文献名1座談会
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3出口王仁三郎聖師と出口寿賀麿氏を囲む座談会 第二夜(一)よみ(新仮名遣い)
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【出席者】
出口王仁三郎聖師
出口寿賀麿師
本誌側……井上荘三郎 中井勤 岡村祥三 高見範雄 林英春 杉田淑子
速記者……西村保男 小山安暉
日出麿師東上されて後、五月九日の夜、前回に残された問題を提げて、今度は寿賀麿師の御出席を得て座談会を続けた。聖師は御歯痛にもかかわらず、約三時間に亘ってこちら側が問題を持ち出す間もないくらい立ちつづけに金玉の言華を談ぜられました。(林)
【聖師】 『誰が話をするんじゃい。何、お伺いする? ワシは何にも考えてやへんで、かなわんでよ』
と言われながら本日の主人公、聖師が入って来られた。続いて寿賀麿師のスマートな姿が見える。
「ドッコイショッ」
と聖師は正面の座につかれるなり、
【聖師】 『青年というものはなあ、血気にはやり、すべてのものが進み過ぎるもんや。これは時所位という事と、それから本末、自他、公私、こいつを良く考えて進みさえすれば良いんだが、公私を混同したり、自他を混同したり、本末を脱線するといかん。
こういう話があった。
あるところに、にわかに何もせんのに、ちんばになった青年があった。足がうずいて歩けぬ。片足がうずいてどうしても立てない。そこでその村の村夫子が教えて言うには、「お前は自分の足の痛いことを知ったら、世の中にも随分足の痛い人もあろうし、手の痛い人もある、また肩が凝っても金がなくて按摩して貰えない人もある。だから、せめて百人の人の按摩をし──無料でやで──按摩をさせて貰え。そしたらその功徳で足は癒る」と言った。
そこで先ず家族の者、兄弟から姉、妹、妹から親族という具合にズーッと回ったが、百人はないで近所の人、困っている人をさがし回って百人の按摩をさせて貰った。しかし依然として、癒らない。そこでまた村夫子の家へ行って──「百人仰せの通り按摩しましたが、喜んではくれましたが肝腎の私の足は一向に癒りません。どうしたらいいでしょう」──と尋ねたところ、村夫子は──「それはお前の気の向いた者ばかりやったんだろう。お前の一番嫌いな人を揉まして貰え」──と答えた。そこで青年は考えた。──何しろ一番嫌いな人間と言ったら俺んところの親爺だ。あいつと来たら、何をしても、一つ一つ何とかかんとか文句を言いやがって見るのも嫌だ。で、その親爺だけをほったらかしておいたが、待てよ、俺の親爺を、こいつは揉まねばいかんわい──で早速、親爺のところへ揉みに行った。
すると親爺はとても喜んで涙をこぼしている。と自分も涙がこぼれた。そして何とも言えん親子の情が出て来た。すると不思議にも足がケロッと癒ってしまった。
これは情において本末を誤っている。兄や姉をやって、肝腎の親をほっといた、嫌いやからほっといた。それがいかん。
ただ一人の親を揉んで一遍に足が癒った……と、こういう古話があった。何でも本末という事が一番大切や。姉や兄弟や身内から揉んでよかったが、肝腎の親をあやまった。
また言葉の使いようでもそうや。あるいはよく雑誌を……ここの明光でもよく間違う。仮名でもしょっちゅう間違う。
またこういう話があった。──ある貧乏人が居って、どないしても金持ちになってみせたいと思い、村の村夫子に尋ねに行った──「明日は正月の元旦やから祝い言を言わなならん。ものは言いようやから、良い言霊を教えて貰いたい。そうしたら貧乏神がいぬやろから」──と言うたら、その村夫子がこう言え、そしたら良うなると教えた。エーと──「福の神に貧乏神が追い出され、垣根の外でメソメソと泣く」──と教えた。そこで──「へえ、判りました」──とばから喜んで家に帰り──「福の神が貧乏神に追い出され垣根の外でメソメソと泣く」──と「か」と「に」の付けどころを間違って言ってしまった。(笑声)
