文献名1出口王仁三郎全集 第1巻 皇道編
文献名2第3篇 国教論よみ(新仮名遣い)
文献名3第2章 信仰の堕落よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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(一)
基督教は、現時、欧米各国五億五千万人の精神を支配する宗教である。過去二千年来の惰カで、人心の根底に深く浸潤し、牢乎として抜くべからざる慨がある。無論、今の西洋文明には希臘、羅馬の思想が余程加味されて居るが、基督教の影響は更に有力で、更に深遠である。法律も、政治も、風俗も、習慣も、文芸美術も、其他社会万般の事々物々、一として之と没交渉なる事は出来ない。
近世に於ける国家と教会との関係は、余程薄らいだように見受けられるが、それでも帝王の即位式には、其王冠をば誰が捧げるかと言えば、基督教の僧侶が行うではないか。ラファエルの絵画、ダンテの『神曲』、ミルトンの『失楽園』等は、世界を動かすに足る美術文芸ではあるが、基督教の精神を会得せざる者には、其趣味を充分理会、翫味する事が出来ないではないか。又何の為めの安息日か、何の為めのクリスマスか、何の為めの復活祭か、基督教を知らぬ者には、到底欧米の風俗習慣を理会する事は出来まい。やれ赤十字、やれ宗教戦争、やれ新旧二派の争、基督教を知らぬ者には、欧米の歴史は何の事やら分らない。然り而して、此基督教の本源は何れに在るかと言えば、他でもない猶太教である。
イスラエル民族は、由来憫むべき民族で、団結力の鞏固ならざる十二支族より成り、しぱしば分裂瓦解し、軍隊は国の独立を保つ能わず、法律は国の平和を保つ能わず、其結果、神に縋って保護を求め、救済を願った。其惨状は実に目も当てられざるものであったので、随って宗教意識も非常に強烈を極めた。これが猶太教の出来た根本理由である。尚お其前後の状況を考うるに、当時猶太民族は、バビロン、エジプト、ギリシャ等の諸国の為めに取り囲まれて居たのであるが、是等の諸国は、皆多神教を奉じて居た。多神教徒は種々雑多の神々に奉事する結果、其信仰は概して動揺不安定に流れ、一心不乱の堅固なる信仰に入る事が出来ない。かかる周囲の状態の下にありて、モーゼがシナイ山頂でエホバの神から一神教的の訓戒を受けたと言って、之を其同族に伝えたのは、民族自衛の点から極めて必要の事であったに相違ない。此信仰は周囲の圧迫が激烈なるに連れて益々強烈に赴いた。神の降したと称する戒律が峻刻を極めたものであった事が、これが又他面に於て信仰を強烈ならしむるのに与つて大に力あった。其戒律中にば斯ういう事が言うてある。
「汝我面前に、我の外何物をも神とすべからず」。
「汝、自己の為めに何の偶像をも刻むべからず」。
「又上は天にあるもの、下は地にあるもの、ならびに地の下の水の中にあるもの、何の形状をも作るべからず。之を拝むべからず。之に事うべからず。われエホバ、汝の神は嫉む神なれば、我をにくむものに向いては、父の罪を児にむくいて三、四代に及ぼし、我を愛し我が戒を守る者には、恵を施して十代に至らんなり」。
一寸考うれば、中々面白い。真の神は宇宙に只一柱より外に無いという一面の真理だけは、よく表われて居る。又モーゼは、独り此戒を其同族に示したばかりでなく、世界人類一般に示したものの様である。併し乍ら、爰に出る所の「神諭」は、全大宇宙主宰の神の神示としては、余りに偏狭に傾いて居るように見受けられる。
「エホバ」と唱える名称は、いかなる神を指すのか。一部の人士には分りにくく、中には単に外国の神のように思って、余所事に聞き流すもあろうが、「エホバ」というはヘブルー語で、昔も在り、今も在り、又将来も在る所の根本の神、「宇宙の本体」という意義である。して見れば、取りも直さず日本民族が、太古に於て天御中主神とたたえた神を指すに外ならぬので、我等が為めには、極めて大切な国祖である事が判るのである。只此神の神徳の説き方が、甚だ人為的で不備偏狭を免れぬという欠点があるのである。
