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文献名1霊界物語 第79巻 天祥地瑞 午の巻
文献名2前付よみ(新仮名遣い)
文献名3総説よみ(新仮名遣い)そうせつ
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-04-09 10:50:11
あらすじこの至大天球(たかあまはら)に偏在充満する、一切すべてあらゆるものは、気体や液体でさえも、声音を発する性質を持っている。どんなものでも、かすかに変動すればかすかな声音を伴い、大いに変動すれば大きな声音を伴うということは、私が日常に経験しているところである。さて、声音とは何なのか。理学者が唱えるところによると、音響は振動であり、その振動が媒介物(主として空気)を伝い、人間の鼓膜におよび、聴覚神経を経て脳に達することで、声音が認識される、というのである。しかしこれは、単に唯物論的な、物質世界の現象に就いての解釈に過ぎないのである。私は、このような物事の半分しか見ていない解釈には満足することはできない。さらに進んで、なぜ物の振動はさまざまな音響となるのか、そして音響はどのような機能、効果をもっているのか、が知りたいのである。言い換えれば、声が出るときに空気が通過するのは何の為であるか。どうして思考が発声器官を通って声となり、また聞こえてくる声と音が、聴覚器官を通じてどのように精神に影響を与えるのか、と知ろうとしているのである。さらに、これを突き詰めていくと、精神とは何ぞや、という問題に帰着するのである。このような問題に対しては、科学の説明以上の不可思議な力、無碍自在の妙機を認めざるを得ない。哲学的な領域の問題なのである。古来の哲学宗教は、あるいは声音という現象をさかのぼって行き、帰納的に絶対不可思議な本源を認めている。あるいは無碍自在の妙機である根底から、演繹的に思想を展開して、声音という現象を説いている。この無碍自在の妙機、絶対の不可思議力こそが、宇宙の本体である、独一真神、久遠の妙霊にして、一切の声音は、この存在の発現なのである。『大毘盧遮那経』や空海の『声字即実相義』によれば、声は絶対実在の発現にして、万有一切もまた、絶対実在の発現なのである。したがって、声と物とはひとつであり、絶対声物一如というに他ならないのである。また『新約聖書』のヨハネ伝によると、声(ことば)は即ち道であり、道は神であり、神は万有と説いているに他ならない(この意味では、キリスト教も多神教の一つであると言える)。これらは要するに、釈迦やキリストらが認めた「声音即絶対説」であり、われわれの言霊学の声音根本説と類似している。しかしながら、それらは未だおぼろげに声音の妙機を想像したのみであり、言霊学のように、絶対の真を伝え、各声の霊機を明確に整然と説いたものではないのである。そもそもわが国では、大宇宙を至大天球(たかあまはら)と言い、大宇宙の主宰を天之峰火夫の神、または天之御中主という。そして、万有一切を「神」と言い、この活動力を「結び」と言っている。これを言霊学から言うと、至大天球は「あ」と言い、天之御中主は「す」と言い、「す」が分かれ発して七十五声となり、この七十五声は結びの力によってさらに発動すれば万声となり、帰り納まれば一声の「す」におさまるのである。これが一切法界の四大観である。この四大は即ち、あらゆる声音である。天之御中主の発動が神であり、神霊元子と言う。神霊元子とは、「こころ」である。こころとは、絶対の霊機が、ここかしこと発作する状態を言っているのである。このこころの発作がさらに現れたものが、即ち「こえ」である。こえとは、「心の柄」である。この声を広義一面に「をと」と言う。「をと」とは、外より「を」に結びあたるものあるに対して、「と」を結び、応えるということである。「緒止」である。これを厳格に区別すると、「こえ」は有霊機物、すなわち広義の動物の心的作用による、自発的な声音である。「をと」とは、無霊機物、すなわち植物・鉱物等が他から衝撃を受けて声音を発するもので、心的作用がない、他発的声音である。しかし、動物の下等なものは植物と区別できず、植物の下等なものも鉱物と区別することができない。しかも、声音の質はすべて持っている。だから、本にさかのぼれば、声と音とは区別がなく、人間の声も、心の働きを別にして考えれば、音であると言える。声と音とは、天之御中主の心が発動した声音の程度の差によって名づけられたものであり、等しく広義には声なのである。