったき者には、想念の延長によって際限もなく聖く麗しく、広く高く見得るものである。霊的事物の目から見れば、これは不思議でもなんでもない。自然界の法則に従い肉の目で見ては、決して霊界の消息は受け入れられいし思考もできない。神界の密意は、霊主体従的の真人でなければ、容易に受け入れることはできない。己の体内に存在する内分によって自己が何者であるかをよく究めた者となり、自然界を離れなければ、霊界の消息を窺うことはできないのである。太古の黄金時代の人間は何事も内的であり、自然界の諸事物はその結果によって現れたことを悟っていた。それゆえすぐさま大神の内流を受け、宇宙の真相をわきまえて一切を神に帰し、神のまにまに生涯を楽しく送ったのである。今日は人の内分は外部に向かい、神に背いて地獄に臨んでいる。そこで天地の造主である皇大神は厳の御霊、瑞の御霊と顕現し玉ひ、人間を神の光明に向かわせようとして、予言者を通じて救いの道を宣べ伝え給うたのである。このように、地獄に向かって内分が開けている人間を高天原に向かわせようとした状態を、天地が覆ると宣らせ玉ふたのである。高天原は、大神や天人の住所である霊界を指す。霊国は神の教えを伝える宣伝使が集まるところである。その教えを聞くところを天国または霊国という。天国の天人は祭祀のみを事とし、霊国の天人は神の教えを伝えることを神聖な業務となす。最勝最貴の智慧証覚によって神教を伝えるところを第一天国といい、最高最妙の愛善と智慧証覚を得た者の集まる霊場を最高天国というのである。この点において、現幽は一致しているということである。人間が胸中に高天原を有するときは、その天界は人間の個々の行為にも現れる。人間が人間である根源は、自己に具有する愛そのものにある。そして、各人が主とする愛は、その想念や行為の微細なるところにも流れ入ってこれを按配し、いたるところに自分と相似したものを現すからである。天界においては、大神に対する愛を第一の愛とする。高天原においては、大神を一切中の一切としてこれを愛し尊敬する。大神は全般の上にも個々の上にも流れ入り玉ひて、按配し導く。大神の行きますところには、ことごとく高天原が築かれる。天人は極めて小さな一個の天界であり、その団体はより大きな形式の天界である。諸団体の一丸が、高天原の最大形式をなしている。綾の聖地の大本は大なる形式の高天原であり、各分所支部は聖地に次ぐ一個の天界であり、自己の内分に天国を開いた信徒は小なる形式の高天原である。霊界におけるすべての団体は、愛善の徳と信真の光と、智慧証覚の度合いによって、同気相求める相応の理により、一個の天国団体が形成されている。また中有界、地獄界も同様である。大神は、天界・中有界・地獄界をそれぞれ一個人とみなし、単元として統一し玉ふ。その神格は、各界すべてを統一する。ゆえに、各界のいかなる団体も、厳の御霊・瑞の御霊の神格の中から脱出することはできないし、これを無視して自由行動をとることは許されない。綾の聖地をもって天地創造の大神が永久に鎮まります最奥天国の中心であると覚り得る者は、死後必ず天国の住民となり得る身魂である。かかる天的人間は、聖地の安危・盛否を吾が身体とみなしてよく神界のために愛と信を捧げるものである。高天原の全体が一つの大神人であると悟った上は、すべての信者はその神人の個体または肢体の一部であることを理解する。霊的・天的事物もまた、全体が一個人であるかのような形式と影像にしたがって配列され、和合しているのである。このことを知らない人は、人間の外分をなしている世間的・自然的な事物が人格であり、これがなければ人は人としての実を失うであろう、と考えてしまう。本来、大神人の一部分であり神の信者であるべき者が、このような自愛心にとらわれて孤立的生涯を送ってしまうと、外面は神に従っているように見えたとしても、内分はまったく神を愛せず神に背き、自愛のために信仰して、虚偽と悪の捕虜になってしまっている。これでは決して神とも天界とも和合することはできない。人間の人間たるところは、決して世間的物質的事物から成れる人格ではない。よく善を知り、よく善に志す力量にあるのである。そのことを知るべきである。だから、人格の上下はその人の智性と意志の如何によるのである。