文献名1開祖伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名333 恭倹よみ(新仮名遣い)
著者愛善苑宣教部・編
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OBC B100600c33
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明治三十四、五、六、七年ごろは一番苦しいドン底時代で、役員はもちろんのこと、開祖様、聖師様までなわないをされて、神様の御用を続けられるという有様でした。
ある日のこと神前に供える御饌米が買えないので、田中善吉さんという役員が、自分の家から人知れず米を持ってきて、供えているのを開祖様が御覧になって
「田中さん、今日のお下がりは持ってお帰りよ」
と言われたことがありました。
そのころの幹部は土方をやって神様の御用と糊口の代に当てていました。当時賃金は一日三十五銭で、それでは足らず、夜業にトロ押しをして更に二十五銭をかせぎ、それでお筆先の紙代の足しにしたのです。
お筆先の紙は生ずき紙で一貫匁が二円くらいでしたが、三十六年のごときは非常に沢山のお筆先が出て、五月の月だけで五十八冊、別に控えの写しが五十八冊と、合わせて百十六冊になり、少しくらい働いても追付かず、ために役員らは睡眠も一時間か二時間くらいしかとらず、真に身命をなげうってつくしていました。
かような有様ですから、開祖様の倹約もまた実に極度なもので、水一滴も粗末にされず、後年なに不自由のない御境遇になられてからでも決しておごられず、
「こう世が上りすぎておるゆえ、このままでは世が続かぬから、その時の用意に小さいことにかけたら、針の穴より小さいことでも気をつけなければならぬ」といつも役員信徒をいましめられ、また御自身で実行されました。
新築された開祖室の壁は、中塗りだけで、いかに申し上げても上塗りは許されず、はき物はいつも紙巻のわらぞうり、ゆまきは木綿のさらしと決っていました。
食事は変わったものを食べても一向味がせぬとおっしゃって極度の粗食で通され、およそ土から出来たものは何でも工夫して召し上がりました。
どんぐりは普通だれも見向きもしませんでしたが、よくかわかして唐うすでハタき、皮を取った実をまた唐うすにかけて粉に引き、それを木綿の袋に入れて、流れ水に打たせてアクを取り、餅にして食べられました。実の入らぬ米は炒って、うすで引いて、米の粉と混ぜて餅にし、ワラはワラ餅にし、オバコはゆでて小さく切って御飯に混ぜ、その他榎の葉、たんぽぽ、常山木等、ともかく食べられるものなら、必ず工夫してお上がりになりました。
「こういうものを食べねばならぬ時期が来るで、その時の用意に普段から工夫しておかぬと、マサカのとき悔むでなあ、お供え物は食えるものは何でもそのまま食べねばもったいない。お陰を頂くなら蜜柑の皮でも、柿の種でもめったに捨てられぬ」
と言って感謝の生活に徹底されていました。
あるとき開祖様は三世相を見て貰われたところ、これほど食運の強い人はないということでしたが、実際は胃袋が小さくなったと思われるくらい、終生腹一杯お食べになったことがなく、こんなに苦労をするのにだれも察してはくれず、「何という自分はあほうだろう」と思われて、神様にお伺いになると、
「今後世界の人々が食物に困ってえらく苦しむことがあるが、その折に世界の人々を助けてやるために、お前の食を取り上げて食わせぬのじゃ」
と申されました。
春もまだ寒い三月のある朝、役員の湯浅仁斎氏がおまいりに行ったところ、開祖様は寝巻のまま縁側にすわられ、ごみ箱を捜してしきりに何か出しておられるので、湯浅氏は大切な物でも紛失されてお捜しになっておられるのだと考え、開祖様にお尋ねしたところ、
「いや何でもない、こうして置くと紙屑屋が喜びますでな」
と言われたので、はじめて開祖様がごみ箱の中から紙屑を取り出されて、白紙と真紙と、新聞紙との三種に分けておられるのに気がつき、今さらながら、ささいな点まで心をくばられるのに恐縮しました。
開祖様は毎朝みなが起きるまでに、どんなことを御自分で処理されていたのか、お側の人々でさえ知らないことがありました。