文献名1出口王仁三郎全集 第1巻 皇道編
文献名2第6篇 愛善の真意義よみ(新仮名遣い)
文献名3第3章 人類愛善の真義よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考2023/09/26校正
タグ霊止(ヒト)
データ凡例
データ最終更新日2023-09-26 09:10:04
ページ432
目次メモ
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本文
人類愛善会といふ会を起し、名称を付しましたに就て、人類愛善と云う意味が未だ徹底せず、浅く考へて居る人があるやうに思ひます。又解つて居る人もあらうと思ひますが、一寸それを説明して置きます。一寸聞くと人類愛善会といふのは、総ての人間を人間が愛するやうに聞えて居ります。総ての人類は同じ神の子であるから、総て愛せねばならぬといふ意味になつて居りますが、それはそれに違ひないけれども、人類といふ字を使つたのは、下に『愛善』がありますから、上の『人類』の意味が変つて来る。単に『人類』と丈謂へば世界一般の人類或は人間の事であり、色々の人種を総称して人類といふのである。併し日本の言霊の上から謂へば『人』は『ヒト』と読みてヒは霊でありトは止るといふ事である。さうして『人』といふ字は左を上に右を下にして、霊主体従、陰と陽とが一つになつて居る。神といふものは無形のものであるが、併し神様が地上に降つて総ての経綸を地上の人類に伝へる時には、止まる処の肉体が必要であります。それで神の直接内流を受ける処の予言者とか総てさういふ機関が必要なのでありまして、此の霊(神)の止まるのが人(ヒト)である。それは神の顕現、神の表現として釈迦とかキリストとかさういふ聖人が現はれて来て居る。人間といふものは善悪混淆した普通のものであるが、人といふと神の止まる者、神の代表者である。それに類するといふのであるから、それに倣ふのである。神は善と愛としかない。理性も理智もない、愛といふ事にかかつたら理性も理智も何もなく、どれ程極道息子でも愛の方から謂へば只可愛い一方である。天国の神の世界には愛と善とより外にはない。愛は即ち善であり善は即ち愛である。神の愛善は何ういふものであるかといふと、総ての脅喝的──今の既成宗教のやうに戒律とか云ふもので脅喝しない。今は戒律で人間を怖がらし、天国とか地獄とかを拵へ、善を為せば天国へ行く、悪を為せば冥官が厳めしい顔をして裁くといふやうに、今の教は脅喝的に出来て居る。併し神には脅喝といふものはない。只愛する一方です。泥棒のやうなものでも、又どんな悪人でも、こちらから親切にしむけて行くと、其の人は恩を覚えて居り、どんな善人でも、あまりこちらから強う行くと、恨んで来る。併しそれはお互に同じ人間の事であるが、神の愛といふと、敵でも何でも本当に心の中から憎いといふ心が起つて来ない。其処が本当に純なる神の愛なのです。今日の人間の作つた不完全な現行刑法でも、親が泥棒をしたとか、親が罪を犯したとかいふて、其の息子なり孫なり、妻君までを懲役に引張つて行つて刑を科するといふやうな事はないのです。況して至仁至愛の神様が、先祖が罪を造つたから其の子孫を罰する、それを恕して貰ふといふやうな事は、今日の不完全な法律よりも徹底しない教であつて、決して神の伝へた教ではないのであります。神は善人であるから愛するとか、悪人であるから罰するといふやうな事はない。総て愛と善とで向はれる。此の愛と善とを取つて了つたならば、神の神格といふものが無くなる。
人間も愛と善とが無かつたら、人間でない。
形は人間でも矢張り獣になつて了ふ。神様も其の通りであります。
