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文献名1霊界物語 第54巻 真善美愛 巳の巻
文献名2前付
文献名3序文
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
あらすじそもそも霊界物語は、神代における神々の神示によって著されたものであり、学者の歴史でも歴史家の歴史でもない。世の腐儒者や気魄なき歴史家やデモ宗教家の所説は、ひとつとして宇宙開闢の真相を真に理解したものはない。
今日の新聞においても、記者の眼識の程度によって見解が異なり矛盾と誤謬が多きことは、一昨年の大本事件の記事が無根と虚構によって充たされ、真相を報道した新聞がなかったことによって悟ることができる。
また前後二十有余年間、大本に日々出入りし親しく教祖に接し教示を賜り、その御行動を実地目撃しながら、未だに教祖の御心意がどこにあるかを知らざる者ばかりである。
瑞月が教祖と共に大神の道に舎身的奉仕の誠を尽くしたるを見て、これを何か神慮に背反せる行為のごとくみなし、長年排斥と侮蔑と圧迫を試みながら、自分らの行動は全部神に叶えるものと信じ、妄動を続行している。
一昨冬に初めて本書の口述を始めたときも、重要な位置にある役員の一部は、これをもって取るに足らない悪言となし、極力妨害を加えようとした者さえあったくらいである。神意の存するところを知らず、自分の暗迷な眼識によって身魂相応の解釈を試みようとするから、このようなことになる。
現代人は癲狂痴呆の度が強くなっているのだから、瑞月が神示に由れるこの物語に対して、我関せずの態度に出たり、また反対の挙に出るものあるべきは、当然の帰結としてすでに覚悟の前である。
本書は現代の学者、宗教家、歴史家の思潮を憂慮せる熱誠慷慨の余声として、はたまた神明の摂理の一部として編述したもので、今日の有識者の所説に対して一歩も譲らないことを信ずるのである。
先入思想を全然放擲して従順に神の御声に耳を傾け眼を注ぐときは、遠き神代の世界の史実は言うもさらなり、中古近古の歴史の真相も幾分か捕捉することができるだろうと信じる。
虚空の外に心身をおいて神代の史実と神の意志とを顕彰し、一瞬に転回して宇宙の真相をしめそうと、神示のまにまに物語を現したその苦心は、言うに言われない。
大神の神格を精霊に充たし予言者に来らしめて、万民救治のために明示された神書に対し、ある大本幹部役員の口からも軽侮嘲笑の言が出たことは、ちょっと面喰わざるを得なかった。
しかしながら、天下に一人でも具眼の者が現れて、ひとたび心を潜めてこの物語の真面目に臨めば、必ずや一節ごとに深遠微妙の真理を蔵し、五味の調度よろしき弥勒胎蔵の神意と神智や、苦集滅道の本義を発見し、肯定し、帰依するに至るであろう。
本物語の目的は、霊界現界の消息を明らかにし、諸人が死後の覚悟を定め、永久に天国浄土の悦楽に入るべく、仁慈の神の御賜物として人間一般に与えられたものである。現界に用いては、大は治国平天下の道から、小は吾人の修身斉家の基本となるべき神書である。
昨大正十一年の秋、瑞月は筆録者をはじめ、天声社における編集者は、この物語に対してどこまでの信仰を有するかを試みるため、神示にしたがって、万々一本書の中において教典として採用すべき金玉の文字あらば抜粋してこれを別冊となし、宣伝用に宛て、熱誠な宣伝使や信者に分かつべし、と言った。
全巻みな神の目より見れば金玉の文字、人間の作物ではない。それを真面目に取捨選択し、各自数か月熱心調査の結果として余に示した。神明に伺い見たところ、神は大いに笑わせ給い、人間の盲目と無鉄砲には呆れたり、との御言葉であった。
これを思えば人間は自我心を出さず、何事も聖慮に素直に従順に仕えるより外に道はないと思う。この神書をもって、普通の稗史小説または単なる滑稽物語および心学道話の一分と見ているくらいの程度では、到底この書の眼目点をつかむことはできない。
主な人物 舞台 口述日1923(大正12)年02月21日(旧01月6日) 口述場所竜宮館 筆録者松村真澄 校正日 校正場所
OBC rm540001
本文の文字数2641
本文のヒット件数全 0 件/竜宮館=0
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本文  抑霊界物語は神代に於ける神々の神示に由りて著されたるものであつて、現代の所謂学者の歴史でもなく、又歴史家の歴史でも無い。世の腐儒者や興国的気魄なき歴史家や、デモ宗教家の所説は、徹頭徹尾憶測と受売のみにして、一として歴史の真相を伝へ、且つ之を真解し得たものは絶無と謂つても可い位である。况ンや宇宙開闢の真相に於てをやである。試みに今日朝夕発刊せる新聞紙の記事を見るも、同日の出来事を記者自ら実地に臨み之を目撃して、直に紙上に掲載するに当り、各新聞記者の眼識の程度如何に由つて其観察点を異にし、同一の出来事を報道するに甲、乙、丙、丁各その見解を異にして筆を採るを以て、その矛盾と誤謬の多きことは一般識者の感知する処である。現に一昨年の大本事件の記事の如きは、一切無根と虚構とに由つて充され、一として其真相を報道したる新聞紙の無かつたのを見ても、思ひ半に過ぐるものあるを覚るべきである。又前後二十有余年間、大本に日々出入し親しく教祖に接し口づから教示を承はり、且つ日々の御行動を実地目撃し乍ら、未だ教祖の御心意の奈辺にありしかを知らざるもの而己なるを見ても証明することが出来る。又瑞月が教祖と共に大神の道に舎身的奉仕の誠を竭したるを見て、之を何か神慮に背反せる行為の如く見做し、甚だしきは邪神の憑依せるものとして、永年間排斥と侮蔑と圧迫とを一生懸命に試み、以て自分等の行動は全部神に叶へるものと信じ妄動を続行し居たる如きは其好適例である。一昨冬始めて本書の口述を為せる折も、重要の位置にある役員の一部分は之を以て取るに足らざる悪言となし、極力妨害を加へむと為したるものさへあつた位である。之全く神意の存する所を知らず且つ自分の暗迷なる眼識によつて身魂相応の解釈を試みむとするが故である。