この声音は、法界一切の万有となって形相を現し、また幽冥に隠れて不可思議な性質を現す。この、巻いては延び、隠れては発するという活機が、すなわちいわゆる「結び」である。この結びの力によって、一切法界が生住異滅する状態を、至大天球(たかあまはら)というのである。したがって、至大天球の組成元素は、声音である。声音は、至大天球と共に存在して、如来、真神そのものである。これを真言と言い、道(ことば)と言う。真言はすなわち神であり仏である。言霊は天之御中主の心である。この心をさまざまに動き結んで、万有が生じる。声も区別があって、人の声は明朗であるが、動物の声は数少なく混濁している。すなわち霊機が減少するにしたがって、声も減少するのである。日本と外国にも音声言語に違いがあり、外国の声は濁音、半濁音、拗音、促音、鼻音を用いるものが多く、日本人の声は直音のみであり、清明円朗にして、各声に画然たる区別がある。外国人の声はその元声が少なく、日本人は多い。サンスクリットの母音や、韻鏡(中国語の音韻論)の字母唇音にしても、直音を出そうとするときは、必ず数音をつづり合わせて不足を補っている。日本語ではこのような困難はない。このことは、本居宣長の『漢字三音考』でも論じられている。外国にはつまる音、鼻音が多いが、これらは正しい韻ではない。また、ンではねる音が多いが、ンは鼻から出る音で、口の音ではない。一方、他の音は口を閉じては出ないが、このンだけは口を固く閉じても出るものである。したがって、わが国の五十連音は誤りである。この五十連音はサンスクリットから借りてきたもので、濁音、半濁音を除いている。わが国の声音は、濁音、半濁音を合わせて七十五音なのである。要するに、声音は至大天球の主宰、天之御中主の心の現れたものであり、一切万有が享有する霊機の程度によって声と音とに分かれ、声はさらに霊機を享有する程度によって、人の声と動物の声に分かれる。よって、声音の正不正と多少は、霊機の正不正と多少を示しているのである。それのみでなく、わが国では、声におのおの活機があって、外国語のように無意味な符号ではない。たとえば、漢字音の風をフウという音は、どういう意義を有するか。金をキンという音は、何の意義をもっているか。これこそが世界の語学者がもっとも苦心している問題であり、日本の文部省が国語仮名遣いのために焦慮しても、何の効果もないのは、この根底がないからである。もしこの根底があれば、国音、国語はもちろん、中国、インド、英仏独、ないし禽獣魚類の声をも理解することができるのであり、音を聞けば草木、金石、線、竹の種類をも分けることができる。釈迦はこの功徳を説いて、一切衆生語言を「陀羅尼」と言ったのであり、わが国ではこれを「言霊」と言っている。言霊は言葉の霊(たましい)である。霊とは心の枢府である。すなわち、自分の心の枢府(小我)はやがて天之御中主(大我)の心の枢府となる。この心の枢府を言葉の上から見たものが、すなわち言霊なのである。だから、言霊を知るときはあらゆる一切の言語声音を知ることができ、一切の言語声音を知るときは、天之御中主全体、すなわち至大天球(たかあまはら)を知るのである。だから、もし真にこれを知って言霊を用いれば、一声のもとに全地球を焼くこともできるし、一呼のもとに全宇宙を漂わすこともできる。まして、雷霆を駆り、風神を叱咤し、一国土を左右し小人を生殺することはなんでもない。このような言霊、大道、妙術は実に、わが国固有のものである。ゆえにわが国を言霊の幸はふ国と言い、言霊の助くる国と言い、言霊の明らけき国と言い、言霊の治むる国と言うのである。わが国がこのように霊機の集まるところであり、このような大道を具有している理由は、至大天球成立の自然によるのである。それは、至大天球における脳髄のようなものだからである。古事記による天体学から証拠を求めると、地球は至大天球の中心に位置し、やや西南に傾度をもっている。そしてわが国は、その地球の表半球の東北方面の上部に位置しているので、あたかもわが国は、地球面の中央の上に位置しているのであり、温帯中にあって寒暑が適度にあり、土壌が豊かで水気は清澄なのである。これゆえ、わが国をまた、豊葦原瑞穂の国と言うのである。豊葦原とは、至大天球(たかあまはら)のことである。瑞穂は「満つ粋」であり、「ほ」は稲葉などの穂または槍の穂先などのことであり、精鋭純粋のものを言うのである。満つ粋(みつほ)の国とは、地球上における粋気が充満する国、という意味である。だから、その国土に生じる一切は、皆精鋭の気を集めて生まれている。