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文献名1開祖伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名324 冠島開きよみ(新仮名遣い)
著者愛善苑宣教部・編
概要
備考
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ページ 目次メモ
OBC B100600c24
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本文  丹後の舞鶴からも、また宮津からもちょうど海上十里あるという日本海の一つ島・冠島は俗に大島ともいい、昔から男は一生に一度は詣れ二度は詣るな、女は絶対に禁制で万一女が参拝しようものなら竜宮の乙姫さんの怒りに触れて海が荒れ出し、いろいろの妖怪が現われて女を丸呑みにする、そして子孫代々まで神罰をこうむるという伝説と迷信が信ぜられていました。
 明治三十三年旧六月八日、開祖様は六十五才の御老体をいとわれず、この丹後海の無人島・冠島に渡って東洋平和の祈願をこらされるため、聖師様と二代様、役員の四方平蔵、木下慶太郎両氏を伴われて綾部を出発されました。たそがれ頃に舞鶴の船問屋大丹生屋にお着きになり、船頭を雇われて、さてこれからいよいよ漕ぎ出そうとする時しも、今まで快晴であった空が俄かにかき曇り、満天墨を流したごとく、風は海面を吹きつけて波浪の猛り狂う音が刻々と激しく聞えて来ました。大丹生屋の主人は、
「この天候は確か颶風の襲来ですから、今晩の船出は見合せましょう。まして海上十里もある荒い沖中の一つ島へ、こんな小さい釣船ではとうてい安全に渡ることはできません。一つ違えばあたら貴重な生命を捨てねばなりません。明日の夜明を待って天候を見きわめた上、お参りなさい」
としきりに止めました。船頭達も口を揃えてとうてい渡ることはできないと主張し、舟を出そうと言わぬばかりでなく、一人減り二人減りコソコソとどこかへ逃げて行ってしまうのでした。開祖様は、
「神様の御命令ですから、一時の間も猶予することはできません。是が非でも今から船を拵えて出して下さい。今晩海の荒れるのは、竜宮様が私ら一行を喜び勇んでお迎えに来て下さるので、荒い風が吹いたり、雨が降ったりするのです。大丈夫です。神様がついてござるから、少しも恐れず早く舟を漕ぎ出して下さい。博奕ヶ崎まで漕いで行けば、きっと風は凪ぎ、雨は止み、波も静まります。また死ぬのも生きるのもみな神様の思し召しによるものです。神様が死なそまいと思し召したなら、どんなことがあっても死ぬものじゃありません。今度は神様が御守護下さっているのだから大丈夫です。是非々々行って下さい」
と雄健びされまして、船頭や主人の言葉をお聞き入れになる気色もありません。
 このとき一行中の木下慶太郎氏が操舟に鍛錬の聞こえある漁師田中岩吉、橋本六蔵の二人をようよう説きつけて連れて来ました。ところが
「今から冠島へ漕いで行ってくれ」
と改めて頼みますと、二人は目を丸うして、
「なんぼ神様の御命令でもこの空では行けません。私らも長らくの間舟の中を家の様に思ってやって来たのですから、大ていの荒れなら漕ぎ出して見ますが、この天気模様ではとうてい駄目です。一体あんた達はどこの人じゃ。大ていの人ならこちらから舟を出すといってもお客の方から断るのに、本当にあんた達は無茶な人ですなァ」
と呆れて一行の顔を見詰めて居ります。木下氏は二人の船頭に向かい、
「それでは海上一町でも半里でも行けるところまで行ってもらえば冠島までの賃銀を払うから、まあ中途から帰るつもりで行ってみてくれ」
と言いました。すると二人の船頭は
「お前さん達がそこまで強いておっしゃるのならば、キット神様の御命令でありましょう。確信がなければ、とうていこの天候に行くという気にはなれますまい。私達も一寸冠島さまに伺ってみて決心します」
と言いながら、新橋の上に立って、冠島の方に向かい合掌して祈願しつつ、にわか作りのおみくじを引いてみて、
「やはり神様は行けとありますから、とにかく行けるところまで漕ぎつけて見ましょう」
と半安半危の気味で承諾の意を洩らしつつ、早速用意を整え五人を乗せて、雨風の中をものともせず舟唄高く舞鶴港を漕出しました。
 一行を乗せた舟が舞鶴湾内を漕ぎ出して、日本海の波浪の叩きつける湾口の博奕ヶ崎に行きますと果して開祖様の言われた通り、雨はにわかに晴れ、風は凪ぎ、波は静まり、満天の星の光は海の底深く宿って、波紋は銀色を彩どり、空と海とが合せ鏡のようでありました。
 休みなく漕ぎ続けた船頭が、
「ああ冠島さんが見えました」
と叫んだ時には、ボーッと海の彼方に黒い影が月を遮っていました。一同の喜びは勿論船頭も疲れを忘れてますます力漕しました。
 しばらくして東の空は燦然としてあかねさし、遥か若狭の山の上より、黄金の玉を揚げたごとくに天津日の神は豊栄昇りに輝き、早くも冠島は手に取るごとく目の前に塞り、さえずる百鳥の声は楽隊の奏楽かと疑わるるばかりでした。
 かの有名な昔語りにある、浦島太郎が亀に乗って竜宮に行き、乙姫様に玉手箱を授かって持帰ったと伝えられる竜宮島も、安倍の童子丸がいろいろの神宝や妙術を授けられたという竜宮島も、また古事記などに記載されてある彦火々出見命が、塩土の翁に教えられて、海に落ちた釣針を探し出さんとして渡られた海神の宮も、みなこの冠島であると伝えられているだけであって、一行はどことなく神仙の境に入ったような感がしました。
 正像末和讃にも、末法五濁の有情の行証叶わぬ時なれば、釈迦の遺法ことごとく竜宮に入りたまいにき、正像末の三時には弥陀の本願拡まれり、澆季末法のこの世には諸善竜宮に入りたもうとあるのを見ますと、仏教家もまた非常に竜宮をありがたがって居るようです。斯様にめでたい蓬莱島へ一行の船は安着しました。
 緑樹鬱蒼たる鳥居のかたわら、老松は特に秀でて雲梯の如く、幹のまわり三丈にも余る名木の桑の木は冠島山の頂に聳え立ち、幾十万の諸鳥の声は開祖様の御一行を歓迎するごとく、実に竜宮の名にし負う山海明眉、風光絶佳の勝地です。
 開祖様は御上陸早々波打ち際でみそぎされました。一同も開祖様にならってみそぎを修して、神威嚇々たる老人島神社の神前に詣でて蹲踞敬拝され、綾部より調えて来た山の物、川の魚、美味物くさぐさを献って、治国平天下安民の祈願をこらされました。その祝詞の声は高く九天に達し、拍手の音は天地六合を清むるの思いがありました。
 これにてまず冠島詣での目的は達せられ、帰り路は波も静かに九日の夕方、舞鶴の大丹生屋に御帰着になり、大石の木下氏の宅で御一泊の上、翌十日徒歩にてあまたの信徒に迎えられ、めでたく綾部へお帰りになりました。これが開祖様のはじめての長途の御旅行でした。
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