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文献名1開祖伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名329 弥仙山お籠もりよみ(新仮名遣い)
著者愛善苑宣教部・編
概要
備考
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ページ 目次メモ
OBC B100600c29
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本文  明治三十四年旧九月八日に開祖様は綾部から西北約三里、於与岐にある丹波の高峰・弥仙の神山にお登りになり、中のお宮にお籠もりになられたことがありました。
 この頃、大本へ毎日のように警察から、
「宗教家でないのに沢山な信者を集めるのは規則違反である。宗教として認可を受けなければ布教を許さない」
などとやかましく交渉がありまして、
「明治二十二年憲法の発布によって信教の自由を許されてから、そんな事はない」
と云ってもどうしても承知されず、しまいには巡査を張番させると云ったような訳で信者までがだんだん来ないようになりましたので、聖師様は法人組織に改めようとせられ、静岡の長沢雄楯翁のところへ御相談に行かれるお考えでありましたところ、開祖様は、
「たとえ警察から何と云って来ようと構わぬからそのまま打ち捨てて置くがよい」
と云われました。が警察の干渉がますます激しくなる一方ですから打ち捨てて置けず、聖師様は開祖様には内密に木下慶太郎氏を連れて静岡へ行かれたのです。そのお留守中に開祖様はこのことをお聞きになり、前記弥仙山の中腹にある祭神・彦火々出見命のお社の中へ岩戸隠れとしてお籠もりになりました。お籠もりになるために後野市太郎氏と中村竹造氏の二人が案内者としてお供申し上げましたが、開祖様は、
「お籠もり中は誰もそばに居ることはならぬ」
と厳命されたので二人とも引き取って帰って参りました。
 二人の報告により中のお宮は板の間であることが判り、御老体をお案じ申し上げて木下亀吉、森津由松の両氏が早速藁で菰を編み夜中持参して帰って来ました。
 なお誰も行かぬ約束ではありましたが、お身の上を案じその後は後野氏一人が大石村から通って、内々御様子を伺いに行くことになりました。ところがお籠もりになられた時、不在であった四方平蔵氏が後にこのことを聞き、
「たとえいかなる事情があろうとも、御老体の開祖様お一人を弥仙山にお置きする訳には行かない。誰も来るなとのいいつけだそうだが、開祖様に叱られても打ち捨てては置けぬ、御面会して来る」
と云ってただ一人九月十一日出発し、その日の午後四時頃ようやく弥仙山に辿り着きました。弥仙山はもっとも因縁深いお山でありまして、毎年今日でも年中行事として参拝致しております。
 今でこそ弥仙山の立木は伐り払われて明るくなっていますが、当時はまだ昼なお暗き霊山で、殊にその日は霧が深くお山が見えぬくらいでしたが、ようやくお社へ登ってみますと、開祖様はただ一人お灯りをつけて静かに端座して居られました。御挨拶を申し上げると、
「誰も来ないように申し付けて置いたがどうして来たか」
と御不興の様子でしたが、特にお許しを得て一夜だけお籠もりすることになりました。
 四方氏は土足を拭いて新しい菰の上に坐り、水でハッタイ粉をかいて頂戴し、晩の六時頃一緒に礼拝しましたが、礼拝が済むと開祖様は神がかり状態になられて、十時─十一時─十二時になっても依然その状態で居られるので四方氏は平身低頭畏み畏み御拝を続けていました。深山の夜気は森々として社殿内に迫って来る、開祖様の神がかりはお変わりなく、そのおごそかさに身が引き締まる思いでした。
 夜半二時頃になってウーウーと二声三声叫ばれると、同時に懸られた神様はお静まりになった御様子で、開祖様は、
「平蔵さん、今夜は大分遅いでしょう。早く休ませて貰いましょう」
とのお言葉で四方氏は羽織を着たまま菰の上に横になり寝に就きましたが、朝五時頃まだ夜も明けぬうちに開祖様は起きられて、
「サアサアこれから不動の滝へ行ってお水を頂いて来ましょう」
と云われ、開祖様は目の不自由な四方氏の手を曳かれて、少し下方にある不動の滝で禊を修して帰られ、お灯りをつけてお礼を済まされますと、ようやく夜が明けて遥かに綾部の山々までがボーっと明るく見え出しました。
 それから清水を汲みハッタイ粉を掻いて居りますと、谷間の方に当ってメラメラ大木を倒すような音響がしたと思うと、俄かに向う山まで地響きがする様な鳴動がしたので、四方氏はびっくりして開祖様をかえり見ますと、開祖様は微笑を浮かべられ
「御守護神が大勢で賑やこうてよろしいな」
と云われました。その時、四方氏は今さらながら開祖様の大精神に敬服してしまったということです。ハッタイ粉を頂いてしもうと開祖様は
「平蔵さん、私はこれから神様の御用があるで早く帰って下さい。そして誰も来ぬように大石の慶太郎さんに云って下さい」
とのお言葉でした。
 四方氏は開祖様の大精神と御決心のほどを拝察し、神々様が御守護して御座るから大丈夫だと考え、御安泰を祈願しつつ帰ってきました。これが御籠もりされてから四日目でありました。
 その後四日経たお籠もり後八日目開祖様は依然としてお宮の中に籠られ、静かにお筆先を書いて居られましたが、ちょうどこの日村人がお宮掃除に登山して参った物音を聞かれ、ヒョイとお顔を出して見られますと、社殿の中から思いもよらぬ白髪の媼が突然顔を出したのですから、村人は大変に驚き社内にヒヒザルが入って居ると云いふらして、村中こぞってヒヒザル退治をすることになり、竹槍を担ぎ出すやら、巡査が来るやら大騒ぎになりました。
 ちょうど一同が中の宮に押し寄せた時、折りよく後野市太郎氏が行き合わせましたために、ヒヒではないということが判りましたが、村人は開祖様を取り囲んで、
「なぜこんなところへ来て居る」
と尋ねますと、開祖様は
「世の中が晦がりであるから籠もっている」
とお答えになりました。
「綾部の天理教の馬鹿奴が、早く出て行け」
と一同が罵り迫りましたが、開祖様は落ち着き払って
「今日はお籠もりしてちょうど一週間が済んだから、出るなと云っても出る日じゃ」
と答えられ、悠々として引き揚げられることになりました。
 さて静岡へ行かれた聖師様は、長沢翁に相談されて京都までお帰りになり、京都府へ手続きをする必要上、随行した木下慶太郎氏を綾部へ用達しに帰らせ、御自分は京都に留られて、京都附近に沢山ある稲荷下しや交霊術者を訪問して悪霊退治をされましたが、伏見において或る稲荷下げ信者達の迫害を受け危険身に迫られた時、不思議な神様の御守護により難をのがれて綾部へお帰りになりました。
 その時開祖様は弥仙山にお籠もり中でしたが、前記の通り、村人の騒動により警察が開祖様の御身についてかれこれ問題を起していたので、早速上杉まで行かれ警察の諒解を得て、木下氏の家で二泊された開祖様を迎え無事綾部へお帰りになりました。
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