文献名1出口王仁三郎全集 第2巻 宗教・教育編
文献名2【宗教編】第5篇 宗教と政治よみ(新仮名遣い)
文献名3第3章 皇位論よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考2023/10/04校正。
タグ
データ凡例
データ最終更新日2023-10-04 19:42:56
ページ406
目次メモ
OBC B121802c162
本文のヒット件数全 0 件
本文の文字数3220
その他の情報は霊界物語ネットの「インフォメーション」欄を見て下さい
霊界物語ネット
本文
天国は近づけり悔い改めよと絶叫して、万民の為に十字架に登つて命と愛とを換へことしたイエス基督は、実に立派なエライ聖者であつたに相違ない。崇敬すベき人格の高い神の子であつたと讃美するも毫も無理ではない。併しながらキリストの絶叫してから、今に二千歳にならむとするけれども、未だ一度も天国が地に降つて来ない。近づいた天国が二千歳も地上に来らず、悔い改めの真意義に達した現象が無い。悔い改めざるが故に天国が来ないのか、天国が来ないから悔い改めないのか、兎も角も、基督教国に未だ天国が来らず、修羅の現象はいつの世にも同様に、吾人の眼に映じて居るのである。
印度に出た釈迦如来は、三十二相八十種好の紫磨金色の仏であつて、其荘厳端正なること比較すべきものがない。加之其説法には大乗あり、俗諦あり、真諦あり、真に至れり尽せりの教義である。細を穿ち微に入り、一代の説教は無量無限であると謂うても好い。然るに釈迦の出たる印度は、疾くの古に滅亡して他の属国となり、又仏教国たりし所の東洋の諸国に、仏教の最高理想とする所の娑婆帰寂光の真意義が現はれた事もなく、即身成仏の人として数ふべき人が、古往今来幾人在つたであろう乎、地獄に陥るものは大地の砂の数よりも多く、仏になるものは爪上の土よりも稀であると云ふ、実に仏教は難信難解の宗門である。西方の阿弥陀仏からは今に一度も通信がないので、幾人の浄土参りが出来たかは知る事が出来ぬけれども、大乗仏教の真意義は娑婆即寂光にあつて現在安穏に在るを以てみれば、仏教国に未だ一度も極楽が築けた時が無いと云うても差支あるまい。仏教の理想は三千年を通じて、未だ一度も実現した事がない。或は一部分の人々、少数の人々をして開悟せしめたといふ利益は、永い間にはあつたかも知れない。或は多少世上の風紀上、道義上に利益した点が無いでもなからう。然しそれは大乗仏教の究極の目的ではない。少数とか一部とか云ふやうなことを云ふのは小乗教の事である。大乗教は十界同時の成仏であつて、天国極楽を斯土に求めるのが本義である。然るに仏教のこの本義は、三千載を通じて一度も世上に実現したことがない。キリスト教は二千載を通じて其教義が未だ地上に実現せず、仏教は三千載を通じていまだ地上に其理想の陰影すらも認め得られないのである。
二千載三千載ばかりは、宗教家の眼から見れば実に一瞬の間と見えるかも知れない。併し随分二千載三千載は人間から見ては短い時間ではない。然も其間に熱心な献身的な伝道者が沢山出た事で、この二三千載の間に於ける仏耶の発展に、或る意味から謂へば随分広くも深くも弘布されたと云うて好いであらうと思ふのである。幾多の伝道者が犠牲となつて熱心に弘通したのは確かである。然も仏教も基督教も、未だ毫も素志を達する事が出来て居ない。斯くの如き有様で、果していつの世にか其素志が達せられようかと、吾人は疑つても見たくなる。二千載三千載の永い過去の経歴を以て、未来を推考した時に、宗教を職業として居る特殊なる人々の考へは別として、永く冷静に考へて見た時に、過去を以て未来の予想が大概はつくではないか。五百歳等の語が出てからも、最早六百歳の余になるでは無いか。
