文献名1聖師伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名316 幽斎の修業よみ(新仮名遣い)
著者大本教学院・編
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データ最終更新日2019-04-30 07:54:29
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高熊山の御修行は聖師の生涯における一大転換期でありました。喜三郎さんはこれまでの牧畜場その他の仕事を一さい人手にゆずって神の道を宣べ伝えられることになりました。
しかし、神の道であるとか真理であるとかいったところで、世間一般、ことに田舎ではなかなか耳をかすものがありませんでした。
ある人が、初めは病気なおしをした方がよい、といって忠告してくれました。幸い友人の斉藤宇一という人が理解をして、奥座敷を貸してくれましたので、喜三郎さんは幽斎の修行と病気の心霊治療を始められました。その当時は珍らしい憑霊現象がいろいろあらわれたり、また病気がよく治ったので、近所界隈に大評判になりました。
明治三十一年の四月三日のことであります。駿河の稲荷講社の配札係をしていた三矢喜右衛門という人が来て、いろいろ心霊学の話をし、静岡県安部郡富士見村月見里稲荷神社附属、稲荷講社総本部の総長・長沢雄楯翁の霊力非凡なことを吹聴し、長沢先生との面会をしきりにすすめましたが、喜三郎さんは稲荷講社という名称について、いささか迷惑のような気がされました。なぜかといえば、口丹波辺りは稲荷講社といえば、直ぐ稲荷おろしを連想し、狐狸を祀るものだと誤解されるからでありました。
しかし、霊学の大家だと聞いて喜三郎さんは大いに心を動かされ、四月十三日出発、三矢氏に案内されて長沢翁を訪問されることになりました。喜三郎さんは京都まで徒歩し、生まれて初めて汽車に乗って翌日長沢翁と会見されました。
翁の母堂に豊子という方があって、喜三郎さんにむかい、
「お前さんは丹波から来られたそうだが、本田さん(本田親徳先生)が十年前におっしゃったのには、これから十年ほど先になったら、丹波からコレコレの男が来るだろう。神の道は丹波から開けるとおっしゃったから、キッとお前さんのことだろう。これも時節が来たのだ。ついては本田さんからあずかっておいた鎮魂の玉や天然笛があるから、これを上げましょう。これをもってドシドシ布教をしなされ」
と二つの神器を出して、喜三郎さんに与え、また神伝秘書の巻物まで渡されましたので、喜三郎さんは非常に喜ばれました。かつ、これまでの霊学上に関する疑問も、また一さいの煩悶も拭うがごとく払拭されました。
喜三郎さんは長沢翁から審神を受けることになりましたが、その結果、小松林命の神懸りであるということが明かになり、鎮魂帰神の二科高等得業を証すという免状をもらわれました。
小松林命というのは、武内宿禰の神界における神名であります。
喜三郎さんは今まで世間から発狂者だ、山師だ、狐つきだとケナされて、誰一人として見わけてくれるものがなかったところを、高等の神がかりと断定を下されたので、大いに力づき、喜んで長沢翁の門人となられました。喜三郎さんは一週間ばかり滞在ののち、帰宅されました。
帰郷後、喜三郎さんはますます幽斎修行に油がのり、心霊研究をつづけられました。この幽斎修行中には珍らしい面白い霊的体験談が沢山ありますが、岐路に入りますから、ここには省略しておきます。