霊機もまた精鋭なのである。この霊機を真に用いれば、天を震わせ地を揺り動かす業も難しくないのである。そして、このように精鋭なものを用いようとすれば、その用法もまた、精鋭である必要がある。そして、その用法とは、実は我が朝廷における天津日嗣の大道妙術なのであり、いわゆる言い継ぎ語り継ぎつつ伝えられる、わが国固有のものなのである。しかしながら、崇神天皇の大御心によってひとたび包み隠されて以来、しばらくその伝を失ってしまった。天下は乱れて儒仏教の伝来となり、これと同時に外国の語声をも輸入することとなった。以降、わが国の道はますます失われ、言霊の伝はいよいよ滅び、万葉集時代にはすでに仮名遣いの誤れるものも多くなってしまった。こういう有様のうちに、今日使用されている五十音ができあがるに至ったのである。五十音はインドのサンスクリットの転化したものであり、自然の理法にたがえることはなはだしいものである。今、崇神天皇以来二千年を経て天地が一回りし、かの秘蔵された大道が世に出ようとするに至っている。しかしながら、習慣に慣れて久しい人々は皆、謝った五十音をもって大道の本然であると信じ、言霊をかえって奇異を好むでたらめの説であるとしている。だから、今ここにこれを明らかにしようとするに際して、まず現行五十音の基本であるサンスクリット音韻が宇宙真理の正伝ではないことを知らしめようとするのである。しかしまた、現行五十音がサンスクリットの音韻に基づくということを知らない人もあるので、さらに一歩を引いて、五十音の出所を論定し、そうしてから本論に入る。五十音図は、吉備真備の作、または真言の僧徒が作ったなどの説があるが、いずれにしても、サンスクリットから出たものは明らかである。真言僧が作ったといえばそのものであるし、吉備真備が作ったにしても、漢語の音韻を参考にしたであろう。しかし漢語の音韻はサンスクリットを元にしているからである。サンスクリットには母音十二字、父音三十五字がある。その音字の配列順序を勘案するに、これがサンスクリットの音韻図を元にしていることは明白なのである。
主な人物 舞台 口述日1934(昭和9)年07月16日(旧06月5日) 口述場所関東別院南風閣 筆録者林弥生 校正日 校正場所 初版発行日1934(昭和9)年10月25日 愛善世界社版 八幡書店版第14輯 158頁 修補版 校定版1頁 普及版 初版 ページ備考
OBC rm790002
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本文  此至大天球の中に遍在充満する一切万有は、其物の気体たると液体たるとを問はず、何れも声音(声と音とは区別あれども、今茲に声音と連ね書くは、声にも非ず、音にも非ず、全く両者を兼ねて不二なるものの仮名なり)を発する性質を有せざるはなし。今如何なる物と雖も、微かに変動すれば、微かなる声音を伴ひ、大に変動すれば、大なる声音を伴ふは吾人が日常経験する処なり。
 さて其声音とは何ぞや。通常理学者の教ふる処を以てすれば、音響なるものは一の振動にして、或物の振動は、其振動を媒介物(主として空気)に及ぼし、媒介物の振動は吾人の鼓膜に及ぼし、鼓膜の振動は聴覚神経を経て脳に達するに因ると言ふにあり。而もこれ唯単に唯物論的形而下の解釈而已。吾人は斯かる半面の解説のみにては満足すること能はず。尚進んで物の振動は、何故に種々なる音響となり、又音響なるものは如何なる機能を有し、如何なる効果を有するやを知らむと欲するなり。換言すれば、吾人の声は気管を通過する空気が声帯其他の発声機関に触れて発するなりてふ説明以外に、其発声の因たる空気の通過するは何の為なるや。吾人の思料する処は、何故に発声機関を藉りて声となり、又他より来る声と音とは、何故に吾人の聴管を通じて精神に影響するやを聞かむと欲するなり。更に之を究竟する時は、精神とは如何てふ問題に帰着するなり。
 吾人は斯かる問題に対しては最早科学の説明のより以上の不可思議力、無礙自在の妙機を認めざらむと欲するも能はざるものにして、茲に全く科学の圏囲を超脱したる形而上学即ち哲学的領域に入るものなり。古来の哲学宗教が或は声音なる末流を遡りて帰納的に絶対不可思議なる本源を認め、或は無礙自在の妙機なる根底より演繹的に声音なる枝葉を説くも、畢竟ずるに之が為のみ。此無礙自在の妙機、絶対の不可思議力こそ実に所謂宇宙の本体、独一の真神、久遠の妙霊にして、一切の声音は即ち其発現なれ。
 大毘盧遮那経(第二具縁真言品)に言ふ。