仏教やキリスト教を以て、誠に役に立たぬ教とは云はぬ。まだ夫れまでの断言はせないが、過去を以て将来を推考して見ると、本当の基督教、本当の仏教が採るべき手段、採るぺき途に於て、欠陥がありはせぬかと言うて見たくなる。吾人は基督教や仏教が従来のままの方法や手段や途を辿るのでは、永遠に彼等の目的は達せられないものと断言する。仏教は大乗と云ふ意味が解つて居ないのではあるまいか。キリスト教は天国の真意義が本当に解つて居ないのではあるまいか。真実の天国が判れば直に分らねば成らぬ事柄が必ずあるに、未だキリスト教にては夫れに気が付いて居ないやうである。馬太伝の祈祷の詞が分らなければ、キリスト教は分らないのである。この馬太伝の祈祷の詞は外国人には到底分らぬのだ。日本人でなくては分らないのだ。如何にも偏頗な事をいふやうであるが、其通りである。天国の国体及び天国の政体が、この祈祷の中に説いて在るのだが、その天国の国体も政体も外国人には全然分らないのである。その天国が近づくと云つたのみでは一向に分らないではないか。天国とは何ぞ。其国体は如何。其政体は如何。これが充分に分らねば、キリスト教は有名無実のキリスト教である。如何に絶叫したとて天国が来てたまるものか。永遠に天国が来る筈がない。天国を知らずしては悔い改め方もないやうなものだ。天国の人と成るがために悔い改めを為すのではないか。悔い改めと、天国とは、隔離して居る筈がない。然るにキリスト教は天国と悔い改めとが隔離して居る。更にその天国が本当の天国ではない。馬太伝の祈禧にある天国でない。現今の如き天国をとくに於ては、キリスト教は永遠に駄目に果るのである。これが渠の運命であるのだ。宜なるかな、二千載の熱烈なる運動も全く画餅の如きものであるではないか。これがキリスト教の根本誤解からくる結果である。議論が必ずある事であらうが、希くは承りたいものである。
仏教に於ても、キリスト教と同様の誤解がある。仏教は理論だと思つて居る輩には論じた所で解らない。尠くとも仏教の要は、立正安国に在りという程の人々ならでは吾人の説は分るまい。馬鹿げた論をするよりも信徒でも殖して、美衣美食に耽るの考へを廻らし玉へ。西方に極楽が在るなら在るでよい。仏教は高尚なものだ。信仰が根本だ。仮令八万の法蔵を知るとも、後世を知らざるものを愚者とす、など謂つて、信仰の無いものは相手にせぬなど、高く構へるが良からう。国賊的信念や亡国的病者には、此方から接近を御免蒙るのである。一切衆生と共に艱苦を共にし、安楽を共にせないやうな宗教家は、小乗時代の採るに足らぬ手合である。極楽へまゐりて何とするか。自分の親も兄弟も地獄で吟呻して居ても、自分は蓮華台上で栄華を極めやうとするのか。斯様な教義が世の秩序を害い、人を地獄や餓鬼畜生に陥し入れた罪は夥しいものである。仏教の要は前にも言ふごとく、現世安穏、後世善処であるのだ。現世安穏は治国安民である。政治を無視した宗教が何の役に立つものか。極楽国土の国体や如何。政体や如何。極楽国土の国体も政体も知らずに、何をウロウロ神聖なる大日本国で囁言て居るのだ。宗教は全く亡国の因であるとは宜なる哉である。仏教国は悉く亡国に瀕して居り、中には最早亡国を実現してゐる所も眼前にあるのである。教祖の国が既に然りである。幸にも日本国は仏教に司配されずして、却て仏教を司配して来たから、現今の有様で維持したけれども、仏者に油断したら、今に教祖の国同様の運命に至らぬものでもない。仏教家に根本的誤解があるとは茲である。極楽の国体や政体が分らないで、何を説く考へであらう。阿弥陀経や法華経の読める僧侶が日本に幾人あるだらう。僧侶は毎日アミダ経も法華経も誦んで居るけれども、一度も仏教と日本の皇位との関係が、経文に明記してあることに気が付かぬであらう。よしや多少気が付いて研究して居る僧侶でも、曲解されずして、天国も極楽も来るものでない事に気がつかなければ、仏教もキリスト教も廃絶は眼前である。二千載や三千載の長い過去が充分に証明して居るのである。寧ろ廃絶するが当然であらうと思はれる。大日本の皇道は毅然として、彼等の千辛万苦を一朝に成就し給ふ大偉力がましますことを傍観せよ。宗教家が大誤解を抱いて居る間は、夜が明けないのだ。草薙神剣(艮金神)の威力が当然加へらるべき約束かも知れない。仏耶の徒は議論が好きだ。必ず余等の言を此ままに聞き捨てにはされまいが、併しいかにモガイても駄目である。科戸の風や吹く時の用意せよ。世を改造すべきの用意せよ。
(大正七、四、一五、神霊界誌)