文献名1聖師伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名31 御誕生よみ(新仮名遣い)
著者大本教学院・編
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山陰道のノド首、亀岡町を西南に去ること約一里、丹波国曽我部村大字穴太の農家・上田吉松氏の家に、明治四年(一八七一年)旧七月十二日男の子が生まれ、喜三郎と名づけられました。この喜三郎さんが後の出口王仁三郎聖師であります。
吉松氏はもと丹波国船井郡川辺村字船岡の人で、佐野梅吉といい、上田家に養子に来て聖師の祖父吉松を襲名されました。御生母は世根子といいました。
喜三郎さんの生まれた明治四年といえば、明治新政府樹立後まだ間もない時で、日本は古い時代を送って新しい時代の生みのなやみを経験している時代でありました。当時一番困っていたことは封建の余弊たる藩主の跋扈でした。そこで版籍奉還の実を徹底し郡県制を確立し海外列強に対立するために「内以テ億兆ヲ保安シ外以テ万国ト対峙セント欲セバ宜シク名実相副ヒ政令一ニ帰セシム」べき趣旨の下に廃藩置県が断行されたのであります。ここに封建制は名実ともに廃止され、政令一途に出づることとなり、全国は三府七十二県に区画されて中央集権の実はあがり、明治維新はほぼ完成するに至りました。
教育制度については、文部省を設け全国の学事を統轄せしめました。大教の御趣旨に就て諸藩に御沙汰書が降り、新貨幣令を発し金本位制を採用したのも明治四年であります。
その外、明治四年には社会上の問題として御誓文にいわゆる旧来の陋習を破ることがいろいろな形をとってあらわれました。たとえば、四月には、平民の乗馬を許し、五月には祠官の世襲叙爵を停止し、八月には散髪脱刀を許し、華族平民の相婚家するをゆるし、十二月には華士族の在官以外のものには農工商の職を許しました。
また岩倉具視の一行は欧米視察のため出発しました。
こうして挙げてみると、明治四年は容易ならぬ年でありました。
上田家は藤原の出で、八代前の先祖は藤原政右衛門といい、この時に百姓となって藤原姓を上田姓と改められました。百姓になって、万一あやまって藤蔓でも切ろうものなら、一家が断絶するといいう巫女のいうことを信じて姓を改められたということであります。