秘密主。此真言相非一切諸仏所作。不令他作亦不随喜。何以故。以是諸法法如是故。若諸如来出現。若諸如来不出。諸法法爾如是住。謂諸真言。真言法爾故。

 同経の疏の七に曰く、

以如来身語意畢竟等故。此真言相声字皆常々故不流。無有変易。法爾如是。非造作所成。若可造作則是生法。法若有生則可破壊。四相遷流無常無我。何得名為真実語耶。是故仏不自作。不令他作。設令有能作之人亦不随喜。是故此真言相。若仏出興於世。若不出世。若已説。若現説。若未説。法住法位性相常住。是故名心定即。衆聖同即此大悲漫荼羅一切真言一一真言之相。皆法爾如是故重言之也。

 又空海の声字即実相義に曰く、

名教の興りは声字に非ざれば成ぜず。声字分明にして実相顕はる。又内外の風気纔に発すれば、必ず響くを名づけて声と言ふ。響は必ず声に由る。声は即ち響の本なり。声発して虚しからず、必ず物の名を表す、号して字と言ふ。名は必ず体を招く、之を実相と名づく云々

と。是れ声は絶対実在の発現にして、万有一切も亦絶対実在の発現なれば、畢竟ずるに声物一如、絶対声物一如なりと言ふに外ならず。又新約書の約翰伝には、之を最も巧妙に言ひ現せり。云く、

太初に道あり道は神と偕に在り、道は即ち神なり、この道は太初に神と偕に在りき、万物これに由て造らる、造られたるものに一として之に由らで造られしは無し、之に生あり、此の生は人の光なり、光は暗に照り、暗は之を暁らざりき云々……。それ道肉体と成りて我儕の間に寄れり。我儕その栄を見るに、実に父の生みたまへる独子の栄にして、恩寵と真理とに充てり……