 又現代の学者、宗教家、歴史家は本書を以て支離滅裂、つかまへ所の無い物語と成し又は放胆なる断定に失せる作物と批難し、傍若無人と譏り、怪乱狂妄見るにたえざる悪書と貶し、相手にも為て呉れないであらう。永年大本に出入し乍ら大本の主義精神の主要点が分らない処まで、現代人は癲狂痴呆の度が強くなつて居るのだから、瑞月が神示に由れるこの物語に対して我不関焉の態度に出たり、又は反対の挙に出づるもの在るべきは当然の帰結として、既に已に覚悟の前である。
 本書は現代の学者、宗教家、歴史家の思潮を憂慮せる熱誠慷慨の余声として、将た又神明の摂理の一分として編述したもので、今日の有識者の所説に対して一歩も譲らない事を信ずるのである。今日世界に流布せる国々の歴史は、空々漠々として殆ど雲を掴むが如く、如何なる史家も之を史上に於てその真相を捕捉する事は出来得ないのである。
 頼りなき口碑や、伝説や、その他の先入思想を全然放擲して、柔順に神の御声に耳を傾け眼を注ぐ時は、遠き神代の世界の史実は言ふも更なり、中古近古に於ける歴史の真相をも幾分か捕捉し得らるるであらうと信ずる。我国の歴史と雖も、その大部分は神武聖帝以後の歴史であつて、太古神代の事蹟は束ねて之を筑紫の不知火の海に投ぜられたのである。之史家が神ならざる以上は史眼暗くして盲目の如く、書契以前の史実を映写し得ざるがために歴史の真相が伝はらないのである。瑞月が茲に神代の事蹟の一分を口述編纂したる所の本書に対し、世の驕慢なる学者の眼には時代錯誤の世迷言を陳列したものと見えるであらう。天は蒼々として永久に高くして広く、地は漠々として際限なきに似たり、虚空の外に心身をおいて神代の史実と神の意思とを顕彰し、一瞬に転廻して宇宙の真相を示さむと、神示のまにまにこの物語を著はしたるその苦心、之を酌むものは大本信徒を始めとし、世上果して幾人あるであらうか、或幹部役員たりし某々氏はこの物語を評して、……霊界物語は譬ば砂利の山の様なもので、吾々は其沢山の砂利の中から自分の之と認めた僅かに包める砂金を採取するの考へを以て之に対するのである……と話してゐられた。瑞月はこの意外にして不遜なる某氏の談を聞いて、未だ神の権威の大本幹部たりし識者に容れられず、了解されてゐない事に嗟嘆せざるを得なかつた、大神の神格を精霊に充し予言者に来らしめて、万民救治のために明示されたる神書に対し、余りに無理解にして且つ学者の鼻の高きには感心したのである。軽侮嘲笑の的となるであらうとは予期しては居たものの、大本幹部の口から斯様な言が出るとは一寸面喰はざるを得なかつた。
 然し乍ら天下一人の具眼者が現はれて、一度心を潜め真面目に臨まむか、必ずや一節毎に深遠微妙の真理を蔵し、五味の調度宜しき弥勒胎蔵の神意と、神智や苦集滅道の本義を発見し、肯定し、帰依するに至るであらう。本物語の目的は霊界現界の消息を明かにし、諸人が死後の覚悟を定め、永久に天国浄土の悦楽に入るべく、仁慈の神の御賜として人間一般に与へられたものである。現界に用ゐては大は治国平天下の道より、小は吾人が修身斉家の基本となるべき神書である。
 昨大正十一年の秋瑞月は筆録者を始め、天声社に於ける編輯者は、この物語に対して何処までの信仰を有するかを試みむため、神示に従つて……万々一本書の中に於て教典として採用すべき金玉の文字あらば抜萃して之を別刷となし宣伝用に宛て、熱誠なる宣伝使や信者に頒つべし……と言つた。そして是等の人々の感想や著眼点の奈辺にあるかを探らせられた。然るに驚くべし、全巻皆神より見れば金玉の文字、人間の作物でないものを、真面目に取捨選択し各之を数ケ月熱心調査の結果として余に示された。直に神明に伺ひ見し所、神は大に笑はせ玉ひ、……人間の盲目と無鉄砲には呆然たり……との御言葉であつた。瑞月もこの神示には大に面喰つたのである。故に定めて抜萃に尽力されし人々は驚かるることでありませう。大本神諭に示されたる如く、矢張り霊魂の因縁相応より口述者と雖も分らないものと歎息したのである。
 之を思へば人間は自我心を出さず、何事も聖慮に素直に柔順に仕ふるより外に途はないと思ふ。この神書を以て普通の稗史小説又は単なる滑稽物語及び心学道話の一分と見てゐる位の程度では到底この書の眼目点をつかむ事は出来ない。アア日暮れて途いよいよ遠しの感に打たれざるを得ない次第であります。
 かむながら幸はひまして世の人に
  さとらせ玉へ是の神書を

   大正十二年正月元旦
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