せっかく神の救いの綱に引かれながら、偽善の度が深いために心の眼が開けず、光明赫灼がる大神人のいます方向もみえず、何事もすべて外部的観察をくだして神人の言説や行為を批判する者が多いのには、大神も非常に迷惑とされるところである。この物語を拝聴する人々によっても、あるいは天来の福音と聞こえ、神の救いの言葉とも聞こえるが、あるいは寄席の落語や拙劣な浪花節とも感じるのである。中有界に迷える人には、不謹慎な物語、瑞月王仁の滑稽洒脱の映写、また放逸不羈な守護神の言葉、怪乱狂妄・醜言暴語として逃げ帰る者もある。人は、各人が有する団体の位置から神を拝し、物語を聴く。ゆえにこの物語は上魂の人には救世の福音であるが、途中の鼻高や下劣なる人間の耳にはもっとも入り難いものである。また無垢な小児と社会の物質欲に超越した老人の耳にはよく沁みわたり理解されやすいものである。小児と老人は、その心が無垢の境涯にあって、最奥の霊国および天国と和合し相応しているからである。
主な人物 舞台 口述日1923(大正12)年01月16日(旧11月30日) 口述場所 筆録者松村真澄 校正日 校正場所 初版発行日1924(大正13)年11月5日 愛善世界社版7頁 八幡書店版第9輯 33頁 修補版 校定版7頁 普及版3頁 初版 ページ備考
OBC rm4901
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本文  天地万有一切を愛の善と信の真に基いて、創造し玉ひし皇大神を奉斎したる宮殿の御舎を、地上の天国と云ふ。而して大神の仁慈と智慧の教を宣べ伝ふる聖場を霊国といふ。故に大本神諭にも、綾の聖地を地の高天原と名付けられたのである。
 天国とは決して人間の想像する如き、宙空の世界ではない。大空に照り輝く日月星辰も皆地球を中心とし、根拠として創造されたものである以上は、所謂吾人の住居する大地は霊国天国でなければならぬ。人間は其肉体を地上において発育せしめ、且其精霊をも馴化し、薫陶し、発育せしむべきものである。而して高天原の真の密意を究むるならば最奥第一の天国も亦中間天国、下層天国も、霊国もすべて地上に実在する事は勿論である。只形体を脱出したる人の本体即ち精霊の住居する世界を霊界と云ひ、物質的形体を有する人間の住む所を現界といふに過ぎない。故に人間は一方に高天原を蔵すると共に一方に地獄を包有してゐるのである。而して霊界、現界即ち自然界の間に介在して、其精霊は善にもあらず、悪にもあらず、所謂中有界に居を定めてゐるものである。
 すべての人間は、高天原に向上して霊的又は天的天人とならむが為に、神の造り玉ひしもので、大神よりする善の徳を具有する者は、即ち人間であつて、又天人なるべきものである。要するに天人とは、人間の至粋至純なる霊身にして、人間とは、天界地獄両方面に介在する一種の機関である。人間の天人と同様に有してゐるものは、其内分の斉しく天界の影像なることと、愛と信の徳に在る限り、人間は所謂高天原の小天国である。而して人間は天人の有せざる外分なるものを持つてゐる。其外分とは世間的影像である。人は神の善徳に住する限り、世間即ち自然的外分をして、天界の内分に隷属せしめ、天界の制役するままならしむる時は、大神は御自身が高天原にいます如くに其人間の内分に臨ませ玉ふ。故に大神は人間が天界的生涯の内にも、世間的生涯の中にも、現在し玉ふのである。故に神的順序ある所には必ず大神の御霊ましまさぬことはない。凡て神は順序にましますからである。此神的順序に逆らふ者は決して生き乍ら天人たることを得ないのである。
 教祖の神諭に……十里四方は宮の内……と示されてあるのは、神界に於ける里数にして、至善至美至信至愛の大神のまします、最奥第一の天国たる神の御舎は殆ど想念の世界よりは、人間界の一百方里位に広いといふ意味である。吾々人間の目にて僅かに一坪か二坪位な神社の内陣や外陣も、神界即ち想念界の徳の延長に依つて、十里四方或は数百里数千里の天国となるのである。福知舞鶴外囲ひと云うてあるのは、所謂綾の聖地に接近せる地名を仮つて、現界人に分り易く示されたものであつて、決して現界的地名に特別の関係がある訳ではない。只小さき宮殿(人間の目より見て)の中でも……即ち宮の内でも神の愛と神の信に触れ、智慧証覚の全き者は、右の如く想念の延長に仍つて、際限もなく、聖く麗しく、且広く高く見得るものである。すべて自然界の事物を基礎として考ふる時は斯の如き説は実に空想に等しきものの如く見ゆるは当然である。併し乍ら霊的事物の目より考ふれば、決して不思議でも、不合理でもない。霊的事象の如何なるものなるかを、能く究め得るならば、遂に其真相を掴むことが出来るのである。併し自然界の法則に従つて肉体を保ち、且肉の目を以て見ることを得ざる霊界の消息は到底大神の直接内流を受入るるに非ざれば、容易に思考し得可らざるは、已むを得ない次第である。
