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文献名1霊界物語 入蒙記 山河草木 特別篇
文献名2第5篇 雨後月明よみ(新仮名遣い)うごげつめい
文献名3第36章 天の岩戸よみ(新仮名遣い)あまのいわと
著者出口王仁三郎
概要
備考2024/2/18出口王仁三郎全集第6巻を底本として校正。
タグ データ凡例 データ最終更新日2024-02-18 16:54:55
あらすじ門司署の三階から街道を見れば、あまたの信徒が大道に列を作って自分らを見上げていた。自分は空前絶後の大業を企てたが、不幸にして中途で帰国するに至ったのも、神界の経綸として止む無きことではあるが、妻子兄弟、役員信者の胸のうちはいかばかりであろう、と思わず万感が胸に満ちた。続いて下関所に送られ、しばらく休憩の後に自動車で駅に送られた。警察の門口には直霊が待っていた。汽車で大阪に向かい、途中大竹、上郡警察署の拘留所にそれぞれ一泊した。相生橋署を経て大阪駅に下車すると、見物人が蟻の山のごとく、新聞社の取材班がレンズを向けて待ち構える中を、曽根崎署、続いて天満署の拘留所へ、そして同署の裏門から徒歩で若松支所に向かった。支所内で書籍の差し入れを受けて、大本役員が債権問題について青くなっていることや、債権者が厳しい催促を始めたことがわかって、歯がゆい思いをしていた。結局九十八日間、入獄することになったが、その間に精神の修養をなし、日出雄の蒙古入りについての記事を読んだりして、あっという間に日々をすごしてしまった。旧七月十五日の夜、女神が自分に朝日タバコを渡して、莞爾として姿を消したもうた。これは、朝日を渡されたので、やがて岩戸が開くだろうが、一服して時を待て、という意味であると知った。これにより、長期の入獄を覚悟した。また、新暦十月の中ごろ、母と一緒に本宮山のような丘陵を歩いていると、大本信者が一人、一生懸命に雑木を伐り、土をひきならして道を開いていた。これは保釈を許される前兆であろうと知った。その次は、自分が非常に高いとがった山の上に登ったが、下り道がどこにもない。すると白馬が二頭現れて、鎖をかけてくれたと見るや、ものすごい勢いで帰ってしまった。自分のために活路を開くべく奮闘している信者のあることを感じたのである。ある日真澄別が面会に来て、霊眼で「十一」を見せてもらったという。果たして、日出雄の保釈が決定したのが旧暦十月一日であり、若松支所を出たのが新暦十一月一日の午前十一時十一分であった。聖地では秋季大祭があり、分所支部長会議では財政整理問題について激論が始まっていた。そこへ、保釈の報が届いたので、一同神言を奏上し、大阪へ迎えに来たのであった。
主な人物 舞台 口述日1925(大正14)年08月16日(旧06月27日) 口述場所 筆録者北村隆光 校正日 校正場所 初版発行日1925(大正14)年2月14日 愛善世界社版330頁 八幡書店版第14輯 668頁 修補版 校定版333頁 普及版 初版 ページ備考
OBC rmnm36
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本文  異境万里の旅を終へ、不敬並に新聞紙法違反の責付取消と云ふ、あんまり有難からぬ悪名を負ひ、漸くにして再び日本の風光に接し、純真なる役員信徒に遥々迎へられ、門司水上警察署に送られ形式ばかりの質問を受け、門司署の三階の風当りよき北側の窓にそふて椅子にかかり煙草をくゆらし乍ら、階下の街道を見れば、数多の信徒は羽織袴又は洋服姿にて大道に列を作り、自分等を見上げてゐる。中には嬉しさの余り、歔欷するものさへあつた。日出雄、心の中にて思ふやう
『ああ、ああして信徒が自分を迎へて呉れて居るが、ゆつくりと蒙古の話をする時間も与へられず、諸所の警察から警察へと送られ、二三日の中には、目出度目出度の若松さまでは無うて、よしもあしきも難波江の若松監獄に未決収監の身とならねばならぬ。自分は空前絶後の大業を企て、不幸にして中途に帰国するの止むを得ざるに立到つたのも、神界の御経綸として是非なき事である。又別に大きい心配もしてゐない。乍然妻子、兄弟、役員信者の心の裡はどんなであらう』
等と思へば万感胸に充ち、不思不知両眼に涙がにじみ出た。我と我手に心を、とり直し