神様は色々の方法を用ひて、総ての機関をお造りになり、そして神の意志を地上の愛する処の人間一般にお伝へになる。之は昔から時代々々に依つて色々の神のお使ひが現はれて、世の中に伝達して居りますが、併しそれを聞く人が皆間違つて居つて、本当の神の意志をよう取つて居らぬ丈のものである。それが為に今日の既成宗教といふものが、輪郭丈けは極立派にありますし、又言ふて居る事もなかなか立派にある。善悪正邪に因果応報だとか、其の区別とかいふ事は立派にありますが、実行は出来ない。さういふ戒律づくめで、愛と善との徹底しない宗教を信仰して居ると、信仰すれば信仰する程不安の念が漂うて来る。
信仰しなければ何ともないものが、信仰した為に、今日までああいふ悪があつた、かういふ事があつたと、臆病風が起つて来る。神は愛と善とが本体である以上は、一切の悪は恕して呉れる。又元より恕す恕さぬといふやうな事もない。恕される恕されないといふやうな事は、自分の魂の持方一つによつて、いろいろと感じられるだけの事である。
一体人類愛善といふものは、神の聖霊に充された処の予言者、或は伝達者に類する処の心になり、さうして愛善を行ふ、善人だから愛する、悪人だから憎むといふやうな事ならば、それは本当の愛ではないのであります。
愛といふ事になつて来れば、善悪正邪の判断がつかないものである。つくものならば愛といふものは千里程向ふに行つて了つて居る。又神様が罰するとか戒めるとかいふやうな事があれば、神其のものの御神格といふものは、千里程向ふに脱出して了つてゐるのである。此の世の中は愛と善とで固まつて居る世の中でありますから、何事も総て愛善の神様に任して、そうして取り越し苦労をしないやう、過ぎこし苦労をしないやう──過ぎこし苦労といふものは、済んで了つてからの事である。彼奴はああいふ事を言いよつたとか、彼奴の讐をとらんならんとか、ああせなんだら今まで大分財産も出来て居つたのにといふやうな事で、又取り越し苦労をして、明日の事を明日は何うしやうかと考へて居つても仕方がない。千里の路を行くのにも、左の足から右の足といふ風に出して行けばよい。行く処は東京なら東京と決めて置いて、一足々々を注意して行く。積極的刹那心を以て進んで行く。さうすれば影が形に伴ふ如く、愛善の心が起つて来る。取り越し苦労と過ぎ越し苦労を忘れて来たら、一切の欲も起つて来ぬ。怨恨も忘れて来る。又妙な欲望もなくなる。大本の方から謂ふとそれが惟神の精神である。
大本の方は神様の神勅によつて宣伝使を拵へて居りますが、愛善会の方は宣伝使といふものはありませんけれども、自然に愛善の徳が出来て来たら、其の人の身体から光明が出て来る。さうすると独りでに其の人の光明に照されて世界が愛善になる。愛善を売りに歩いても売りに行つたものは効果がない。又自分が愛善をやつて居るとか、自分が善をやつて居るとかいふやうな時には『自己愛が其の中に這入つて居つて、本当の愛善の愛善になつて居らない。世の為め、社会の為と皆考へて居りますが、其考へがある間はなつて居らぬ。凡て何も彼もなく無になつて了ふ。無になつた時に愛善が身体に這入つて来る。愛善会にはあまり小六ケ敷い演説もなければ話も出来ない。私は初めの時に愛と善との事を謂ふて置きましたが、あまり細かく分析して謂ふ事は出来ない。愛善といふやうなものは非常に大きなものであつて、謂ふに謂はれず説くに説かれず、丁度ボタ餅が何ういふ味であるかといふ事を説明して見やうといふても、食つてみなければわからぬ。各自に食つて見て初めて其のうまさが解るので、愛善もそれと同じことで、到底人間の力で分析して説く事は出来ない。それは其の人の徳相応の光明に依つて味はれるものであると思ひます。