どない考えても違う。──「はてな、福の神が貧乏神に追い出され──」──どない考えても福の神が外に居って貧乏神が内に居る……これは変やと思ってまた村夫子の家に行って尋ねてみた。すると──「お前はどない言ったんや」──と問われ、こう申しましたと答えた。すると村夫子は──「それは違うとる。福の神に貧乏神が追い出され……だ」──と教え直した。「が」と「に」だけの違いで大変違う。
だから原稿一つでも大変な間違いが起こる。仮名一字でもとても大事や』
【林】 『そうですなア天地の相違がありますからなア』
【中井】 『にがい話ですなア』(笑声)
【聖師】 『本末自他公私、これが肝腎だ。本と公が肝腎。そこを良く考えねばならぬ。ワシらみたいになると考えんでも良い。考えとったら遅くなる。まだ若いうち、二十七、八までは良く考えねばいかん』
【林】 『またそれが二十七、八才が一番考えん時なんですからなア』
【聖師】 『猪突主義の年頃でなア、しかし俺くらいの年になったら、猪突主義でも構わん。こうしたら良い、こうしたら悪いという事が判っているからな。何でも経験で良く知っとる。こいつは悪い、あいつは良いという事が良く判っとるでなア』
【高見】 『それも実際の経験だから良く判るのですなア』
【聖師】 『失敗や経験はせねば判らん。ワシら何遍失敗したか判らん。今じゃ去年やった事を悔いている。昨年は一昨年の事を悔いていた。……しかしそれが進展主義や。誰もがみな進展している。今年最善をつくしてやったと思う事も来年は悔いるものだ。
どうしても過ちを少なくして良い方へ余計にやるという事が肝腎や。だんだん考えが違って来るからなア、そこが進展主義やから。
それからね、人間という者は情にもろいものだ。どうしても人間の性質はもろいが為に自分が犠牲となって他人の失敗を引き受けるというような事を多くする。人は自分自身の身体を保つところの責任を持っている。自分が立たんようになってまで人を立てるという事はいけない。自分が立てるようになってから、つまり自分という者が出来て初めて人を立てて行く事が出来る。先ず神から与えられた自身を保つ事が肝腎じゃ。人からもし間違って判を押せと言われて来ても、後で自分が困り立ち行かなくなる。それで向こうはうまく行くかというに向こうも決してうまくは行くもんじゃない。してやらなかった所で向こうは立ち行かんもんや。
人の世話という事も余程良く考えてやらないかん。
人間て妙な者で、すればするほど、もっと世話してくれそうなものじゃと不足に思うようになるものじゃから』
【高見】 『自分は身体が大きいクセに情には至ってもろいんですがね』
【林】 『人間はがらがらしている人ほど、どうも情にもろいようだね……俺はそう思うね』(笑声)
【高見】 『まぜ返すなよ、いややでよ』(笑声)
【聖師】 『悪人は悪人でないと審判けん。善人は悪人を審判く事は出来ない。善人は善人でないと本当に裁く事は出来ない。悪人は善人の本当の精神を悪く思う。それは自分が悪人だから……。良く思うのは自分が善人だからだ。
人間には智情意の活用が肝腎だ、すべての人に勇親愛智の四魂の活用が欠けている。四魂が揃わな片輪で、愛と親だけではいかん。愛と親しむだけでは半分よりないのだから四魂が二魂より働いて居らん。これでは全く片輪だ。勇と智と愛と親とこの四魂が相伴うて働いたならば天下に何事も成らざるは無しである。
