文献名1聖師伝
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名337 御昇天後の大本よみ(新仮名遣い)
著者大本教学院・編
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聖師の御昇天は全信徒にとって落日の後のようなさびしい感じに打たれました。聖師こそみろくの世実現のために降られた大救世主であると確信していた信徒にとって、聖師の御昇天が如何に大きなショックを与えたかは想像にあまりあるものがあります。
しかし、澄子夫人は世の常の婦人のように、ただ夫の死を哀しみ傷んでいるような方ではありませんでした。哀悼のためにともすれば暗くしめっぽくなろうとする空気の中にあって、夫人は万感を胸にこめつつも、常に従容たる態度を持し、「聖師さまの後は私がリッパに御用をさしてもらいます。艮めの御用は私がするのどす」と自信満々たるお言葉をもって、幾度か役員信者を激励勇気づけられました。天恩郷に集まって来た信者たちは、いづれも暗夜に光明を見出したごとく、失望から希望へ落胆から勇気へと起ち上がりました。
澄子夫人は開祖、聖師の道統を継承されて、愛善苑二代苑主として起たれました。神諭に「大本のお世継は末子の澄子と定まりたぞよ」との神示の実現であります。
聖師の五十年の神業遂行の御生涯を通して、常に蔭にあって聖師の神業を助けられたのは二代苑主だったのであります。
聖師が夫人やその家族の人々と水入らずで暮らされたというのは、おそらく第二次大本事件の保釈後の中矢田農園の極めて短い年月の間だけではなかったかと思われます。聖師は毎日わずか三四時間の睡眠しかおとりになられず、起きれば周囲には役員信者が集まり、内に外に御活動の絶え間のないお忙しい御生活でした。
「人間の出来ることなら何でも出来る」と堅い自信をもっておられた聖師は、著述や絵や詩歌のような精神労働はもちろん、耕作、土木、建築、植樹、文撰、活字拾い、印刷等各種の肉体的労働にあたられました。そうかと思うと、カミシモをつけて夫人とともに浄瑠璃が語られたり、盆おどりには櫓に上がって音頭をとられたり、また自ら踊りの輪に入ったりされました。万能の人とは聖師のごとき人を指して言ったものでありましょう。
信者ばかりでなく、実に多くの人々が聖師に面接していますが、一度でも聖師に会われた日は無限の親しみと懐しみを感じました。しかも男女老若の分ちなく、貧富智愚の別なく、その人その人に応じてお話になられるのですから、どんな人でも聖師のお傍を離れたくなくなってしまうのでした。また決して気どったり、いわゆる、ぶったりされることなく、大きな小児のような方でありました。
かつて御巡教の旅に出られた時、新聞記者が訪ねて来て、大本教の信者は全国でどのくらいありますか?と質問したのに対し、随行のある役員が「数十万ある」と答えると、かたわらで聞いておられた聖師は「そんなにありませんで」と正直なところをさらけ出してしまいました。そんなにありもしない信者の数を多くみせて、虚勢を張ろうとするようなお気持は全然ないのであります。
そうかと思うと、第一次大本事件の際、法廷で聖師の精神鑑定が問題になった時など、「私が気狂いぢゃない、世間の者が気狂いや、私が世間の人間の精神鑑定をしてやるのや」と子供のように威張ったりされるような無邪気な方でありました。
こうした無数の逸話や言行は、いずれ「聖師言行録」にまとめて発表される時期があろうと思います。おそらく今後どれほど多くの歴史家や学者や伝説記者や作家たちが、聖師を題材にして研究したり筆を執ったりするかわからないほど、興味津々たる千変万化の波乱に富んだ御生涯でありました。
二代苑主の起たれた後の愛善苑は新たな希望と力をもって隆々と発展してゆきました。