『エー、馬鹿々々しい、こんな気の弱い事でどうして天下を救ふ神業に奉仕する事が出来やうか、比較的……人間と云ふものは強いやうでも弱いものだなア』
と自分の心をたしなめたり嘲つたりもし乍ら、時の移るを待つてゐると、門司署は又逃げられては大変だとでも思つたものか、数多の信者を駅の方へ追ひやり、倉皇として日出雄、真澄別其他を小蒸汽に乗せ、下関署へ送り届けた。下関署へ行つて見ると信者らしいものは一人も来てゐない、暫らく休憩の後、下関署員三名に送られて自動車の客となると、直霊が警察の門口に待つてゐた。
 内地へ帰つてから初めて見た青物店屋の西瓜や甜瓜、バナナ、林檎等が、うまさうに芳しい香を立てて蒙古の荒野を、さまようた鼻を非常に刺戟する。『久振りで一つ西瓜を喰つて見たらなア』と思へど、そんな気儘を云ふては悪からうと遠慮した。
 駅につくと汗をタラタラ流し乍ら柴田健次郎氏が只一人、あわてて飛んで来た。護送の警官と共に三等室に乗つて見ると直霊、井上会長、東尾、湯浅其他の役員信者が満載されてゐた。次いで大竹、上郡等の警察の拘留所に一泊し乍ら大阪へと向ふのであつた。大竹警察署で湯を沸かして貰ひ、盥で行水をやつた。体量頓に減じて十五貫五百目、肩の骨が尖り、肋骨は高く現はれてゐるのを見て、背中を流しに来た加藤明子があた外聞の悪い──泣くのには一寸面喰らはざるを得なかつた。上郡では真澄別と一所に新しい拘留所で一夜を明かし、神戸駅へ着くと沢山な出迎人がやつて来て一々挨拶をする。二代、宇知丸は上郡駅から一所であつた。相生橋署を経て大阪駅に下車するや、見物人は蟻の山の如く、毎日新聞の活動写真隊や各新聞社がレンズを向けて待ち構へてゐる中を、人波を分けて人力車に乗り、曽根崎署へと送られ、次いで天満署の拘留所へ三十分ばかり投げ込まれ、同署の裏門から徒歩にて若松支所へ行かむとするや、大本役員信者及び見物人は山の如く雑踏を極めた。支所の入口には又もや沢山な新聞社の写真班が待ち構へてゐて、盛んにシヤツターの音をさせてゐる。此門を潜るや否や、信愛なる役員信者に別れねばならぬ。殆んど暗い穴へでも、もぐり込むやうな気分が漂ふてゐた。直に支所長の室に導かれ、先づ第一に背の高さや、体の目方や、身体の特徴などを調べた上、前以て差入れてあつた軽い浴衣と着換へ、支所長の役人気離れての打解話に、蒙古に於ける奮戦苦闘の状況を面白く聞かせ所長をアツと云はせ、直ちに、同所の二階の九十八号に収容されて終つた。此室は北に窓があけてあり、さうして建物が立つてゐないので風当りが非常によい、そして窓からのぞけば梅田の停車場附近まで見られる、支所内第一の上等室であつた。どの室もどの室も独房は横巾四尺、縦七尺強にて殆んど一坪に足らない狭隘なる西洋式の監房である。その中で布団も布き、手水も使ひ、荷物も置き大小便もやらねばならぬ。おきて半畳、寝て一畳といつも悟つた顔して云つて居つても、実際、こんな所に突込まれたのは可なりつらかつた。渺茫として天につらなる蒙古の野辺に、ツツパリのない空を屋根となし際限もない大地を褥となしてグウグウと寝てゐた事を思へば、俄に、象が黴菌に変化したやうな気分になつた。当年は特別暑熱烈しく、殆んど堪へきれない程で、身体一面から油のやうな汗が滲じみ出る、窓はあつても六尺も上にあいてゐるのだから、あまり涼しくもない。乍然パインタラの遭難の事を思へば
『マアマア結構だ、ここに居れば生命は大丈夫だ、今こそ、こんな狭い所に蚕の蛹のやうに繭の中にすつこんでゐるが、メツタに熱湯の中に放り込まれて殺される心配も要らず、やがて此殻を破つて蝶と孵化し、沢山の子を産んで再び再生の春に会ふ』
のを唯一の楽しみとなし二日三日と日を送つた。今迄刑務所へは法律に関する書籍と宗教に関する書籍の外差入を許されなかつたのが、一ケ月以前から肩のこらぬ講談雑誌や面白倶楽部その他時事に関するものも差入を許す事となり、非常に無聊を慰むるに都合よくなつてゐた。又『神の国』や『霊界物語』の差入が許されたので、ゐながらにして大本の状況を知る事を得た。が然し、いい事があればその反面に悪い事のあるものだ。大本役員が債権問題について青くなつてゐる事や、新に債権者が、きびしい請求を始めた事が分つて非常に歯がゆく思つたが、何と云つても囚れの身、自由が利かぬのに少しく当惑せざるを得なかつた。役員信者の面会、弁護士の面会にて午前中は相当に忙しく、隔日に葉書を書く、一週間目に散髪をする、四日目位に風呂に這入る、医者の診察を受ける、その間に筆硯を握つて詩歌を書きつける、面白い小説を読む、随分日を経るに従つて手紙の数も殖えて来るなり、忙しさを感じて来た。