と。是れ声は即ち道、道は即ち神、神即ち万有なりと言ふに外ならず。(此点に於ては基督教も多神教の一なり)要するに是等は釈迦、基督等が認めたる声音即絶対説にして、我言霊学の声音根本説と相類似せりと雖も、其所説たる、漠然として拠る所なく、朦朧気に声音の妙機を想像したるのみにして、我言霊学の如く、絶対の真を伝へ、各声の霊機の明確にして整然たるが如きには非ざるなり。
 抑此大宇宙を我国にては、之を至大天球と言ひ、大宇宙の主宰、之を天之峰火夫の神または天之御中主と言ひ、万有一切、之を神と言ひ、此活動力、之を結びといふ。(而して尚之を言霊学の上より言ふ時は、至大天球は一声にあと言ひ、天之御中主は之を一声にすといひ、す分れ発して七十五声となり、此七十五声は結びの力によりて、更に発動すれば万声となり、帰り納まれば一声のすに蔵まる)是一切法界の四大観なり。此四大は即ちあらゆる声音なり。天之御中主の発動、之を神といひ、神霊元子と言ふ。神霊元子とは、こころなり、こころとは絶対の霊機が、此処彼処と発作するの謂なり。此のこころの発作が更に現れたるもの即ちこゑなり。こゑとは即ち心の柄なり。此声広義一面に又をとと言ふ。をととは外よりをに結び当るものあるに対して、とを給び、対ふるの謂にして、緒止なり。
 之を厳格に区別せば、前者は有霊機物即ち動物(広義)の心的作用による自発的声音なり、音に非ず。後者は無霊機物即ち植鉱物等の他より迫撃するを俟つて後声音を発するものにして、心的作用なき物の他発的声音なり、声に非ず。然れども動物の下等なるものは植物と区別すべからず。植物の下等なるもの亦鉱物と区別する能はずして、而も一種の声音の質を有するものなれば、其の本に遡る時は、声と音とは区別なく、其末に奔る時は人間の声と雖も、其声より心の活きなる観念を控除して考ふる時は、是れ音なり。之を要するに、声と音とは天之御中主の心が発動したる声音の程度の差によりて名づけられたるものにして、等しく広義に於ける声なり。此声音は法界一切の万有となりて形相を現じ、又幽冥に蔵れて不可思議なり。
 此巻舒発蔵の活機は即ち所謂結びにして、此結びの力によりて、一切法界の生住異滅する状態を至大天球とは言ふなり。されば至大天球の組成元素は声音なり。声音無ければ至大天球なし。故に此声音は至大天球と共に存在して、如来の所作に非ず、真神の所生に非ず、如来、真神そのものなり。之を真言と言ひ、之を道と言ふ。道即ち神にして、真言即ち神也、仏也。(我国にては之を言霊と言ふ、言霊は即ち神なり、神は即ち天之御中主の心なり、此心を種々に動き結びて万有を生ず。万有は万別あり、故に万有の言霊亦万別あり)
 此声音を大別すれば、則ち已に言へりしが如く、声と音とに別る。而して此声更に別あり。一は人の声にして、他は動物の声なり。人の声は明朗にして数多く、動物の声は溷濁にして数少く、又動物の下等なるものに至りては、僅に響を有するのみ。即ち霊機の減少するに従つて、声亦減少するなり。尚又同じく、人間にても外人と我日本人との音声言語を比較するに、外人の声はすべて濁音、半濁音、拗音、促音のみにて、又鼻音ンを用ふるもの頗る多く、日本人の声は直音のみにして(但し今日の人の声は此限りに非ず)清明円朗にして、各声確然たる区別あり。外人の声は数声の連続拗曲せるものなるが故に、其元声少く(悉曇五十音、英語二十四音の如し)日本人の声は一々朗明なるが故に、其元声多し。(七十五声なり)彼等は拗促音を本位として直音を出し、日本人は直音を本位として拗音を用ふるなり。(但し上古は一も拗、促音を用ひず)故に外国人が直音を出さむとするも、日本人の如く円満朗明なる能はず、又日本人が拗、促音を発せむとするも、外国人の如き曲拗促迫したる音を出す能はず、両者自ら主客の位定まりて動かすべからず。
 例へば、悉曇の摩多(母音)了(ウに用ふ)エイ(エに用ふ)ウウ、ヲウ(アウヲに用ふ)の如く、また韻鏡の字母唇音濁の並「ベイ」「ヘイ」(部廻「ブキヤウ」「ホウケイ」にして、バビブベボの韻を受く)、歯音清の精「シヨウ」(子盈「イヤウ」切にしてサシスセソの韻を受く)等の如し。是等は我国の声にて呼べば、ヲウエイ、アウビヤウシヤウ等なれども、本音はヲウ、エイ、アウ、ビヤウ、シヤウ等なり。故に拗、促音を本拠とせる外人より直音を出さむとするには、必ず数音を綴り合し、不足を補ひ余れるを捨て、所謂反切の結果に非ざれば出すこと能はざるなり。況や又彼等が用ふる拗、促音を出さむとするに於てをや。即ちヲウはトウ、ツに用ふる時始めてウの如く活き(ツはタとヲウとの合なるが故に)、エイはセイ、セに用ふる時始めてヱの如く活き(セはサとエとの合なるが故に)、又並「ベイ」「ヘイ」は、バビブベボに活く字母なれども、下に附くイ、ヤウを除かざれば用を為さず。精「シヤウ」はサシスセソに活く字母なれども、下に附くイ、ヤウを除かざれば用を為さず。徳紅切東は徳のクと紅のコとを切り除かざれば、トウに成らず。戸公切紅も公のコを切り除かざれば、コウに成らざるにても瞭なり。我国の直音を本拠とするものよりすれば、毫も斯かる困難なし。尚此等の事、鈴廼屋大人の漢字三音考にも論ぜられたり。
