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文献名1聖師伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名311 父の死よみ(新仮名遣い)
著者大本教学院・編
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2021-04-20 03:21:42
ページ 目次メモ
OBC B100800c11
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本文  聖師の前半生において、もっとも悲しむべき一つの事件は、二十七歳のとき、父・吉松氏が死去されたことであります。
 吉松氏は初めブラブラ病気になり、いろいろ手をつくしてみましたけれどもどうも思わしくありませんでしたので、この上は信仰の力で父の病気を治したいというところから、喜三郎さんは看護のかたわら付近の教会に通われました。
 喜三郎さんは昼のうちは精乳館の仕事に忙殺されていました上に、弟の由松さんがにわかに家出をされたために、薪一把山へ取りに行く者さえなくなりましたので、ある日、吉松氏は、
「屋敷内の椋の木を薪にしたいから伐ってくれ」
と喜三郎さんに頼まれました。
 ところが、この椋の木は丁度屋敷の艮の方、すなわち鬼門にあたっていたのですが、喜三郎さんは長い梯子をかけて椋の木の心を伐りはなされました。その心が傍にある柿の木と樫の木に支えられて落ちつかなかったものですから、喜三郎さんはその引っかかっている椋の木の心へ飛びついて、自分の体重を利用してうまくその心を地上へ落しました。
 その時、隣りの小島長太郎という人の土蔵の瓦が二・三十枚、伐りおとした椋の木の枝のためにこわれましたので早速弁償されましたが、この人が意地わるく、いろいろな苦情を持ちこんで吉松氏を苦しめました。
 それから、由松さんが十日ばかりで帰宅しましたけれども、例のバクチにふけって、吉松氏や喜三郎兄さんの説諭も馬の耳に風で、少しも聞き入れないばかりか、乱暴まで働くので、吉松氏は非常に心配されました。
 そんなところから、病勢がにわかにつのって参りまして、喜三郎さんの六ヵ月にわたる手篤い看護も甲斐なく、七月二十一日五十四歳で亡くなられてしまいました。
 喜三郎さんはこの時ほど力をおとされたことはありませんでした。喜三郎さんが牛を飼いながら、いかに亡き父を恋い慕われたかは、「狭霧」と題する詩の一節を読めば、よくうかがわれるのであります。

 父よ恋しと墓山見れば
  山は狭霧につつまれて
 墓標の松も雲がくれ
  晴るるひまなき袖の雨
    ○
 西は半国東は愛宕
  南妙見北帝釈の
 山の屏風を引きまわし
  中の穴太野で牛を飼ふ

 吉松氏の死は鬼門の木を伐った祟りだとか、裏鬼門の池が祟ったのだとか、親戚や朋友などの連中が口々に申しますので、喜三郎さんはその問題を解決するために宮川の妙霊教会や亀岡のヒモロギ教会などへ行って質問をしましたが、一こう要領を得ず、この上は直接神教をうけるより外はないと決心せられて、毎晩十二時から三時まで産土神社に行って神教を乞われた結果、鬼門の金神と裏鬼門の金神の由来から、その神聖な理由を明かにされました。喜三郎さんは大いに勇気づけられ、すすんで各教の教義をさぐり、誤った宗教界を改善しようと考えられましたが、いろいろな教会に出入している中に、教会の迷信ぶり、堕落ぶりに愛想をつかし、それからは神だとか、宗教だとか、信仰だとかということは見るもイヤ、聞くもイヤというようになり、一時は無神論者にさえなられました。
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