それでね、たとえ一言一句にも愛があり智があり、親があり、勇のあるのだから、自分の言についても対者の言についても考えねばならぬ』
【中井】 『ホウ、そんなもんですかなア、むずかしいですなア』
【聖師】 『人の話を耳にしてそれが判るようにならないかんわい。──この一言には勇がある。かの一語には智がある。愛がある。親がある──という事が判るようでなければ駄目だ。──今の一言は智である。今の一語は善い智か悪い智か、こっちを引っかけようとする為の奸智でないかを考える。または──本当の勇か、匹夫の勇か、偽りの勇か、本当の愛であるとか、親であるか偽りの親しみである──とか判らねば人間は駄目だ。
こういう事は自然に声音に現れ、皮膚に現れる。これは神様の憲法で、人の気風なり顔面なりに出るものだ。これは仕方がない。人の面貌は心の索引なりという事が霊界物語に書いてあるが、良く見ていると、嘘をついている人に限って眉毛をなでる。眉毛に唾を付けるというが、こっちが眉毛をねぶらん先に向こうがなでる。それは嘘をついている証拠である。話をしもっても良く眉毛を撫でる人はスッカリ嘘をついているのだ。
また他所の婆を使いにやり駄賃をやると、──「毎度の事で……もう貰わんでもよろしい、よろしい」──と言いながらも(と右手で「いらんいらん」の手振りを、左手で戴く形をゼスチュアーして見せて)こっちの手がチャンと受けとる。貰おうという心があるから、心がチャンと受けとるのや。そこをよく見ないかん』
【高見】 『習慣だね、そういう』
【聖師】 『そうした心性は声音に現れ、形相に現れ、面体に現れ、皮膚に現れて来るから決して隠せぬ。この神界の憲法はどうしても、隠す事は出来ない。嘘を言って居ったら直ぐだから判る、法螺吹いても破られるのは決まっている。
それからね、人と大事の相談する時にその人が畳をむしったり、その辺をガリガリさして話する者または貧乏ゆるぎをする人達は駄目で、大きい仕事は出来ない人だ。裏返る証拠だ。しかしまたそういう癖の人もある。綾部の○○さんがそうや。何か言うたら貧乏ゆるぎをする。何遍言うてもこれをやる。見る度に叱って余程直った。あの人達のは癖や』
【高見】 『○○さんはようやる』
【聖師】 『まだやるかな。それでもあれで直った方やでよ。あの人はそんな人やないが、そういう人と付き合って、それが習慣となり自分にうつるところまで、だまされ切って来たのやね』
【林】 『人を一目で見抜くことはちょっと吾々にはむずかしいね』
【聖師】 『それは言葉に力がない。巧言令色偽りには言葉に力がない、本当の言葉には熱がある。真剣には熱がある』
【林】 『ほう、そうですか……どうも俺は他人にだまされる癖があってね。これで大丈夫だ。今度はだまされないぞ……』(笑声)
【林】 『で話はちょっと違いますが、この頃の不良少年少女とかいうグループなんですが、あれなんて、どんなもんでしょう。一概に言えない良いところを持っている人達なんですけれど……』
【聖師】 『まあ、今日の不良少年とか、少女とかいうのは世の中がだんだん悪くしてしまうのだ。ワシらの子供の時分にはみんな不良少年や、その不良少年ほどかえって社会に立って偉い者になっている。一生懸命に勉強して優等になったような子は大学を卒業してしもうたら肺病になったりして死んでしまった。穴太にはヤンチャばかりが今のこっている、修身の成績のよかったとかいう者は、みな死んだりなどしている』
【林】 『一体に不良少年や少女と言われる人達は、とても心持ちの温かなもので人情家だね。俺は好きなんだ。ああいう人達をね』
