文献名1暁の烏
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3(五)官憲及び世間に対する心得よみ(新仮名遣い)
著者井上留五郎
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ページ184
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社会一般に対する心得としては、前述(個人における合わせ鏡)の如く合わせ鏡をするのが主眼でありますが、さて考えてみると、虚偽と罪悪に充ち体主霊従の極に達したる世相に対し、神を敬愛する如くせよ祖霊に対する真心を移せということが果たして出来得るでありましょうか、はなはだ困難事と云わねばなりませぬ。しかし吾々はぜひともこれを実行せねばなりませぬ。そして神様はその方法を宣示し給うているのであります。即ちこの合わせ鏡はただ一つ
見直し聞直し、宣直しを努むること
によってのみ出来得るのであります。このことは大本基本宣伝歌の一つとなっており、また霊界物語の随所に実地的に詳細に説示してあるところであって、いかにこのことが神人共に必須なる処世上の大事であるかが想像さるるのであります。故に怠らずこれを精読しておれば臨機応変の呼吸も判り、寛闊人を容るるの愛も、堪忍自他を全うするの徳も、知らず知らずの間に体得することとなるのであります。一方吾々は、これを実地に応用すべき最も適当な二つの練習所を持っているのであります。
一つは、何人も持っておるところの家庭であります。そは家庭には左の正反対の二つの事実があって、練習所としては非常に都合よく出来ているからであります。
一、家庭において見直し、聞直し、宣直しの困難なる事実
普通誰でも世間の人々に対しては遠慮気兼ねがあり、ことに名望家、資産家、恩人等に対してはたとえ不服であっても腹が立ってもある程度までは、見直し聞直しっをしているのが普通の事実でありますが、これに反して家庭内では容赦なく小言を云ったり、些細のことでも叱りつけたり、大声揚げたりするのが普通であるかのよう見受けらるるのであります。であるから家庭内で見直し聞直し宣直しが出来るようになればなるほど、世間に対しては容易にこれが出来ることとなるわけであります。しかしこれについては最も肝要なことは、かの権勢に遠慮気兼ねして心にもなき言行に出ずるのは、それは屈従、意気地なし、偽善であって最も戒むべきことであります。必ず神心より起こりたる見直し聞直し宣直しでなくてはならないのであります。普通なれば憤怒、嫉妬、怨恨、嫌忌などの情動が起こる場合でも、神心となれば反対に、相手を憐れむ惜しむ等の情動が起こるのであるから、心の底より見直し聞直しが出来るのであります。三五教の無抵抗主義は即ちこの現れであるから、ドウしても神心にならねば、本当のことは出来ないのであります。裏の御神諭に左の如く示してあります。
「この道の取次は、女の取次がかえってよしと記したることあり。そは女は従順の徳あるが故なり。何事も温しく、しとやかにして神の教えをよく守る性あればなり。瑞の霊素盞嗚命は、その御姿こそ荒く猛く見ゆれども、その魂は女なりしを見よ。肉体は男なりとも瑞の霊の如く心は女の如くなれとの教えなり。
神の道の子らよ。あるときは虎となれ、あるときは羊となれ。神の正道に尽くさんとするとき、悪魔来ってこれを妨げんとするときは、よろしく神の力と勇みによりて虎の如くに猛りて進むべし。常に何事にもさし出ることなくして羊の如く温しくせよ。
神の道の取次は、三才の幼児にも慕わるる品位を保たざるべからず。子供に忌み嫌わるる者は、神に忌み嫌わるるものなり。そは子供の心は神の心のままなればなり」(大正十一年十月二十五日号、神の国第十四号十頁)
霊界物語第二十八巻、海洋万里、卯の巻の跋文暗闇を参照すべしであります。
一、家庭において見直し、聞直し、宣直しの容易く出来る事実