○
人類愛善会第一同総会の開かれた十八日は、午後からそぼふる春雨の日で、四角ばつた会でなく、皆が心からうちくつろいだまことに気持のよい会であつた。
坐談にうつつてから、臨席された出口王仁三郎聖師をとりかこんで、歓談笑声の中に時のうつるのを知らなかつた。左に聖師の坐談の断片を御紹介しよう。文中に(質)とあるはその席の人々の質問、(答)とあるは聖師の解答である。
坐談談片
幸福は与へられるが満足は与へられぬ
何ぼ愛善会でも、総ての人に幸福を与へられても、満足は与へられない。何故かといへば、総ての物質は有限的であるから、人間の無限の欲望を満足さす事は出来ない。例へば十万円の財産が出来ると百万円の財産家になり度くなり、百万円出来たら千万円になり度い、一億円になり度いと云ふやうに、満足といふものは与へられるものではない。幸福といふものは与へられる。誰も彼も身魂相当に幸福といふものは与へる事が出来る。味はう事も出来る。併し満足丈は与へられない。満足といふ奴は一寸無理な奴です。宗教なるものは平和と幸福を与へる為であつて満足を与へる為めではない。霊界物語にも天国もあり、地獄も説いてある。それは人の精神状態をああいふ風に説いてあるけれども、愛善の道に大悟徹底すれば地獄も八衢もない。徹底しないからさういふものが出来て来るのである。
今までの宗教は総て日本男児の睾丸を割去して去勢する道具だ。睾丸を抜いて了つて卑屈な人間にして了ふ。睾丸を抜くと牛の暴れる奴も暴れない。人を突き殺さない。其代り活動が鈍い。そのやうに人間も活動が鈍くなる。それは信仰の堕落である。総て脅喝文句が多いから恐怖心を直に養ふ。信仰するのは安心立命の為であつて、恐怖を起す為に信仰するのではない。
少し私の考へは脱線して居るか知らんが、社会に害を与へぬ限り、何をしても神は罰する事はないと思ふ。
又元より罰する気づかいはないのだから、害毒を与へると社会から憎まれて罰せられるけれども、神其物からは罰は与へない。
祓ひ玉へ、清め玉への意味 神道では、祓玉へ清め玉へといふが、声といふのは心の柄、心の思ふて居る処を出す。杓でも柄が無ければ使へない。心の言霊をつづめると『こ』となる。魂の発動によつて無茶苦茶なことをやる。その悪行為を祓玉へといつて、心の進むままに行つた事を祓落すのだ。『玉へ』といふ言霊は大本の『神言』にも使つてあるが、『……し玉へ』といふやうな昔の祝詞の言葉とは違ふ。大本のは『玉の柄祓へ、玉の柄清め』といふ事であるが、玉へを先に言つては語呂が悪いから止むを得ずああ言つてあるのだ。玉といふのは人の魂の約言である。自分の不知不識の間に行つた事が悪いと気が付いたら、そいつを直に祓つたら良いのだ。掛取でも払ふたらもう来ないものだ。つまらぬ家につまつて居るのは掛取さんだ。何事も初めは誰も皆悪いと思つて行るものは無い。皆良いと思つて行るのだから。泥棒でも三分の理屈があるといつて何でも理屈を付けりや付くものだ。
質疑応答
智慧証覚は何処から来る?
問『智慧証覚といふのは何処から出るのですか』
答『それは皆愛善から出るのだ。善を放れた真の智慧はない』
問『神の善を愛するとは、何んな事で御座いますか』
答『神様の意志其物を愛するのだ』
問『さうすると智慧証覚といふものがないと、神様の意志は解らないわけですか』
答『愛も善にならないと、智慧証覚は出て来ない。外分的な欲望のために世人の一般は巧く智慧を働かすやうなれども、愛を放れ善に背いた行ひは直に後から剥げて来る。それは本当の智慧ではない。智慧も証覚も総て愛から出て来るのだ』
地獄極楽はあるのか無いのか?
