文献名1開祖伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名320 出牢後の宣伝よみ(新仮名遣い)
著者愛善苑宣教部・編
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データ最終更新日2022-05-16 03:52:55
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開祖様の座敷牢の話に戻りまして、明治二十六年旧四月十五日大槻鹿造が座敷牢の前へ来て、開祖様の御様子を見ますと、開祖様はすっかりお静まりになって、鹿造に向かい、牢から出してくれるようにお頼みになりました。
「牢から出してくれれば、どんなことでもお前のいうことを聞く」
といわれました、ところが鹿造はそのころ金回りが悪かったものですから、
「出口家の家を売ることを承知して、判を捺すなら、牢から出してやる」
といって四十日目の丁度満月の夜、牢から出してお貰いになりました。
このとき鹿造は出口家の建物ばかりでなく鍋釜まですっかり売り払って、たった一つ残ったのが、その昔開祖様が毎晩四升の米の粉を挽かれた記念の石臼だけでありました。
出牢後の開祖様は家どころか家財道具一つとして残っていませんので、子供は他所へ預けてしまって、鹿造の家におられたり、八木の久子さんの所へ行かれたり、紙屑を買ったり、糸を引いたり、子守をしたりされながら、相変わらず神示のまにまに世人の改心を迫り、病人に頼まれれば神様にお願いして病気を直したりして、ほとんど放浪生活をしておられました。
その後、亀岡の金光教会の教師・大橋亀次郎さんという人が、開祖様の霊力を見込んで、綾部へ金光教をひろめようという考えを起しました。そのため亀岡の金光教会から奥村定次郎さんという教師が綾部に来て、開祖様と同居して、金光教の神様と開祖様の神様と両方お祭りすることになりました。
開祖様のお力で病人など御神徳がドンドン立って、信者はだんだんふえるばかりでした。そのころの開祖様は、洗濯から炊事から掃き拭きのお掃除から使い歩きもされ、たまには山へ行って柴を刈ったり参拝に来た信者の足袋や脚絆などの汚れているものは、チャンと洗濯して綺麗にかわかして、信者の知らぬ間に黙って返して置かれたりしてお働きになられました。
しかしもともと奥村さんは、開祖様の神格を認めたのではなく、金光教のために利用しようという精神であったのですから、どうも開祖様のお考えのように神第一主義という訳には行かぬので開祖様は面白くなく一時教会を離れられました。
開祖様のおいでにならない教会は御神徳も立たず、ついに、奥村教師は夜逃げしてしまい、その代わりに足立正信という教師が来ましたので、開祖様は再びお帰りになりました。
この教師も開祖様の神様を見分ける力がなくゴテゴテして、ついに開祖様は明治三十年六十二才の時、金光教と縁を切ってお一人で艮の金神様をお祭りになることになりました。