文献名1聖師伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名325 霊界物語の口述よみ(新仮名遣い)
著者大本教学院・編
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第一次大本事件が起ったことは、神の経綸によるものだということは出来ましょう。しかし、それは神の大慈大悲の御眼から御覧になられた上の観方であって、人間としていうべきことではないのであります。大本の役員信者としては、この事件によって反省しなければならないのであります。
大本事件の原因は上述して来た通り、いろいろな原因をあげることが出来ますが、その原因の一つとして大本神諭の解釈の問題があったと思います。
もともと開祖の筆先は平仮名で卑近に表現されているもので、どんな人にも理解し得られるのでありますが、それは読む人々の心相応にとれるのでありまして、その真意を汲みとることは、神心にならなければできるものではありません。
ちなみに「筆先」と「神諭」との区別を申しますと、開祖が書かれた神示を「筆先」といい、その筆先を聖師が調べて発表されたものを「神諭」とよばれているのであります。
開祖の筆先の真解者は聖師であることは、筆先の中に明かに示されているのですが、大正十年の事件前までは、役員信者が各自独断的な解釈を下していた時代であります。これはひとり大本ばかりでなく、すべて宗教の教典が正しく理解されていれば結構でありますが、一つ解釈を誤った場合には多くの人々をまどわし、時には社会に害毒を流すことさえあるのであります。
大本においては神諭の解釈について、いろいろな問題が起ったことがあります。
開祖の筆先に「道の中ほどを歩いてくだされよ」という意味の筆先がありますが、ある信者は、神様が道の真中を歩けといわれるからといって、大手をふって往来の真中を歩いて行ったという話があります。向うから牛車が来てもどかないので、牛車をひいている人が、これは気ちがいだと思って道をよけると、その信者は得意になって「どうだ、やっぱり神様のおっしゃる通りにしておれば、牛車の方が道をよけてしまう」といって威張っていたということです。
こんなのは罪のない脱線で、まだ笑い話ですますことは出来ますが、事柄によっては、笑い話ですますことが出来ない場合があります。
筆者はかつて神諭に国祖・国常立尊が隠退され「口惜し残念をこばりておりた」とか「今に艮の金神が返報がえしをする」とかいう意味のことが示されていましたので、その意味について聖師におうかがいしたことがありました。いやしくも国祖ともあろう神さまが、自分を押しこめた神々に対して報復するというようなことが、どうも合点がいかなかったからであります。
その時、聖師は「わしは今にみんなを喜ばして返報がえしをしてやるのだ」と言われました。
なるほど神諭は人間心では、わかるものではない、神心にならなければ、解釈することのできるものではないと、しみじみ思わしめられました。
「返報がえし」といえば、われわれは直ぐにカタキをうつような意味にしか、とらないのであります。地獄的な意志想念をもって神諭をいただけば、それ相応にしかうけとれないので、たとえて言えば、ちょうど鏡のようなものであります。鏡にむかう時、そこに映るものは自分の姿であります。神諭には自分の心の姿が映るのであります。
聖師は大本事件によって京都未決監に収容されていましたが、責付出獄となって百二十六日ぶりで綾部に帰られました。そして大正十年十月八日(旧九月八日)「明治三十一年の如月に神より開示しおきたる霊界の消息を発表せよ」という神命によって、いよいよ十月十八日から「霊界物語」の口述を開始されることになりました。
聖師は二十八歳のとき、郷里の高熊山で御修行中に見聞されたことを、記憶より呼びおこして口述されることになったのであります。
この物語は聖師が大本に入られ、明治三十二年七月から明治三十三年八月にかけて一度筆をとり、二三の熱心な信者にのみ閲覧を許されていたことがありますが、当時聖師に反対する人々によって焼き棄てられてしまいました。その後、大正十年「神霊界」誌の二月号、三月号に一部が発表されました。
物語は普通聖師の口述されるのを、そばに数名の筆録者がいて、これを交替に筆記するのであります。口述は聖師が床に横たわりつつ行われるので、手もとに参考書も何もあるわけでなく、霊感状態とでもいうのでありましょう、こんこんと泉の水が湧き出づるように進められて行きました。最も速い時には、四六判三四百頁の書物が、わずか二日で口述されたものであります。
口述は十月十八日から綾部町並松の松雲閣で始められましたが、ちょうど十月二十日から本宮山の神殿が、当局の手によって破壊されることになり、京都から数十名の警官と五十余名の人夫が来て破壊蹂躪しました。聖師は神殿破壊の物すごい音を聞きながら、松雲閣の一室で「霊界物語」の御口述を進められたのであります。
この書物は大本神諭の真解書ともいうべきもので、大部分は物語の形式でのべられたものであります。霊界物語の霊界とは霊妙な世界の物語という意味で、顕(現実界)、幽(地獄界)、神(天界)の三界を総称していったものでありますから、現世のことも記されております。
この霊界物語が最後の審判書であります。聖師は「最後の審判は、閻魔大王が罪人を審くと同様なる形式において行わるると、考えている人が多いようだが、それは違う。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものとの標準を、示されることである。その標準を示されて後、各自はその自由意志によって、自らえらんで天国に入り、あるいは自ら進んで地獄におつる、それは各自の意志想念の如何によるのである。
標準とは何か。霊界物語によって示されつつある神示そのものである。故に最後の審判は、大正十年十月より、既に開かれているのである」と示されております。
霊界物語は全八十一巻、「霊主体従」(十二巻)、「如意宝珠」(十二巻)、「海洋万里」(十二巻)、「舎身活躍」(十二巻)、「真善美愛」(十二巻)、「山河草木」(十二巻)、「天祥地瑞」(九巻)にわかれ、量の上からいっても、世界における著述の中でも稀にみる大部のものであります。
その内容にいたっては、天地剖判から人類の発生、神界の組織経綸、神界の葛藤、悪魔の陰謀、国祖御隠退の経緯、救世神の御活動、神と人との関係、死後の生活、人生の本義、愛善信真の大道、みろくの世の建設、政治、経済、教育、芸術、科学の大本など、人類にとって必要欠くべからざる教が、物語の形式によって示されております。
聖師はこの物語においてわれわれに向かって説示せられるのに、直接「こうせよ」「こうするな」とは命令しておられません。われわれは聖師の示された形式に従って、素直に考えて受けとればよいのであります。現代人はいわゆる「お説教」には反感を持つものであります。キリストがいま生きていたら、きっと面白い小説を書くであろうといった人がありますが、聖師は教典に立派な芸術的表現を与えられたのであります。それ故、敬虔の心を持して読ましていただくならば、人々にとってこの上もない霊性の糧であり、霊感の源泉となる神書であります。