問『それに欠陥があつた場合には、根の国底の国といふやうな状態が現はれるのですか現はされるのですか、又造るのですか』
答『現界のやうに監獄を拵へて罪人を待つて居るやうな処はない』
問『さうすると現界と霊界を分けて考へる時には堕落になるのですか』
答『だから現世に居る間に天国に籍を置いて居らねば駄目だ。皆みろくの世は何時来るといつて期待してゐるが、私には昔から来て居るのだ。何ぼ五六七の世五六七の世といつても、来ぬ人には何時まで経つても来ない』
懺悔生活などは出来るものでない
問『神様の愛が解つたら、懺悔するといふ事は無意味な事ですか』
答『何も自分が神の分身分体であり、神の一部分である以上は、自分の心の中で祓つて了へば良いのだ。それを他の人々に暴露して、ざんげしたと思ふのは、神を辱め、自己を辱めるものだ。実際懺悔の生活といふものは出来るものでない。懺悔するといふ事は、世間へ対して君子らしく飾る為に懺悔を装つて居るので、肝腎の心の底は決して懺悔の出来るものではない。何れも限定的の懺悔だ……。半分位懺悔するのなら一層のことせない方が良い。黙つて心の中で立直して忘れてしまつたら良いのだ。今までは下手計りして損をしたなどと返らぬことは思はん方が良い。済んだ事は何う思つたつて駄目だ。過ぎ越し苦労だ。清盛平相国はお日様を招き戻したといふ話があるが、人間として一秒時間先きの事は何うする事も出来ぬ。今の此の瞬間丈け自分の心の自由……何を行ふと何を思はうと自由だ、瞬間より外に自分の自由になるものはない。一分間先は頓死するやら何うなるやら分らない。先きの事を思つた処でそれは徒労だ。取越し苦労だ。刹那々々の瞬間に、善を思ひ善を行ひ善を言ひ、そして愛善の心になつて行けばそれが一番安楽だ。さうすると時間といふやうな観念も無くなり、自分がもう何歳になつた。吁もう五十歳になつた。百まで生た処で後五十年だといふやうな考へが起つて来ない』
刹那主義楽観主義で行け!!
自分は蒙古に行つて感心した事がある。『お前の年齢はいくつだ』と質問したら、『自分の歳を考へたり覚えてゐるやうな馬鹿があるか。歳を知つて何の効がある。そんな事をしてゐたら長生が出来ない。自分の子の歳も親の歳も知らぬ』と答へた。日本人もそうなれば初めて天国が降つて来るのだ。併し乍ら月末が来たり節期が来ると思ひ出さずに居られないけれども、其時丈思ひ出して後は忘れて了ふのだ。私は毎月普請をして何万円の支払ひをしてゐるが、二三日の後に三万円払はねばならぬ際に百円よりない。そうすると係りの人が青い顔して心配して居る。『払ふのは何時だ』『来る三十日です』『それなら三十日になつて出来なければ一寸位心配をしたら良い。自分は三十年間に亘りて経験をして来た。一度も間違つた事はない。九分九厘行つた所で甘く落着するものだ。そういふ風に世の中は神が造つて居るのだ。必要の物は屹度与へられる。こつちから慌て騒がんでも良い。慌たり騒いだりして、向いて来る運を自らこはして了ふのだ。凡て金ばかりでなく、世の中の万事は皆自分からこはして了ふのだ』私は其話をすると『貴方と同じやうに行かぬ。私等はさういふわけに行かない』といふ人があるけれども、それが違ふてゐる。全部がさうなつたら行くのだ。あなたと一緒には我々は行かない等と拒む人があるが、それが違つて居るのだ。其れでは人類ではない。人の類ではない、刹那心と無責任、放任とは違ふ。
律法の必要はないか?
