文献名1暁の烏
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3(一)分所支部 職員信者の心得よみ(新仮名遣い)
著者井上留五郎
概要
備考
タグ
データ凡例
データ最終更新日----
ページ1
目次メモ
OBC B116500c011
本文のヒット件数全 0 件
本文の文字数6664
その他の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい
霊界物語ネット
本文
大本瑞祥会分所支部はことごとくみな信者の自発的設立に係り、大本はただこれを承認したまででありますが、実際のところはその設立の形式や事情の如何にかかわらず、ことごとくみな御神意によって設立させられたる神柱でありますから、このことをよく考えて居らねばならぬのであります。
一、分所は国魂の代表とも言うべきものであるから、その範囲即ち神様の御働きは支部よりははるかに広く大なるものであります。しかし人間より見て信者数とか、場所の如何には何ら関係は無いのでありまして、ただ聖師様を通じてそれぞれ神定さるるのであります。従って今のところ極めて信者の少なき分所もあり、広い境域において一ヶ所も分所の無き所もあり、また同じ場所において二ヶ所(それ以上に設立さるる場合もあり)も分所のある所もありますが、これは場所により国魂神の御活動をより以上強大に必要とする神界の御摂理であり、また中には支部が分所に変わることもありますが、何れにせよ人意でこれを勝手にすることは出来ませぬ。
かようなわけであるから付近の支部は常に分所に参拝せなくてはなりませぬが、しかし現在においては分所に奉仕する職員が支部職員よりも上であるわけではなく、また仕事の上からも分所が支部を統括するのでもありませぬ。この点において神様の御働きと人間の仕事とは全然別であることを、御承知を願いたいのであります。
一、支部は各産土の神様の現界的御活動の土台であります。
霊界物語第四十九巻(真善美愛子の巻)第一章地上の天国に
「大神は全般の上にも、個々の上にも流れ入り玉いて、これを按配しこれを導いて、大神自身の影像をその上に止めさせ玉うを以て、大神の行きます所にはことごとく高天原が築かれるのである。故に天人は極めて小さき形式における一個の天界であって、その団体はこれよりも大なる形式を有する天界である。しかして諸団体を打って一丸となせるものは高天原の最大形式をなすものである。
綾の聖地における神の大本は大なる形式を有する高天原であって、その教を宣伝する聖く正しき愛信の徹底したる各分所支部は、聖地に次ぐ一個の天界の団体であり、また自己の内分に天国を開きたる信徒は、小なる形式の高天原であることはもちろんである」
と説示してある如く、分所支部は綾の高天原に次ぐ天国団体であらねばならぬから、その責任は極めて重大と言わねばなりませぬ。かく神様によりて設立されておるということは、左の三つの事実即ち分所支部の数と、年数と、分布の状態とを見ただけでも了解が出来るのであります。
一、数は現在(大正十五年七月調べ)において三百五十二ヶ所
一、年数は主として大正七年以降であって、それまでにも出来てはおりましたが極めて少数であります。そして約二百ヶ所は大正十年二月大本事件勃発後、世間から潰れてしまったと思われている間に増設されたものであります。
大正六年一月調べ……三十七ヶ所
大正八年末……………八十一ヶ所
大正十年一月…………百七十八ヶ所
大正十四年三月………二百七十ヶ所
大正十五年七月現在…三百五十二ヶ所
かく年数との比例上より言えば、非常の速さであり、盛んさであって、最近十ヶ月間(昨十四年旧七月十二日聖師御誕生日より今日まで)においては三-四日に一ヶ所ずつ新設されております。
一、分布の状態 これが丹波を中心として付近数ヶ国に局在しているようでは、ほとんど意義をなさぬわけでありますが、朝鮮満州等にある支部は別として、北は樺太より南は台湾にいたるまで普遍的に分布されているのであります。試みに日本地図を開き一々印を付けてみると、それがみな古事記や霊界物語に示してある有意義の土地であることが見出さるるのであります。