 また外国人の音は、凡て朦朧と溷濁して、譬へば曇り日の夕暮の天を瞻るが如し。故にアアと呼ぶ音のオオの如くにも聞え、又オオと呼ぶ音のウウの如くにも、ホオの如くにも聞ゆる類、分暁ならざること多く、又カキクケコとハヒフヘホとワヰウヱヲと相渉りて聞えるなど、諸の音皆皇国の音の如く分明ならず、又溷雑紆曲の音多し。東西を今の唐音にトンスヰと呼ぶが如き、トとンと雑り、スとヰと雑り、又トよりンへ曲り、スよりヰへ曲る。春秋をチユインチユウと呼ぶが如き、チとユとイとンと雑り、チとユとウと雑り、又チよりユへ曲り、イへ曲り、ンへ曲り、チよりユへ曲り、ウへ曲る。古の音も皆斯の如し。一音にして斯の如く溷雑し、二段、三段、四段にも拗れ曲るは不正の音にして、皇国の音の正しく単直なると大に異り、曲らざる音もあれども、それも皇国の正しき単音の如くには非ず。アア、イイ、ウウ、カア、キイ、クウなどのやうに皆必ず長く引きて、短く正しくは呼ぶことあはたず。短く呼べば必ず韻急促りて入声となるなり。
 外国の入声は皇国の入声の如きクキツチフ等の顕はなる韻はなくして、単音の如くなれども、正しき単音には非ず。其の陶物に行きあたりたる如くに急促りて、喉内に隠々として韻を帯べり。此方にて悪鬼、一旦、鬱結、悦気、臆見、甲子、吉凶など連ね呼ぶときの悪、一、鬱、悦、臆、甲、吉等の音の如し。故に今この書(三音考)に入声の形を言ふには、仮に其音の下にツ点を施して識とす。日月の唐音をジツエツと書くが如し。これ新奇を好むにあらず、其韻を示すべき仮字なきが故なり。此点を施せるは皆急掣る韻と心得べし。さて斯の如く韻の急促るは甚だ不正の音なり。皇国の音は(い、ゐ)いかに短かく呼べども、正しく舒緩にして急促る事なし。又外国には韻をンとはぬる音殊に多し。ンは全く鼻より出づる音にして、口の音に非ず。故に余の諸々の音は口を全く閉ぢては出でざるに、此のンの音のみは、口を堅く閉ぢても出るなり。されば皇国の五十連音、是誤りなり。此の五十連音は下に言ふ悉曇の出にして、濁音、半濁音を除きたるなり。我国には之を合して七十五音なり。鈴廼屋大人も之を知らざれば斯る論あり。
 この五位十行の列に入らずして縦にも横にも相通ふ音なく孤立なり。然るに外国人の音は凡て溷濁して多く鼻に触るる中に、殊に此のンの韻多きは、物言に口のみならず、鼻の声をも厠供るものにして、其の不正なること明らけし。皇国の古言には、ン声を用ふるもの一もあることなし云々。
 是れ主として支那字音に関しての見解なれども、他の外国の声音も此の理に漏れず。之を要するに声音は至大天球の主宰、天之御中主の心の発はれたるものにして、一切万有が享有する霊機の程度に由つて声と音とに分れ、声は更に霊機享有の程度に由つて人の声と動物の声とに分れ、人の声は又更に霊機享有の程度に由つて、日本人の声と外人の声とに分れ、茲に声音の正不正と多少とは、明らかに霊機の正不正と多少とを示せり。
 加之我国には、其声各活機ありて機能を有し、我国に有りとあらゆる言詞は、皆此声に依りて義を現はし、心を顕せるものにして、彼外国語の如く、有り来りの無意味なる符号には非ず。例へば漢字音にて風を風と呼ぶ、而もフウと言ふ音は何の意義を有するや。又金を金と呼ぶ、而もキンと言ふ音は何の意義を有するや。(但し韻鏡学者は種々理窟を附するも、僅に少数の音に止まり且つ完全ならず)
[#図 声と音]
 其他印度語にても、又英仏語にても、斯の如く推究しゆけば、遂に捕捉する処なきに了るなり。是れ世界の語学者が最も苦心しつつある問題にして、我文部省が国語仮名遣のために焦慮惨憺するも寸効を奏せざるは、畢竟是根底無ければなり。若し此の根底だに有らば、我国音、国語は勿論、支那、印度、英、仏、独語乃至禽獣鱗介の声をも解し、又其音を聞けば草木、金、石、線、竹の種類をも分つべし。(聞き慣れ居るが故に大凡は聞き分ち得るなり)
 釈迦は之が功徳を解き一切衆生語言を陀羅尼と言ひ、我国にては之を言霊と言ふなり。
 言霊とは言葉の霊なり。霊とは心の枢府なり、即ち吾(小我)心の枢府はやがて天之御中主(大我)の心の枢府なり。此の心の枢府を言葉の上より観たるもの即ちわが言霊にして、此の言霊はやがて天之御中主の言霊なり。故に此の言霊を知る時はあらゆる一切の言語声音を知り、一切声音言語を知る時は、天之御中主全体即ち至大天球を知るなり。されば若し夫れ真にこれを知りて言霊を用ふれば、一声の下に全地球を燎くべく、一呼の下に全宇宙を漂はすべし。況や微々たる雷霆を駆り、風神を叱し、乃至一国土を左右し、小人類を生殺するに於てをや。如是言霊、如是大道、如是妙術は実に我国の具有なり。故に我国を言霊の幸はふ国と言ひ、言霊の助くる国と言ひ、言霊の明らけき国と言ひ、言霊の治むる国とは言ふなり。(是等は我古事記を真解するに依りて明らかなり)
 抑我国が斯の如く霊機の淵叢地にして、如是大道を具有する所以のものは、至大天球成立の本然に由るものとす。猶吾人の一身を支配する精神の宿れる脳髄の如く、至大天球に於ける脳髄なればなり。彼藤田東湖が「天地正大の気粋然として神州に鍾まる」とうたへるも、朦朧気ながらにも之を想像したればなり。今一歩を降つて之を天文地文的関係より観る時は、実に我国が地球上に於ける位置、気候、水土の関係より来るものなりと謂ふべし。香川景樹も水土の関係より声音の正不正を論じて曰く、(古今集正義序)