 故に、神界の密意は霊主体従的の真人にあらざれば、中魂下魂の人間に対し、いかに之を説明するも、容易に受け入るる能はざるは当然である。只人間は己が体内に存する内分に仍つて、自己の何者たるかを能く究めたる者に非ざれば、如何なる書籍をあさる共、如何なる智者の言を聞く共、如何に徹底したる微細なる学理に依る共、自然界を離れ得ざる以上は、容易に霊界の消息を窺ふことは出来ないものである。太古の黄金時代の人間は何事も、皆内的にして、自然界の諸事物は其結果に依つて現はれし事を悟つてゐた。夫れ故直様に大神の内流を受け、能く宇宙の真相を弁へ、一切を神に帰し、神のまにまに生涯を楽み送つたのである。然るに今日は最早白銀、赤銅、黒鉄時代を通過して、世は益々外的となり、今や善もなく真もなき暗黒無明の泥海世界となり、神に背くこと最遠く、何れも人の内分は外部に向ひ、神に反いて、地獄に臨んでゐる。それ故足許の暗黒なる地獄は直に目に付くが、空に輝く光明は之を背に負ふてゐるから、到底神の教を信ずることは出来ないのである。茲に天地の造主なる皇大神は、厳の御霊、瑞の御霊と顕現し玉ひ、地下のみに眼を注ぎ、少しも頭上の光明を悟り得ざりし、人間の眼を転じて、神の光明に向はしめむとして、予言者を通じ、救ひの道を宣べ伝へたまうたのである。
 斯の如く地獄に向つて内分の開けてゐる人間を高天原に向はしめたる状態を、天地が覆ると宣らせ玉ふたのである。
 要するに忌憚なく言へば、高天原とは大神や天人共の住所なる霊界を指し、霊国とは神の教を伝ふる宣伝使の集まる所を言ひ、又其教を聞く所を天国又は霊国といふのである。而して天国の天人団体に入りし者は、祭祀をのみ事とし、霊国の天人は神の教を伝ふるを以て神聖なる業務となすのである。故に最勝最貴の智慧証覚に仍つて、神教を伝ふる所を第一霊国と云ひ、又最高最妙の愛善と智慧証覚を得たる者の集まる霊場を最高天国といふのである。故に現幽一致と称へるのである。
 人間の胸中に高天原を有する時は、其天界は人間が行為の至大なるもの、即ち全般的なるものに現はれるのみならず、其小なるもの即ち個々の行為にも現はるべきものなるを記憶すべきである。故に『道の大原』にも、大精神の体たるや至大無外至小無内とある所以である。抑も人間の人間たる所以は、自己に具有する愛其者にある。自然の主とする所の愛は即ち其人格なりといふ事に基因するものである。何故なれば、各人主とする所の愛は、其想念及行為の最も微細なる所にも流れ入つて之を按配し、至る所に於て、自分と相似せるものを誘出するからである。而して諸々の天界に於ては、大神に対する愛を以て第一の愛とするのである。高天原にては如何なる者も大神の如く愛せらるるものなき故である。故に高天原にては、大神を以て一切中の一切として之を愛し之を尊敬するのである。
 大神は全般の上にも、個々の上にも流れ入り玉ひて、之を按配し之を導いて、大神自身の影像を其上に止めさせ玉ふを以て、大神の行きます所には悉く高天原が築かれるのである。故に天人は極めて小さき形式に於ける一個の天界であつて、其団体は之よりも大なる形式を有する天界である。而して諸団体を打つて一丸となせるものは高天原の最大形式をなすものである。
 綾の聖地に於ける神の大本は大なる形式を有する高天原であつて、其教を宣伝する聖く正しき愛信の徹底したる各分所支部は、聖地に次ぐ一個の天界の団体であり又、自己の内分に天国を開きたる信徒は、小なる形式の高天原であることは勿論である。故に霊界に於けるすべての団体は、愛善の徳と信真の光と、智慧証覚の度の如何によつて、同気相求むる相応の理に仍り、各宗教に於ける一個の天国団体が形成され、又中有界地獄界が形成されてゐるのも、天界と同様、決して一定のものではない。され共大神は天界中有界地獄界をして一個人と見做し、之を単元として統一し玉ふ故に如何なる団体と雖も、厳の御霊瑞の御霊の神格の中より脱出することは出来ない、又之を他所にして自由の行動を取ることは許されないのである。