問『忘れて了ふといふのは、省る、恥る、悔い改める、天地を畏れる……の必要は……』
答『八衢に居る間は省る恥る……も必要だ』
宗教と倫理とを間違へてはならぬ
問『良いと思ふ方に向つてドシドシ進みさへすれば良いのですか』
答『人間として自分の言行に対しては、良いか悪い位は皆解つてゐる筈だ。猫が鰹節を盗つた時には隠して食ふ。鼠を捕つた時は、主人の前に持つて来て褒めて貰ふて食ふ。犬でも猪を捕つた時は、主人の前に持つて来て手柄顔して尾を振つてゐるが、鶏を盗つた時には藪の中にすつ込んで食ふ。人間に盗む勿れ、怒る勿れ、姦淫する勿れ等と戒律を拵へるのは人間を動物以下に扱つてゐるのだ。それは学校の倫理科で教へてゐる。それを世帯を持つた一人前の人間が、説教を聞いて随喜してゐるのは可笑しい。宗教と倫理とを間違へてゐるのだ。宗教の目的は、平和と幸福を万人に与ふる為である。要は総て安心立命の為である。アダム、イブが神様の禁じた果実を採りて食つたから、其罰で子孫が何時までも地獄の火に焼かれて苦しみを受けねばならない。それが可愛想なから現在及未来に於けるキリストを信ずる者の為に、十字架に懸つて下さつた救世主だと言つて信仰するが、そんな下らない理屈はない。恰も自分の先祖が借もしない証文に利子を付けて返してあやまつてゐるやうなものである。今日の法律でも、親が行つた犯罪に対して子は刑を受けないではないか。況して公平無私至仁至愛なるべき神に、そんな矛盾があらう筈がない。万々一そんな神があるとすれば皆悪魔だ。それを文明人が一生懸命に涙を流して信仰してゐるのは解らない。そんな教理を研究するより、刑法を読んだ方が何程理論が合ふかしれない。借もせぬ証文に利子を付けてまだあやまつてゐるやうなものである。先祖が悪い事をしたか何うか知らぬ子孫まで、罰をあてるやうな分らぬ神はない筈だ。キリスト教はそんなものではないが後の者が拵へて了つたのだ。仏教でも律宗の如きは戒律計り拵へてある。律宗の云ふ通り実行せんとすれば、世の中に足一つ踏み込むわけに行かぬ様になつて了ふではないか。
大乗の教と小乗の教
問『之までは因果が子に報うて来て先祖伝来の罪があるから……といふやうな事を聞きましたが、罪といふやうなものではなくて、因果といふものはあるので御座いませうか』
答『それは小乗部の教である。それでなくてはいかぬ人間に持つて行く為だ。今私は大乗部を説いてゐるのだ……釈迦も四十年未顕真実といふて四十年間うそ計り言ふて居つたのだから、大本もうそ計り言つてるかも知れぬ。四十年経つたら本当の事を言ふかも知れぬ。それでも安心して良い方に向いて来たらそれで結構なんだ。本当の事を謂つたら皆引つくり覆つて了ふ。大本の信者に今謂ふやうな事を初めからきかせたら、異端邪説だと排斥して逃げて了ふ。私の家内と私は何時も意見が合はぬ、家内は小乗だから私の言ふことを危ながつて居る位だ。其の代り私の話は取り違ひするとどえらい危ない事になつて来る』
大乗の教を小さい心で応用すると危ふい
問『小さい心で応用して了つたら、ひどく神様の名を瀆す事が出来ますね』
答『神の眼から見れば、善いとか悪いとかいふことは謂へるけれども、人間から善いとか悪いとかいふ事はいへない。日本では一夫一婦で、第二第三の夫人を持つて居ると、社会から品行の悪い奴だといはれる。併し蒙古へ行くと、男子は大部分坊主になつて了ふので、一夫が七婦位持たねばならぬ割合になつて居る。向ふで一夫一婦できばつて居ると、不道徳となつて、彼奴は我よしだといはれる。人間の決めた善悪は時と場合で変る。徹底的の善もなければ徹底的の悪もない、そんな事はわからない。人を殺すのは大罪に違ひないけれども、戦争に行つて人を殺したら勲章を貰ふのだ。一方には酒の害を説いて居る。煙草の害を説いて居る。一方税務官吏は高い煙草をのんで呉れる奴がよい。高い酒を飲んで呉れる奴は善人だ。同じ政府の下にあつてさへそんなに矛盾のある世の中だ』
(大正一五、四、一八、五月号 神の国)