(二)
前段述ぶるが如く、我が天御中主神のことを、アブラハムも、モーゼも、其他すべてのイスラエル人も、エホバと崇め唱えたらしいが、天御中主神は、全霊界統治の神であると同時に、全現界統治の神である。独りイスラエル民族が専有すべき神でなく、実に又、我日本統治の神であり、各個人の保護の神である。かかるが故に、かの神の降したと称する戒律は、よしや人為的、偏狭不備の臭味を脱せぬにしても、其裡には、幾分神意の伏在するものが無いではない。吾々とても、単に異邦の事、シナイ山嶺の事と聞き流す訳には行かない。神の誠の声の一部が、幾分吾々の耳底にも響く感がするのである。
わが『古事記』には、宇宙開闢の第一の神様として、天御中主神の御名を出してあるが、其広大無辺の神徳、その全智全能の神性をば、毫も録して無いから、誰一人として此神の明瞭なる観念を有たなかった。尤も此神の神徳は余りに大きく、到底筆舌を以て言い尽し得ぬものであるから、神典にも、単に御名を称えたに止めたのであろう。わざと書かぬのでなく、書き得なかったのである。
天御中主神の神徳は、空間的に観れば広大無辺である。時間的に観れば永劫不滅である。其神性は不変不易であると共に、其神業は千変万化して窮極がない。其まします所は、極めて近くして、又極めて遠く、とても人心小智の窺知すべき限りでない。
天御中主神は、第一着手として、理想世界を造営せらるるが為めに、第二位の神と成って顕現された。これが霊系の祖神高皇産霊神である。この理想世界は即ち神霊界で、無論凡眼の観る能わざる所、凡智の察する能わざる所である。ただ霊眼、霊智を以て之にのぞめば、天分に応じて程度の大小高下はあるが、其一端を窺知せしめられる。次ぎに天御中主神は、第三位の神となって顕現し、物質世界を造営された。これが体系の祖神神皇産霊神である。『創世記』には、神を称するに単に「エホバ」とのみは言わず、「エロヒム」の語を用いて居る。エロヒムは即ち神々という事で、根源は一神だが、幾種にも顕現するから、この複数の語が必要なのである。
(三)
天御中主神は、三種の顕現を以て、先ず其神徳を発揮されたが、無限の神徳は、無論このような簡単な事で顕わし切れるものでない。そこで此大天地鎔造の神は、ミタマを分けて、随所随時に顕現して、次第に複雑完備の域に進ましめられたが、天照大御神の時に至って理想世界は完成した。次ぎに、此理想世界の姿を、地上に写し出すが為めに、天孫瓊々岐命を日本国に降して地上の主宰者の地位を確定し、同時に神子神孫を世界万国に降して、之を経営せしめられた。
往時の偏狭固陋な国学者などは、、此日本ばかりが神国のように考えて居た。これはイスラエル民族どもが、自分ばかりが神の選民であると思惟し、エホバの神はイスラエルばかりを守護するように考えたのと同じような僻見と言わねばならぬ。そういう片贔負をする神様ならば、須らく世界の戸籍から除名して仕舞うべきである。『古事記』には、「神皇産霊神が少彦名命を遣わして、常世の国を経営せしめた」と記載されて居るではないか。常世国は外国である。神の眼からは、日本もない、外国もない。只各国をして、其天賦の職責性能を発揮せしめんとせらるるのみである。
此世界経営の神業は、今日とても依然として継続されて居る。この後とても其通りだ。であるから、天御中主神の神徳を知ろうと思えば、日本神代史の研究は勿論の事、希臘、羅馬の神話も、基督教も、回々教も、婆羅門教も、支那の道教も、儒教も、西洋の諸学術も、悉く調べて見て、そして造化の宝蔵を敲いて見ねばならぬ。無論これは、一人や十人では出来ない。一宗派、一専門の士では不足だ。苟くも霊智霊能あるもの、誠心誠意あるものの全部が、総懸りで取懸らねばならぬ問題である。それ丈努力討究しても、尚お僅に神の大業の百千万億分の一を想見する事しか出来ぬのである。
(四)