さて分所支部は右の如き深き神縁を有するものであるから、一旦これを設立し大本において大神様に奏上されたる以上これを廃止することはならぬわけであります。ただしやむを得ざる場合、たとえば信者みな離散した場合ありとすれば、分所長支部長だけでも奉仕しておらねばならぬのは無論でありますが、それすら不可能なりし場合ありとすれば、なるべくその付近の分所あるいは支部に一時合斎して再興の時期を待たねばなりませぬ。かく大切なことを、何ゆえ設立の都度注意がなかったかとの議論もありましょうが、それには種々なる理由があると承りました。今そのうち、判りやすきもの一、二を挙ぐれば、
一、神界よりは、せっかく設けさした神柱を、太く直く堅き神柱に守り育てるかどうかを監視しておられたものであろうと思われます。
一、「大本は悪く言われて良くなる仕組、トコトン悪く言われて、トコトン善くなる仕組であるぞよ」と神示されている通り、いかに善きこと、正しきことをしても世間から誤解されがちであったことは、今までの事実に徴して明らかであります。ソコで設立の都度前述の理由を言明しておくと、お陰を落とした信者、また自然世間からも、おどし文句を言うて離るるに離れられぬように仕向けるなどと、妄評を放って御神徳に疵を付けることとなるからであります。
今やこの神柱が御役に立たねばならぬ時となったから、注意をしておくとの仰せであります。
次に分所支部の使命、即ち何時いかなる働きをなすべきものかと言えば、天運循環の時、それぞれ大活躍すべき重大の任務を有しているのであります。
部分的に来たる小なる立替立直しは、全世界を通じて間断なく行われております。コンナ程度で済むとすれば神様も御満足でありましょうし、人類も大幸福でありますが、至善至美の天国が樹立さるるについては、どうしても一旦は徹底的の大改造、即ち大立替大立直しは免れぬ道程であります。そしてその時期は、最早神界のプログラムが確定され、これを実現せしむるところのミロクの御用が開始されたのでありますから、神界では年も月もそれぞれ決定しているそうでありますが、我々はこれを詮索する必要はありませぬ。なんどき大立直しが始まりても間に合うように、一切の準備を調え宣伝に力を尽しておればよいのであります。神様の道具となりて働くのであるから、身魂を研き上げて(身魂の立替立直し)完全な道具になっておるのが何よりの肝要事であります。大正八、九年頃のように、脚下の肝腎の身魂研きをよそにして立替立直しを云為したような間違いを繰り返してはなりませぬ。これについて各分所長、支部長、及び信者の心得としての聖師様の御訓示を左に御取次いたします。
「分所長、支部長は『謙譲の誠』を以て内は信者に接し、外は世間に対することが何よりも肝要である。あらゆる公徳美風はこの謙譲の誠から自ずから発露してくるのである。一例を挙ぐれば第一に、各分所支部は綾の聖地に次ぐ一個の天界の団体であることを体得して、自分は信仰深きがために、あるいは身魂の高きがため、あるいは学識、資産ある故ではなく、ただ神界の御都合上、今のところ分所長、支部長となりておるのであるとの謙譲の真心を以てその任務を努力する如きである。また世間に向かっての宣伝もこの謙譲の真心が本となりて始めてその効果を収むることが出来るのである。
これについて大本信者はこの上なき亀鑑を示されているのである。即ち開祖様である。開祖様の謙譲の美徳は周知のことであるが、それを御手本とすればよいのである。
また信者の方々は、各自小なる形式の高天原であり、大神人の一細胞であることを自覚し和合一致して、分所長、支部長の任を全からしむるよう努めねばならぬ。即ち分所長支部長は自分らの総名代であるとの責任観念の下に、常にこれを輔けておらねばならぬ。さすれば分所長、支部長に対してこれを愛する念、依頼る心、相親しむ情、庇護する思い等、美しき心情が自ずから湧出してくる。かくの如き分所支部は即ち最大形式を有する綾の高天原のうちの一個体として、また立派なる神柱として第一に御用に立つのである。仮に分所、支部長にいかがわしき行為がありとしても、その審判は神様がなさるのであるから、信者はただこれを改めてもらうよう真心を尽しておればよいのである。また信者に右様のことがあっても、これに対する所長、部長の心得は右同様である」