声音は性情の符、性情は水土の霊ならむこと更に論を俟つべからず。而も濁れる中にありては、善しと能く見し西土の、芳野の花の美善きを書せるに似たるも、百千鳥侏離のこちたきを免れざれば、彼いはゆる楽んで揺せず。哀で傷らざらむ性情の正を得むことは、ほとほと希なるべし。況や黄なる泉に染紙のいたく喧擾せる響をや。猶余んの万づ国原、其音すべて単直清朗なる事能はざるは、我天津日御霊の大御照しますらむ大御光の遍き際りに疎ければ、水土自然に剛潔ならずして、彼の雑はり濁れる柔土弱水の中に涵育るが故なりと知るべし。されば其謡へるや譜節して、之を文どり、鐘鼓もこれをたすくといへども、なほ其の音清爽ならず、其調朦朧なるを、如何にせむや。独我安積香の山の井浅からず。清濁る影し見えねば、難波津の何をかわけて善や悪やをとはむ。
膂肉の空しく、内木綿の洞ろにして、天霧さはる隈しなければ、金石を仮らずと雖も咏ふを得べし。ただちに天地を感動し、神人和楽かく、何ぞ百獣の舞をうらやまむ云々。

 是れ、専ら漢詩を斥けて和歌を興さむが為めに論ぜるなれども、其の水土による声音性情の関係を論ぜる大凡の意は聞ゆるなり。気候水土の関係によりて、其国人の性情風俗一切が各特異の点にあることは、吾人の日常見聞きする処にして、又是等天然の勢力が、実に偉大なる不可抗力を有するものなることは、欧洲にても、モンテスキユー、スペンサー等其他社会学者も等しく認めて論明せる処にして、今此の声音の如きも畢竟同理なりと言ふべし。我古事記に依る天体学に徴する時は、地球は至大天球の中心に位して、稍西南に傾度を有せり。(地球中心説)而して我日本は其の地球の表半球の東北方面の上部に位するが故に、恰も我国は地球面の中央の上に位置するものにして、温帯中にありて、寒暑度を失はず、土壤沃腴にして水気清澄なり。是を以て又我国を豊葦原瑞穂の国と言ふなり。
 豊葦原とは、至大天球の事なり。瑞穂は満つ粋にして、ほは稲葉などの穂又は鎗の穂先など謂ひて、精鋭純粋の処を言ふものにして、満つ粋の国とは地球上に於ける粋気の充満する国の意なり。されば、其の国土に生ずる一切は、皆精鋭の気を鍾めて生れ、霊機も亦精鋭なり。斯の如く皆それ精鋭なり。故に曰く、真にこれを用ふれば震天撼地の業も亦難からずと。さて斯く精鋭なるものを用ゐむとする時は、其の用法も亦精鋭ならざるべからず。而して其の用法は実に我朝廷に於ける天津日嗣の大道妙術にして、所謂言ひ継ぎ語り継ぎつつ伝へ給へる我国具有のものなり。
 然れども崇神天皇の大御心によりて、一び韜蔵せられてより以還、暫く其伝を失ひ、天下紊れて儒仏教の伝来となり、これと同時に、又外国の語声をも輸入し来りぬ。所謂支那字音及び印度悉曇是なり。爾後我国の道益々に失ひ、言霊の伝愈泯び、祭都潢成が如きすら我国上古文字無しと言ふに至り、万葉集時代には已に仮名遣ひの愆れるもの多く、源ノ順朝臣が我が国古語の失はれむことを憂ひて、和名抄を遺したれども、其の和名抄已に誤りあり。斯の如き有様なりしかば、現在今日まで使用してある五十音の此間に起るに至りしなり。是れ実に印度悉曇の転化したるものにして、其が自然の理法に違へること甚し。今や崇神天皇以来二千年を経、時運りて乾坤一転せむとし、茲に彼の秘せられたる大道は世に出でむとするに至りぬ。然れども馴致習慣の久しき人皆、彼の誤れるものを以て、大道の本然なりと信じ、却つて此を以て奇異を好める妄誕の説とせむ。
 故に、今茲に之を闡明せむとするに際して、先づ現行五十音の基本なる悉曇なるもの宇宙真理の正伝に非ずして、神随の本道に非ざる所以を知悉せしめむとす。然れども亦往々にして現行五十音が果して悉曇に基づくものなるや否やを知らざるものあるべければ、又更に一歩を退いて五十音の出所を論定し、而して後本論に入らむとするなり。抑従来の片仮名、五十音図共に吉備真備が作なりと言ひ、又真言の僧徒が天竺の悉曇章によりて、邦人に固有する音のみを挙げて作りしものなりといふ等、其他異説多くして詳ならず。吾人は今之が作者の何人なるやを尋求するは、必然の要件に非ずして、五十音図そのものの根拠を求めむとするものなるが故に、作者の穿鑿は姑く之を措きて問はず、直ちに五十音の故郷に入らむとす。
 さて、今之を真言僧侶の手に成れるものとせば、悉曇の出なることは、論を俟たず。而して又これを吉備真備の作なりとするも、同じく是れ悉曇に基くものなり。何者か吉備大臣が之を作りしとするも、必ずや入唐帰朝後のことに相違なくして(唐に居ること二十年、我聖武天皇の天平七年帰朝す)学び来れる漢音によりて作れるものなるべく、而して従来支那韻書なるものは、悉曇より出でたるものにして、畢竟同根の出なればなり。
 張鱗之が韻鏡序に曰く、