少し気をつけてみると、世間の人に対しては容赦の出来ぬことでも、家庭内では楽々と見直し聞直し宣直しをしていることが常であります。これは申すまでもなく、親子、夫婦、兄弟の愛情即ち家族愛のために、心の底から自然とやっているのであるが、この心を推しひろめて世間の人々をも家内の一人と見なすようにすれば、だんだんと容易く出来ることとなるわけであります。しかしこれも前同様必ず考慮すべきことは、家族愛についてであります。愛にも善悪の二つがあって、大神様の神善より流れ来るところの愛即ち神様本位の愛(天国の愛)でなくてはならぬのであります。人間は大神様のご神格の中にある一細胞であるから、その神善と神真とに相応してさえおれば、永遠の生命と栄光を保つことが出来るのであります。これに反して細胞自己が勝手気ままに自己を、より強く、より豊かならしめんとして周囲の細胞を圧迫侵略するような想念や行為があれば、ココに大神様のご神格と離反し、周囲を傷害したる上に自己もまた死滅して、全体に対してそれだけ損害を来すこととなるのであります。かく自己を本位とする愛は地獄の愛であって、普通家族愛は即ちこの自己愛の集合であり、家族愛のさらに集合拡大されたものが世間愛であるから、人間からは善と思うことでも神様からは悪となるのであります。要するに善悪の分かるるところは、ただ神様を本とするから自己を本とするかによるのであるから、吾々は常にこの点に注意して、一方見直し聞直し宣直しを練修し、一方神心の涵養に努力すれば合わせ鏡は次第に容易になり完全になるのであります。(愛の部の索引参照)
今一つの練習所は、吾々のためには大家庭であるところの大本の聖団であります。御神諭にいわゆる三千世界にまたとなき修業場であります。常に善悪の両鏡が出され、しかも……世が治まるまで出すぞよ……と神示してあって、これによって一方吾々信者の身魂みがきの資料とされているのであるから、真剣に実物教授を受けつつあるわけであります。そしてこの大家庭の一人となった吾々は、二大神人を介していくらでも神格の内流(間接内流)をいただくことの出来る至幸の立場にいるのであります。即ち御神諭、霊界物語等の神書がその主なるものであるから、何事に対しても吾々は、常に神書中の神言と日常の出来事とを対象、即ち合わせ鏡をすることが何よりも肝要であって、そうすることがそのまま、神心よりする見直し聞直し宣直しとなるわけであります。たとえば大本で悪の鏡を見聞した場合ありとすれば、直ちに神書中の神言と合わせ鏡すれば、実にご苦労なお役であるとの心が起こるから、その人に対して批評どころかかえって同情と感謝の念が湧いてくると同時に自分を省みることとなるのであります。第二章内外流の条下に述べた如く、常に神書を精読しておれば、外分にも内分にも記憶貯蔵されているから、事々物々に対する瞬間にそれに相応せる神言が求めずして脳裡に浮かび出るのであるから、自然と合わせ鏡が出来ることとなるのであります。裏の御神諭に(王仁文庫第九篇道の大本参照)
「汝ら人の身を己が身と思い、我が身を人の身と思え」
との説示は、即ち見直し聞直し宣直しの要諦であると思うのであります。
以上述ぶるところの大小二ヶ所における練習は、やがて完全に公私の内護に対する真情を移して公的私的の現界的交際を行うことが出来るようになるのであります。そは世間の悪いとこrは見直し聞直し宣直しによって軽減され、滅却され、反対に同情愛憐の心が起こり、四恩がますます明確に感じられるからであります。御神諭に、
「天地の元の生神の神慮に叶う守護神肉体でありたら、今のような暗黒の世の中におりても、霊主体従のやり方いたすから、こんな結構な良き世はないと讃美をいたし、いつもニコニコとして勇んで暮らせるのであるぞよ。三千世界の立直しは出来ておらぬ前でも、神の心に叶うた人民はモハヤ身魂が立直りておるのであるから、世界に何事が出来いたしても、我が身は塵ほども苦しいとは思わぬようの神徳を戴きて、高見から見物するような心になりて、天地が震動いたしてもどんな大変突発いたしても驚かぬ神徳が備わるのであるから、今の世界の人民が苦しみておるのは、我と我が手に苦しみの種を蒔いて、また自身が苦しみの実を苅り取りておるのであるぞよ。心さえ研けて誠が覚りて来たら、こんな楽もしき広き結構な神世はないのであれども、ちょっとでも心の持ち方が間違うたら、この広い天地が狭くなりて苦しくなるぞよ。今の世界の人民は、苦しまいでも楽しみて暮らせる事を、我から求めて苦しみておるのであるから、神は可愛そうで見ておるに忍びんから、永らくの間出口直に御苦労になりて、神世の教えがさしてあるなれど、云々」(大正八年一月一一日旧同七年十二月十日付神霊界大正八年二月一日号十頁)
と示されてある如く、賛美感謝の生活の下に勇躍して神業奉仕が出来るのであります。また神心、世界的眼孔はかくして得らるるのであります。