 高天原の全体を統一して見る時は、一個人に類するものである。故に諸々の天人は其一切を挙げて、一個の人に類する事を知るが故に彼等は高天原を呼んで、大神人といふのである。綾の聖地を以て天地創造の大神の永久に鎮まります最奥天国の中心と覚り得る者は、死後必ず天国の住民となり得る身魂である。故に斯かる天的人間は聖地の安危と盛否を以て、吾身体と見做し、能く神界の為に、愛と信とを捧ぐるものである。
 高天原の全体を一の大神人なる単元と悟りし上は、すべての信者は其神人の個体又は肢体の一部なることを知るが故である。霊的及天的事物に関して、右の如き正当なる観念を有せざる者は、右の事物が一個人の形式と影像とに従つて配列せられ和合せらるることを知らない。故に彼等は思ふやう、人間の外分をなせる世間的、自然的事物即ち是人格にして、人は之なくんば人の人たる実を失ふであらうと。故に大神人の一部分たる神の信者たる者が斯の如き自愛心に捉はれて、孤立的生涯を送るに至らば、外面神に従ふ如く見ゆると雖も、其内分は全く神を愛せず、神に反き、自愛の為の信仰にして、所謂虚偽と悪との捕虜となつたものである。斯の如き信仰の情態に在る者は決して神と和合し、天界と和合することは出来ない。恰も中有界の人間が、第一天国に上つて、其方向に迷ひ、一個の天人をも見ることを得ず、胸を苦め、目を眩して喜んで地獄界へ逃行く様なものである。
 人間の人間たるは決して世間的物質的事物より成れる人格にあらずして、其能く真を知り、能く善に志す力量あるに仍ることを知るべきである。此等の霊的及び天的事物は即ち人格をなす所以のものである。而して人格の上下は、其人の智性と意思との如何に仍るものである。
 大本神諭に……灯台下は真暗がり、結構な地の高天原に引寄せられ乍ら、肉体の欲に霊を曇らせ、折角宝の山に入り乍ら、裸跣足で怪我を致して帰る者が出来るぞよ。これは心に欲と慢心とがあるからであるぞよ。云々……と示されあるを考ふる時は、折角神の救ひの綱に引かれ乍ら、其偽善の度が余り深きため、心の眼開けず、光明赫灼たる大神人のゐます方向さへも、霊的に見ることを得ず、何事もすべて外部的観察を下し、おのが邪悪に充ちたる心より神人の言説や行為を批判せむとする偽善者や盲聾の多いのには大神も非常に迷惑さるる所である。凡て人間は、暗冥無智なる者なることを悟り、至善至美至仁至愛至智至正なる神の力に信従し、維れ命維れ従ふの善徳を積むに非ざれば、到底吾心内に天界を開き、神の光明を認むることは不可能である。吾身内に天国を啓き得ざる者は到底顕界幽界共に安楽なる生涯を送ることは出来ないのは当然である。故に現界にて同じ殿堂に集まり、神を讃美し、神を拝礼し、神の教を聴聞する、其状態を見れば、同じ五六七殿の内に行儀よく整列して居る様に見えてゐる、又物質界より見れば確実に整列してゐるのは、事実である。併し其想念界に入つて能く観察する時は、其霊身は霊国にあるもあり、又天国の団体にあつて聴聞せるもあり拝礼せるもあり、或は中有界に座を占めて聞き居るもあり、又全く神を背にし地獄に向つてゐるのもある。故に此物語を拝聴する人々に仍つて、或は天来の福音とも聞え、神の救ひの言葉とも聞え、或は寄席の落語とも聞え、或は拙劣な浪花節とも感じ、又中有界に彷徨ひたる偽善者の耳には不謹慎なる物語にして、決して神の言葉にあらず、瑞月王仁の滑稽洒脱の思想が映写して、物語となりしものの如く感じ、冷笑侮蔑の念を起し、之に対する者もあり、或は筆録者の放逸不覊の守護神に感じて、口述者の霊が神の言葉と自ら信じ、編纂せしものの如く感ずる者もあり、或は其言を怪乱狂妄悉皆汚穢に充ちたる醜言暴語となして耳を塞ぎ逸早く逃げ帰るものもある。之は霊界に身をおいて、各人が有する団体の位地より神を拝し、且物語を聴く人の状態である。故に此物語は上魂の人には実に救世の福音なれ共、途中の鼻高や下劣なる人間の耳には最も入り難きものである。又無垢なる小児と社会の物質欲に超越したる老人の耳には能く沁み渡り、且理解され易きものである。こは小児と老人は其心無垢の境涯に在つて、最奥の霊国及天国と和合し相応し居るが故である。
(大正一二・一・一六 旧一一・一一・三〇 松村真澄録)
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