【聖師】 『不良のうちにもいろいろあるが、型にはめようとして、この型から出た者が不良になる。若い者を型にはめたらいかん。松の木でも植木鉢にはめたらいかん。松の木でも植木鉢に植えて針金で枝を出っぱらしたり、あっちゃを切ったり、ひねくり回った木は、四十年五十年経って四百円五百円で売買しているが、決して肝腎の木材にはならぬ。柱にならん。ほったらかして置いた自然の木は廊下の板にもなれば柱にもなるからな』
【高見】 『不良少年少女も、世の中を新しい時代に甦らす即ち更生に導く一つの道具じゃないかと僕は思うがね』
【聖師】 『それはいろいろの意味はある。が中には本当の不良もあるから一概には言えんわい』
【林】 『実際ああしたグループに付き合ってみて初めて彼らの心情が判るね』
【中井】 『俺もああいう連中は好きだ』
【聖師】 『今の不良少年少女になるというのは思慮が浅くて気が良いからや。気がええから自分の名誉とかを考えずに思っている事をパッパとやる。それが俗眼から見ると不良に見える。若い時は皆やっているんじゃ。ただ若いから、かくしているだけじゃ』
【林】 『ちょっと変わった人間は不良呼びをする。あれは全く考えもんやね。俺は同情するよ』(笑声)
【寿賀麿師】 『本当の不良少年や少女という者は形においてはよい子供です。非常によくしている。そんなのが陰で大変悪い事をやっている。それからちょっと見て悪いように見えるのは、悪振るのであって、一種のてらう気持ちでやるんじゃないでしょうか。本当に悪い奴は外から見ると非常に子供であるかの如く見せ、そのくせ陰で、とんでもない事をやるんですね』
【林】 『一体に箱入り娘なんても、いい加減なもんですなア。ああいう人種にかぎって、男の自由に動かされる…』
【高見】 『あんたの経験ですかな』(笑声)
【林】 『うそ言え。俺は善良や。しかし実際そうなんだぜ。他人のを見ても良く判るよ』
【聖師】 『今頃に箱入り娘なんて者が居るもんか。そんな者は居らへんわい。もし、そうやったら病身たれや』(笑声)
【高見】 『不良でも……』
【聖師】 『昔のような支那道徳で男女七才にして席を同じゅうせずとかいうような珍腐なものは流行らない。
無理に押さえ押さえて居ったものは、いつか爆発する時が来るわい。
今日の不良少年少女とかいう者には孔子や孟子ではいかん。それで新しい教えが必要となって来る。兎に角すべてに余裕と自由とを与えたら無茶な事はせんもんや。
うちの子供でも家庭の教育はどうや。よく学校から「家庭の教育はどうか」と問うて来たが、いつも「放任主義」と書いてやった。
いつも放任主義で尻をまくったり、屁をこいたり、若い子をつかまえて「お×こ」やとか「ち○ぽ」やとか言うが、ちょっとも不良少女にはならへんが。今の教育は、子供を犬猫のように思うている。蜜柑やると「お礼」をしろと言われ、まるで犬に「おまわり」「おあずけ」「わん」と言えというのと同じ事や。犬の子を育てるようなもんや。子供が物を貰ったからと言ってお辞儀せんでもいい。うちの子は皆そういう風に育ててある。乞食主義のことは教えてあらへん。子供が菓子を貰ったら妻が「お辞儀せえ」と言うで、ワシが「乞食みたようなことを教えるない。せえでもええ、ええ」と言って怒鳴ってやった。それが一番いかんのや。子供に「お辞儀せえ」とか「お重ねせえ」とか言うのが一番いかん、乞食根性を教えるようなもんや。(笑声)
子供も恥ずかしいからお礼をせん。それでも判って来たら言わんでも一人でお礼するようになる。無理に頭の出来んうちからそんなこと教えるのは犬コロにするようなもんや』
【林】 『一般の父母は、それをまるで己の名誉、子供の誉れのように誤解しているんですな』
【聖師】 『それが間違いや、ワシはそんな事ちっとも教えんが、どの子も一人も不良になんてなって居やせん。それから、態の悪いしょうもない事ばかりして見せてやると──「お父さん、かなわんわ」──とか──「お父さん、人が笑うやないの」──とか──「お父はん、無茶しやはるさかい」──とか向こうから言うがな。それが判っていたら、それでいいのや。何も教えなくても判っとるんやからそれで安心や。(笑声)