次に開祖様について、三代様から結構な御話がありましたからお取次いたします。
開祖様が三代様を水晶の身魂としていかに愛されていられたかは、今さら申すまでもありませぬが、三代様もまた開祖様を生神様として絶対信頼しておられたのであります。それは左の御言葉でも想像されるのであります。(開祖様に対して三代様はいつも「大神様」と称えておられる)
「大神様は自分のためには慈愛深き肉親のお祖母様である。またこの上もなき御師匠様であり、そしてこの上なきお友達である。その上に大神様である云々」
かく深き御関係であったのでありますが、あるとき開祖様が三代様に向かって、
「自分は何故か○○と○○の二人の役員は忌で嫌でならぬ。その人が来ると水をかけられたようにゾッとするほどいやである。虫が嫌うということがあるが、そうかも知れぬ。セメテこの二人が○○のようになって下されば好きになるであろう」
と仰せになったのであります。三代様はこれを聞かれて、後方へ倒れたかと思うほど驚いたとのことであります。それは「至仁至愛にましまして虫けらまでも愛して下さるはずの大神様に、好き嫌いがあるのか」という点について驚かれたのであります。それ以来自然と注意して視ておられたのでありますが、さて何ヶ月たっても少しもその役員に対して嫌忌の御様子を見出すことが出来ぬのみならず、反対に御褒めになった役員に対する時よりも、より以上懇切丁寧に御あしらいになるので、ついに第二の疑問として「神様にも裏表があるのでありますか」と御聴きになりましたら、それに対する開祖様の御諭しは実に左の如くでありました。
「好き嫌いがあるのは仕方がない。誰にせよ美しきものを見れば美しく感じ、また汚穢きものを見れば汚穢く思うのは当然である。しかし好き嫌いがあってもそれは腹の中へ鎮めておいて、みだりに顔や容子に表してはならぬ。嫌悪ということを先方に悟られると、そのためにこれを改心させることが非常に遅れるものである。大本の教えは悦ばせて改心させる教えであるから、よく気をつけねばならぬ。神心になると、嫌う心よりも可愛そうに思う方がはるかに強いから、自然と表面へは現れぬものである」
以上、聖師様、三代様の御訓話に対して反省してみますと、平素説示されたる教訓が次から次へと思い出さるるのであります。そのうち三、四を申し添えておきます。
一、みだりに人の批評をしてはならぬこと、また陰口、悪口がいかに悪徳であるかは今さら申すまでもありませぬ。また愛神崇祖、和合一致、善事徳行などは人として当然為さねばならぬことであって、言わば地平線上における当行に過ぎないのであるから、それが出来たからというて格別の誇りにもならぬわけであります。いわんや和合も出来ず、陰口悪口が止められぬようなことがあっては、世間に対してさえも恥ずべき次第であります。御神業に馳せ参じたるお互いは、地平線上よりも幾段か高き地点に上りて、任ぜられたる責務を勤め上げねば、第一神様の御前に出ることの出来ない因縁を持っていることを痛感するのであります。
一、また神業奉仕について痛切に感じますことは、第一の必要時として、開祖様は聖師様との二大神人の神格についてその輪郭なりとも悟っておらねばならぬことであります。御神諭に
「いろは四十八文字の経綸の判る身魂は変性男子と変性女子の外には、世界中を鉦や太鼓で探しても今では無いのであるから、この二つの身魂が無かりたら、日本も世界も是から先は潰れるより仕方のない事になるから、この二人の身魂は、天地の先祖のちからの取次であるぞよ。この変性男子と女子との身魂との昔からの誠の因縁さへわかりて来たら、外の事は何もわからひでも今度の御用はつとめ上るのであるから、約らんことを申して何時までも頑張りて居ると、段々わからんやうになりて来るぞよ。体主霊従の心を持替て了はんと、神の申すことは皆逆様にとれるぞよ」(大正七年旧正月二十三日付、大本神諭天の巻二〇一頁)
