文献名1開祖伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名328 出雲大社お火の御用よみ(新仮名遣い)
著者愛善苑宣教部・編
概要
備考
タグ賀露(加露)
データ凡例
データ最終更新日2024-07-31 13:39:50
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明治三十四年旧五月十六日神命により、開祖様は聖師様、二代様と外十二人のお供を合せて一行十五人、出雲大社へ参拝されることになり、浅黄の羽織の扮装も勇ましく、早朝綾部を御出発になりました。御帰綾が旧六月五日で、前後二十日の長旅でしたが、当時は汽車がなく、往復とも徒歩でした。
まず十七日は籠原で宿泊、十七日は養父堀畑、十八日は但馬村の岡と十里ほど歩いては泊まり泊まり、ようやく十九日には因幡の岩井温泉駒屋旅館に投宿され、二十日には鳥取の大社分院に御参拝の上二十一日千代川を舟にて加露ヶ浜に出で、午後は加露ヶ浜より三保ヶ崎へ向け出船される予定でしたが、海が荒れて出船不可能となり、止むなく加露ヶ浜の旅館に泊まり船待ちされました。
翌日も同様海荒れのため出船の見込みがつかず、遂に陸上より行かれることに決定され、滞在三日目の二十四日朝加露ヶ浜を出発して、またもや磯端伝いに十里ばかり西に進んで御来屋に一泊の上、翌朝船を仕立てて三保の関に渡り、美保神社に御参拝になり、中海、宍道湖を汽船に乗って平田に上陸し、二十六日徒歩にて出雲大社に安着して大社前の旅館に投宿されました。
ここに一行は二十七日大社に御参拝になり、二、三日滞在の上、神代より不消の神火と御前井の清水と大社の砂を戴き、神火は二条の火縄につけて帰途につかれました。
稲佐の小浜より汽船松江丸に搭乗して境港に上陸し、徒歩にて米子に出で、さらに徒歩一日の後、帆船に乗って加露ヶ浜の東方岩井の磯端に着き、再び駒屋の温泉宿に一泊され、またもや山坂を越え村岡、八鹿、宮田を経て福知山に御安着、ここに多数の信徒に迎えられて旧六月五日長途の旅を終え芽出度く綾部に帰られました。
御帰綾後神火は、百日間埋み火として消えぬよう火番をつけて昼夜保存し、百日目に十五本の蝋燭に火を点じて天照大神様へ捧げることとされ、また砂は本宮山やその他に撒布し、お水は三四ヶ所の井戸に注ぎ、かつ先に元伊勢より戴いて来た天の岩戸の産盥の水と一緒にして当時の大島家の井戸へ入れて金明水と名づけ、その水を竹筒に入れてその年の六月八日に開祖様、聖師様、二代様その他多数信者のお供にて沓島にお渡りになったことは、前項に述べた通りです。