然るに、現代の日本国民の、神霊に就いての知識及び信仰の程度は如何。神代史の知識を全然欠如し、天御中主神の神徳を知らぬものの多きは勿論、第二流、第三流の神さまさえさしおきて、種々雑多の低級の神々ばかり拝んで居るものが多い。これでは、日本は浅ましい迷信教国と言われても仕方がない。さもなければ、浅薄愚劣な無神論に堕して、半可通の新知識を振りまわして居る。どちらにしても困り者である。
ギリシヤの信仰なども、随分堕落して居た。ギリシヤの神々は、森の中や、山の上や、谷や、野原に於て、よく血を流して闘ったり、鎬を削って争ったりした様であるが、敵を殺したり、欺いたりするという事は、神の神たる所以の尊厳を汚すもの、遂に戦に敗北して仕舞って、敵に降参するに至っては、誠にもって言語道断である。神話と軍談とを取違えて、「希臘の神話は詩趣が饒多である」などというは、誠に片腹痛き癡人の寝語である。
日本も余り大きな顔は出来ない。地方に行って見ると、あちらにもこちらにも、能く稲荷の祠があるが、其所には狐が祭ってある。何故狐を祭るかというに、「稲荷は『ミケツカミ』である。『ミケツカミ』は三狐神である。故に狐を此処に祭るのだ」というに至っては、信仰の堕落の極点で、折角の宗教は道徳性を失い、却て不道徳の道具となって仕舞う。赤飯をたいて、油揚をあげて、余計な鳥居をいくつも建てて、それで御利益の強要をする。近来は、地方ばかりでなく、東京のお膝元まで其風が蔓延し、相場師、投機商、少し山気のある商人は、よく羽田の穴守稲荷などへ出掛ける。わけて芸者、芸人などという連中の所謂信心は、すさまじいものだ。「其目的は那辺にあるか」ときいて見ると、狐の魔術的保護によりて、客をたらかし、相手を騙すためだという。誠に噴飯の至りである。
実を言えば、稲荷の神は「飯成の神」という事で、宇迦之御魂神である。即ちこの神は、豊受神で、五穀の生育を司り、万民の食物の源を養う神様であるから、又の名を「御膳津神」というのである。とりも直さず、豊受神は、造化の第三位の神から遣わされた物質世界の神なのである。天照大神は造化の第二位の神から遣された理想世界の統治の神である。豊受神は物質世界の住民に食物を恵みて、そして天照大神の神業を助くるのである。さればこそ、この二柱の姫神は、内外両宮に祭られて、万民の信仰の中心となって居る。
日本の「創世記」によれば、天御中主神はエホバであるが、其神徳は隠れて見えない。樹木に譬うれば、地中に隠れたる根の如きものである。この根はやがて地上に顕現して、第二位、第三位の神と成った。第二位の神は即ち幹である、枝であるから、高皇産霊神の事を「高木の神」と謂い、又「カンロギの命」という。次ぎに第三位の神は花である、実であるから、神皇産霊神の事を又「カンロミの命」という。又「産霊」ということは、即ち「ムスブ」の義である。第二位の神は理想を結んで、之を天照大神に委ね、第三位の神は物質を結んで、之を豊受大神に托したのである。
かの万有神教というのは、物質的有形庶物を祭る所の宗教である。動物、植物、鉱物、山川、森林等を、そのまま神として祭る所の宗教である。かく「自然の個物」を崇拝すると、勢い肉欲的、物質的に堕落する。又かの偶像崇拝というのは、「抽象的概念」を神として拝むものである。抽象的概念には形が無いから、勢い之を現すに偶像を用いる。仁王や、帝釈天や、毘沙門天や、比々として皆抽象的概念の具象的表現である。近代の科学に用うる名称とて、外形こそ異なれ、其真相に於ては敢て変りはない。エネルギー、エーテル、引力、潜在意識等、偶像ではないが、気のきいた偶像の代理である。かかるものは人間の作ったもので、一の心理作用に外ならぬから、到底信仰をつなぐ力はない。
吾々は、どうあっても此国民信仰の堕落を済わねばならぬ。健全なる信仰を復活せしめ、やがて世界の宗教統一を実現すべき使命は、どうあっても、我日本に在らねばならぬ。目下は正にその秋である。最早一日を延べる事は出来ぬ。世の有識者の奮起を望む。
(「神霊界」大正六年二月号)