「変性男子の身魂も、変性女子の身魂も三千世界の大化物であるから、霊魂に曇りのある人民には、見当が取れんぞよ。此大化物を世界へあらはして見せたら、どないに悪に強い守護神も人民も、アフンと致して、ビックリいたして、早速には物も能う言はん事が出来するぞよ。昔の根本の世のもとから、末代の世まで一度あって二度無いと言ふやうな、大謨な神界と現界の大建替であるから、アンナものがコンナものになりたと申す経綸であるから、人民では見当がとれん筈であれども改心致して神心に立かへりた人民には、明白によくわかる仕組であるぞよ」(大正三年旧七月十一日付、大本神諭天の巻六三頁)
と示してありまして、いかに重き尊き使命を負われた身魂であるかという点だけは、お互いとしてはつとに確信しているところであり、殊に霊界物語の御発表によってよほど明瞭に判らせていただいたのでありますが、今一応総括的にその梗概を述べてみると左の如くであります。
一、御経綸の開始……天運の到来はここにいよいよ天地を通じて一大天国と成すべく、仁慈無限の太元神の御大命降下し、大本の出現となりしこと。
一、神界……にては天地の祖先両大神の御主宰の下に、着々御神業が行われていること。
一、幽界……にては群居せる各精霊(肉体を持てる人の精霊も大部分これに属す)について、一々、救済、訓育、淘汰の神愛、神律が行われつつあること。
一、現界……にては神の子、神の宮たる全人類の中より、まず選まれたる因縁の身魂を通じて、神々がそれぞれ現界的活動に努められつつあること。
一、綾部の大本……の霊界は最奥天国として御神業の策源地と定められ、天地の祖先両大神の御鎮座所であること。
その上、すでに天の御三体顕現の太元神も御降臨のこと。
綾部の大本……の現界は厳の御霊、瑞の御霊の肉の宮が天地の祖先両大神の機関否顕現(化身)であること。
開祖様御昇天後は、聖師様は伊都能売御魂として開祖様の現界的御用を兼ねられ、今やミロクの実地御用に進まれたること。(以上霊界物語第一巻一八、現界建替前の幽界の情勢、参照)
ちなみに亀岡天恩郷及び穴太村は綾部と引き離すことの出来ぬ霊域であって、一口に綾部又は大本と言えば常にこの二霊域を含んでいるということを心得ておらねばなりませぬ。
右の次第でありますから、開祖様、及び聖師様は決して単なる神がかり台、即ち心霊研究者のいわゆる霊媒などでないことは、今さら申すまでもありませぬ。霊界物語四十八巻(舎身活躍亥の巻)聖言中に
「……畏れ多くも口述者が教祖を、審神者として永年間、ここに注目し、つひに大神の聖霊に充され玉ふ地上唯一の大予言者たることを覚り得たのである」(索引参照)
と説示してあります。そして我々信徒もまた綾部の霊界に直属相応すべき因縁の身魂であるから、早く霊肉を洗練して相応の神々の肉の宮とならねばならぬのでありますが、それについては二大神人の神縁、神格を了解して統一的神律の下に服従し、安住していることが、何よりも肝要であります。我々の信仰の一大特色、言い換うれば大本の大本たる眼目はただこの一事にあるのであります。この重要事はこのたびのお取次によりてよほど明瞭となるのでありますが、なお索引により神書を参照されんことを希望します。
一、今一つは開祖様の謙譲の御生涯についてであります。大神人としての身魂でありながら、終始一貫いかに謙譲の美徳を発揮し給いしか、ただ一度面接した人々でさえ終生忘るる能わざるところであって、『神の国』に連載されてある教祖伝によっても窺い知らるるのであります。これを思うとマダマダ自分の高い鼻に邪魔をされていることに、気付くのであります。
一、なお一つ感じたことは、三代様の「またとなき御師匠様」との御話についてでありますが、我々もまた同様であって、天地の秘奥ミロク胎蔵を開示さるるこの二大神人に師事しているのであります。今は聖師様によって、いわゆる何一つ判らぬことのない、三千世界にまたとなき神教伝達の庭に薫陶されているのであるから、この点一つでも実に大なる御神徳、至上の幸福と言わねばなりませぬ。