余年二十始得此学字音。往昔相伝類曰洪韻。釈迦子之所撰也。有沙門神珙。号知韻音。甞著切韻図載玉篇(南梁高祖武帝の天同九年成る)巻末。窃意。是書作於此僧。世俗訛呼珙為洪爾。然又無処拠云々

又曰く、

梵僧伝之華僧続之云々

と。仍て支那韻書も亦悉曇より転化せるものなるを知るべし。故に何れにしても、我五十音は悉曇に根拠を有するものなることは明けし。韻鏡易解大全に曰く、

依開奩抄等。竪阿伊宇恵遠五字及横加佐太奈波末也羅和九字者在仏経中。余所三十六字(五十音中父母音を除きたるもの)弘法大師所加也云々

或は又、

作者未分明矣

と。又同頭書に曰く、

云々三十六字雖大師加之。彼土本有転声法。有反音相通規則。故専見有口授伝来非云新加之乎

と。今五十音中父母音を除きたる余りの三十六字は、空海が加へたりとするも、若くは否らずとするも、已に父母音にして彼に存し、其音字の配列順序にして両者同一なる点より考ふるときは、最早疑ふの余地なかるべし。
[#図 五十音図]
 悉曇には母音十二字あり、之を摩多と言ひ、父音三十五字あり、之を体文といふ。而して我国の五十音図の父母音は、皆右の中の同類音を一音に約したるものなり。即ち「」印を附したるは、其の約音を表する字にして、余の字を除去すれば、アイウエオ及びカサタナハマヤラワを残し、此の父母音交りて、他の三十六音図は、此の悉曇図を襲へるものなるは明白なり。(但し此図は之を襲用せるものなるも、声音は之を襲用せるものに非ずして、正しく我国の声なり。上古よりは多少の変化あれども、之を襲ふも其類似の声の位置を借りたるものなり、迷ふべからず。印度人の声は到底日本人の声とは同一ならざるなり)
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