いつもワシの教育法はそうや。人の反対や逆さまをやる。子供の心の底へ入ってやる。今のように皮層の教育やないもの。
恥ずかしいという事は皆が知っとるんや。鳥がさえずり虫の鳴くのはすべて「恋」をないているのや。何かにある通り「恋に泣かんもんはない」からのう。
人が鳥、虫の鳴いているところへ行くとピタッと止める。これは一生懸命恋をして両方から呼んでいるのに人が行くと、恥ずかしいから止める。鳥同志なら恥ずかしくはない。人はそれだけ違う。禽獣虫魚から見ても人は偉いもんや、と思っている。人は一番偉いもんじゃから……動物の王様であるからチャンと恥ずかしいという事を心得ている』
【林】 『真の教育法はこれだと発表したら世間の奴らはとても驚くだろうなア……話は違いますが、お経、坊主の言うあのお経ですが、あれはエロばかりが書いてあるんだという事ですが本当なんですか』
【聖師】 『まあそうや。お釈迦さんのエロや、一生涯のおのろけ話や何かが書いてあるのや』
【林】 『じゃ、そのおのろけで成仏出来るんですな』(笑声)
【高見】 『とんでもない事を言うな』
【聖師】 『親鸞上人が「仏を信ずるには恋慕の心を持つべし」と言うている。総て恋慕の心から始まって来なければいかん。恋慕の心というのは、恋い慕うたりする事で、この恋を宇宙大に拡めたのが信仰や。
仏さんが恋しいから手を合わすので、どれほど好きな女でも眼の中に入ってもいいような女にでも手など合わせへん。恋愛は男でも女でも手を合わしはしない。信仰はそれ以上の恋愛なんだから自然と手が合うのや。つまり拝むという気になって来るのや』
【林】 『現在の坊さんで経文がエロだということを知っているでしょうか』
【聖師】 『知っとるとも、知ってる坊主は還俗してしまうんだ。生半若の坊主がやっているので、こういう話がある。禅学をやってる人はよく知っとるやろう。
──母子焼庵という伝記がある。それはね。ある長者の未亡人があった。それがまた禅学が好きで禅学の名僧と言われた坊さんを自分の家に招き、邸内に庵を建ててそこに住まわせ、朝夕大事に仕え禅を聞いて居った。
ある時、未亡人はどうもあの坊さん、禅は徹底しとらんように思う……つまり未亡人の禅学が進んで来たもんやから……そこでちょうど年頃の娘があったのでそれを呼び、「こうしてみろ」とよく言い含めて、試そうとした。娘は玉の如き別嬪で本年十八才、肌は柔らかく非常にいい香りをしている。
娘は母の言った通り離れに参り坊主がお経を唱えているところへ、エロを多分にみなぎらして「斯くすれば尊者如何」と言って、いきなりグッと抱きついた。すると坊主は平然として「枯木寒厳に倚る三冬暖気なし」と言った。枯れた木が寒い巌に倚り、三冬、三つの冬や、暖気、あたたかみがないと言うた。それやからちっとも何ともない、俺は悟りを開いているから枯木が寒厳に咲いているようなものや、ちっとも、ぬくうはないと言った。
そこで娘は母のところに帰って「お母さん、偉い坊さんよ、枯木寒厳三冬暖気なしと言ってびくともしませんわ」と答えた。ところが未亡人は、この偽坊主めが今まで何十年間大事にしてやったのが残念や、そんな事の判らんような坊主なら偽坊主に決まっとると言って大変に怒って、娘と二人して坊主を追い出して、後を汚れると言って焼いてしまった。──という話がある。それは法人上人というのや。それは禅学の本に出ている。
女を見て嫌いやとか、冷たく感ずるとか、そんな気はないとか、そんな事を吐すのが偽り坊主や、娘に抱かれて暖かくなかった。これは禅学にそむいたものや。それやから未亡人が偽坊主やと怒ったのや』