その為め九十八日間の収監もあまり長くは感じなかつたのである。殺人犯や暴動罪や詐欺、泥棒等の未決囚と共に、日曜を除く外は毎日看守に送られて長い廊下を渡り面会所に順番の来るのを待つてゐた。その間には種々の面白い話を聞き、彼等の心理状態を知悉する事を得た。足立弁護士がやつて来て、その筋の諒解を得て置いたから、直ぐに保釈の許可になるだらうから安心せよと云つた。自分も是非一度帰つて早く蒙古事情を役員信者に話して安心させ度いと思つた矢先だから、一日も早く出監し度いと思つてゐると、○原○嶺氏より大変都合の悪い長たらしい書面が日出雄名宛に舞ひ込んで来た、その結果はとうとう保釈もオヂヤンになり、九十八日間入牢せなくてはならぬやうな破目になつたのである。乍然その間に精神の修養をなし、今日蓮の予言録や蒙古王国の夢等と云ふ日出雄の記事を読み、沢山の信徒から送つて来る名所ハガキを見て、非常に面白く楽しく入獄の身たる事を忘れ、夏と秋とを知らぬ間に送つて終つたのである。入監中に沢山の面白い夢を見た。その一二をここに書き止めておかう。
 旧七月十五日の夜、十七八歳の女神が忽然と現はれて自分に朝日煙草一ケを手渡し……莞爾として姿を消し玉ふた。自分は目が覚めてから、やがて岩戸が開くだらう、朝日の煙草を賜はつたから。然しユツクリ一服して時節を待てとの事だらう、到底ここ五日や十日の中に出獄する事は出来ないだらうと感じたのであつた。
 それから四五日すると、北道に自分は巡教に行くと大きな南瓜畑があり、南瓜の作り主は自分にその中の最も大なるものを、むしり採り、二個呉れた夢を見た。出獄して綾部へ帰つて居ると四五日してから北道の信者が、日出雄が夢に見た同様の南瓜を二個持つて来てくれたのには、夢の適中した事を感歎せずには居られなかつた。
 新十月の中頃、本宮山のやうな丘陵があつて、その山麓を自分の母と二人歩いてゐると、母の姿は俄に見えなくなつた。自分は山の中へでも母が隠れたのではないかと思ひ、小山の南麓から青々とした萱草を分けつつ上つて見ると、大本信者の一人が一生懸命に一丁ばかりの間雑木を伐り、土を引きならして三間斗りの道を開いてゐる。そこを歩いて上つて行くと、十字形に大道が貫通してゐた。つまり塞がつてゐたのは五六十間許りの間であつた。こりや屹度保釈を許されて近い中に出るだらうと感じた。
 その次は自分が非常な高い尖つた岩山の上に、いつしか上つてゐたが、何処からも下る道がない、どうしやうかと思つてゐると、白馬が二頭現はれて鉄のくさりを喰へて自分の居る岩の上にガチリと音をさせて掛けおき、山の横腹を一瀉千里の勢で帰つて終つた。目が覚めてから、自分の為に活路を開くべく獅子奮迅の活躍をしてゐる信者のある事を感じた。
 次に本宮山の東麓の傾斜地を、中野岩太氏が一生懸命に引きならし、行儀よく小松を植ゑてゐた夢を見た。
 或日真澄別が面会に来て云ふのは
『先生、私は霊眼で十一と云ふ事を見せて頂きましたが、どう云ふ事でせうか』
と尋ねたので日出雄は
『フン、大方十に一と云ふ事だらう、十中の九まで保釈が許されないのかも知れない。又考へて見れば十中の十一迄無罪になる事かも知れぬ』
と云つて笑つて別れた。然るに日出雄の保釈が決定したのは旧十月一日であり、若松支所を出たのは新暦十一月一日の午前十一時十一分であつた。十五貫五百目の体量に減じてゐた自分は、九十八日間の監房生活の結果十七貫六百目に体量が増してゐた。支所長始め所内の役人全部に見送られて門内を出ると、大本役員信者数百名、其他新聞記者及び大阪市内の見物人が黒山の如くに沿道に堵列してゐる。小雨がシヨボシヨボと降つてゐる中を、さぬきや旅館に這入り、ここにて数多の信者と食卓を共にし、無事帰綾する事となつた。
 これより先、聖地では秋季大祭があり、分所支部長会議が始まり財政整理問題について、かなりの激論が始まつてゐた。そこへ保釈許可の電報が大阪の弁護士からついたので、今迄の争論は水の泡の如く消え、何れも一斉に神言を奏上し、それより一同打揃ふて大阪に迎へに来たのであつた。
 これで蒙古入の大芝居も一寸黒幕が下りたやうなものである。
(大正一四、八、一六 北村隆光筆録)
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