昭和二十四年十二月八日には、人類愛善会が再発足され、澄子夫人は総裁として平和運動の陣頭に立って指導されることになり、亀岡町に総本部をおき、機関紙「人類愛善新聞」が復活されて、世界連邦運動と協力して活動を開始することになりました。
昭和二十五年十二月二十九日、人類愛善会々長・出口伊佐男氏は世界連邦日本国会委員会事務局長・日高一輝氏とともに、十二月三十日よりジュネーヴに開かれる世界連邦大会に出席するため羽田を出発、途中ローマ市に立寄り法王と会見した後、大会に出席しました。
人類愛善会総本部は世界連邦の主旨を全国に普及徹底せしめるため、人類愛善新聞五十六万七千部を発行しました。
かつて百万部を突破して全国に雄飛した人類愛善新聞は、十五年ぶりで再発足後いまだ一年足らずの間に、以上のごとき一躍驚異的発展を遂げたことは、全会員の熱誠によるとともに、人類愛善運動が如何に時代の要望に応えているかを物語るものであると言わねばなりません。
一方、宗教法人愛善苑はますます本来の大本の宗教的信念にもとづいてその使命を発揮し、昭和二十五年十二月八日教団の名を「大本愛善苑」と改称し、全国に教線を拡張し、組織を整備して終戦後の宗教界に目ざましい活動を進めてゆきました。
二代苑主はまず綾部にみろく殿の建設を慫慂され、梅化運動を提唱されました。梅化運動とは、大本愛善苑の教団と、愛善苑発足後昭和二十一年二月創立された「愛善みずほ会」(増産、農村振興運動)前記「人類愛善会」、大本楽天社(昭和二十四年十二月八日創立した芸術運動)、エスペラント普及会(昭和二十五年二月再発足)、大本の社会福祉事業等が、あたかも梅の花の五弁の花のように一体となって積極的活動をしてゆく運動のことであります。
梅化は倍加に通じ、梅の花が霜雪をしのいでりんりんと先端をきって運動を全世界にひろめてゆこうという運動であります。
しかし、聖師の御昇天後再び全信徒の上に大きな悲しむべき事実が起りました。それは昭和二十七年三月三十一日、二代苑主が突如として御昇天になられたことでありました。
父を失い、つづいて母に別れねばならなかった子供のように、全信徒は再び大きな精神的打撃をうけたことは申すまでもありません。信者の中には、聖師の御昇天以上に二代苑主の御昇天に驚愕した人々もあったでありましょう。中には聖師の御昇天の時に充分覚悟が出来ていて、いよいよわれわれ信徒が独り歩きをすべき時期が来たのだと信じた人々もいたでありましょう。
二代苑主が表に立たれて活動された期間はまことに短いものでありました。享年七十。御遺骸は綾部天王平の開祖、聖師の中央のやや後方に埋葬されました。
二代苑主の御生涯が比較的短かかったのは長年の御苦労、ことに第二次大本事件の六年八カ月にわたる長期の獄中生活等のためであったでしょう。晩年の苑主の御業績の中には御老体にもかかわらず、全国的の御巡教をつづけられたこと、原子爆弾の中心地広島市において犠牲者の霊に黙祷され、綾部において万国戦災犠牲者の慰霊祭を執り行われたことなどが挙げられます。
二代苑主御昇天の翌日、即ち昭和二十七年四月一日は奇しくも、宗教法人法の改正に伴う教団規則の改正によって、従来の「大本愛善苑」の名称が本来の「大本」に復帰し、「苑主」が「教主」と改められて実施される日でありました。この日、出口直日さんが、かねて神定されていた通り三代教主として起たれることになったのであります。
大本は昭和二十七年の十一月十八日開教六十周年祭を迎え、開祖、聖師、二代教主の基礎時代を経て、いよいよ実践の時代に入ったのであります。綾部に平和の聖堂たるみろく殿も建設されました。大本が立替立直の枢軸として恒久世界平和の実現のために、新しい世界宗教としての本来の使命を果すか否かは、一に今後全信徒が如何に自覚し実践するかにかかっているのであります。
(終)