【井上】 『そんな時うまくやっつけたらどないなります』
【聖師】 『やっつけたら婆の気に入る』
【井上】 『やっつけても構わんのですか』
──一座しずまる──
【聖師】 『本当の坊主ならやっつける。やっつける坊主なら偉い。それやなかったら偽坊主やと思っていた。やっつけさすならいいやろう。物は研究すれば単純から複雑になり、複雑からまた単純になる。だからそれを突き抜けるとまた元のところなる「有」の字から「無」の字に行ってまた「無」から「有」へ帰るものや』
【林】 『井上さんならどうです?…』
【井上】 『持って来いやが…………』
……大笑い……
【寿賀麿師】 『僕なら気が遠くなりますなア』
……笑い声続く……
【聖師】 『東海道に原宿という所がある。そこに古「白隠和尚」という有名な禅学の坊さんが居った。その村に観音経にとても熱心な信者があり、そこに「おさつ」という年頃の娘があった。十五才で毎日、十句観音経ばかり読んでいる。
(経文省略)
と、これが十句観音経や。これを毎日日日やっている。そしてとうとう娘は観音経の極意を悟ってしまった。
その親も熱心な法華経で観音経をやっていた。ところがおさつは悟ってしまった。それでお経の本を全部尻に敷いてお針をやっている。父親は驚いて「これおさつ、お前は気でも違ったのか、何というもったいない事をするのだ。この有難いお経の本を女の尻に敷くなんて、何ちゅう事をするのや」と言ったところが、当のおさつは平然として「法華経と私の尻とどれだけ変わっています?」と答えた。父親は「これは益々けしからん」とぶりぶり言っている。するとおさつは「お父はん、原の白隠禅師に聞いてごらん。あれなら妾よりちっとえらいから知っているかも知れんで」と言うので早速白隠の所へ行って「実はうちのおさつがこうこうで」と一部始終を話して「どないしたもんでしょう」と尋ねてみた。
すると白隠和尚はポンと膝を打って「あんたは良い娘さんを持たれた。そこまで悟ったか。ああ偉い娘を持ちなさったわい」と感心している。
父親はそれを聞いて家に帰って来ると、経文を尻に敷いておさつが「お父さん、白隠さん、どう言いましたか」と尋ねる。父親は「けしからん奴だ。こんなに言っていた」と一通りを話した。
そのおさつは独身主義でどうしても婿をもらうと言わない。そこでまた父親は白隠のところへ行き「こうこう故、何とか頼む」と頼み込んだ。そこで白隠はおさつを呼んで「これおさつ、お前は観音経であれだけ悟っているのに婿を貰わぬなど、割に分からん事を言うな。女は夫にかしずくもんや。お××こをちゃんと持って生まれて来てるやないか。何故嫁に行くか養子を貰うかして子供をこしらえて女のつとめを全うせんか」と諭した。
そこでおさつは「では嫁に行きます」と言って帰り、親の言う通り嫁入りした。そして一人の児が生まれて四才の時その児が死んでしまった。おさつは泣いて泣いて泣き暮らした。すると近所の人達が「あれだけ悟りを開いた人が子が死んだくらいであれだけ泣くのか、悟りを開いた人に似合わん」と言うのをおさつは耳にして「他の人のどれだけのお経より親の私が可愛い子のために心から泣いてやってこそ子は成仏出来るんです。可愛いから泣いてやるんです」と言った。これが本当の悟りや。
泣きたい時に泣くのが本当や。笑う時にはウンと笑うのが本当や。
涙一滴落とさぬ男勝りの政岡が……とか……腹は空いてもひもじゅうない……とか言うのは嘘や。(笑声)
そんな馬鹿なことがあるもんか。腹が空いたらひもじいに決まっとる。それが本当の誠や、悟りという事は誠という事や』
【林】 『結局、神代というのは皆が悟った世の中の事なんでしょうね』
【聖師】 『そうやとも。……』
(つづく)