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文献名1出口王仁三郎全集 第2巻 宗教・教育編
文献名2【宗教編】第6篇 宗教雑感よみ(新仮名遣い)
文献名3第16章 宗教は酒の如しよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考2023/10/05校正。
タグ四魂 データ凡例 データ最終更新日2023-10-05 18:50:25
ページ499 目次メモ
OBC B121802c183
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本文  世の中で『誠』といふ事が随分取違ひされてゐる。或る日黒住さまが高台に登つて『誠程人の宝はなきものを誠を知らぬ人のあはれさ』──かういふ歌を詠んだ。所が黒住教の或信者が、「間男程人の宝はなきものを間男知らぬ人のあはれさ」だと思つて一生懸命に間男をしたといふ話がある。
 今日の坊主が尼と色々な事をしたり、或は女郎買に行つたりする事は、これは人間として誠である。これが本当の誠である。これを隠して聖人ぶつて居るのが偽りである。男は女が嫌ひといふのも嘘である。男は女が好きなのが誠である。そして又女が男を嫌ひといふのも嘘である。女が男を好くといふのが、これが誠である。それを今日の人はあの人は誠やとか、聖人とか、君子とか、女を見てもビリツともしないとか、男を見ても後家を立てて居るといふけれども、それは腹の底にはいつて見ると違ふ、矢張り男は女が好き、女は男が好きである。それが誠である。それで善の中にも真の善と仮の善と偽りの善とがある。この真の善といふものは、今日の法律やなんかで云うて居るのとは合ふ事と合はん事とがある。それで法律で善といふのは、仮りの善である。吾々が国民として生活する上に於て、お互ひに申合せの規約を拵えて居る。お互ひに犯さない様に……その法律に背かなかつたならば善かと云へば、決してさうではない。法律といふものは最低の程度の道徳を基本として拵へたものであつて、最高の程度の道徳ではないのである。それで法律に背かなかつたから、神の良民であるとも、またこれは誠の者であるといふ事も出来ない。
 それから宣伝使の中にもいろいろ千言万語を費やして名論、卓説を吐く人が沢山あるが、然しその行ひといふ事──実地に活動せないならば、これは偽りになる。黙つて居ても、活動して神の道を伝へる事が出来る。それで『沈黙は雄弁に優る』といふ言葉もあつて、沈黙して、そして行ひをもつて見せて行くのが一番に宣伝の効果が挙がる。本当に誠が通つて行くのである。まだ大本は宗教的行為も混つて居るけれども、既成宗教の様な宗教とは考へてはゐないのである。総てこの宗教といふものは酒の様なものである。『宗教は阿片なり』と言うた人もあるけれども、これは宗教の形体をそなえて、実際の宗教でないものを指した言葉であらうと思ふ。本当の宗教は酒の様なものである。酒の嫌ひな人はこれを見ても嫌なのである。又好きな人は無茶苦茶に好きである。酒を飲んでも各自に味が違ふのである。飲んで喜んで笑ふ人と、怒る人と泣く人と、それから乱暴する人がある。人と喧嘩して、警察の厄介にならねばならぬ人も出来て来る。同じ一つの酒であつても、その人々によつて皆その結果が違ふて来る如く、同じ大本の道でもその人によつてお筆先にある通り『身魂の因縁だけよりとれない』ものである。身魂相応よりとれぬのであるから一般の人に向つて──『かういふ教である』『かういふものだ』というて大本を説いた所で判らぬ人もある。判つた人もある。それで大本といふものは一体どういふものであるか、どういふ真理があるかと尋ねられた所がこれは説く事が出来ない。例へて云へば、牡丹餅はどんな味がするか、それを説明せよといふのと同じ事である。喰ベて見ねば判らぬ。甘ければうまいといふより外はない。それと同じ様に大本はいい教であるといふより外に道はない。牡丹餅も喰うて見れば七ツ、八ツ位喰ふ人もある。一ツで嫌になる人もある。それで人間の言葉で説明が出来る様な教であつたならば真の宗教ではないのである。神の教といふもはとくにとかれず、ゆふにゆはれず──禿頭の様なものである。
 それから御筆先に『神が表に現はれたら一切の事を曝露する』と書いてある。面の皮をひんむいて了ふ、そして改心させるとある。そして尖端を行くのである。私は昔からの古疵を『真如の光』誌上に曝露して、曝露戦術をやつてゐる。世の中は曝露戦術をこの頃始めて居るけれども、私は早くからやつてゐる。世の中より先んじてやつてゐる。それで、どんな人も私の『真如の光』を読んだならば何処か心に当つて居る所があらう。心に当らなかつたならば、これは生きて居る人ではない。
 総ての人特に宣伝使といふものは、自分はこんな事をして居つたから恥しいとか、こんな事は云はれぬといふ様な──隠す様な気があつたならば本当に人を導く事が出来ない。私はさう考へて居る。それで私は一般に──一生懸命に大本を信じて来てゐる人に私の古疵を発表してゐる。外にも世間の人に、外国に迄行く雑誌にも載せてゐる。中にはこんな先生なら信仰は止めて了ふ、といふ人もあるかも知れぬ。その人は偽善者である。さういふ偽善者は大本に寄つて貰はないでもいいのである。誰でも考へて見たならば、肉体があれば皆さうである。それが為に率先してやつてゐる。誰にもさういふ考へをもつて自分から曝露せねばいけない。昔は人間は神の分霊であり、所謂神様の断片であるから自分の悪い所を人の前に曝露するのは神を恥かしめる事であると云つたが、今日は──神は時宜によるのである──この頃には当て嵌つてゐない。世間で曝露戦術をやつてゐるから、こちらからもやるべきである。それは永遠ではないが、かういふ時期が来てゐるのである。
 反宗教運動がこの頃起つて来てゐるのも、お筆先をよく調べて見ると『神が表に現れるに就ては今迄の教会、取次はつらくなるぞよ、すつくり面の皮をひんむいて了ふ』と書いてある。それで反宗教運動は、今迄の黴菌の様な不徹底な、地獄極楽を拵へて命脈を保つてゐる様な宗教にはいい薬である。これは一つには神意の存する所であると思ふ。ついては大本も既成宗教の様な真似はしない様にしたい。又この宇宙の真理といふものは、一人や二人の人間から出た言葉で判るものではない。それで大本は開祖が率先してこの理を説かれたのである。
 時代に応じ時に応じて現はれるといふ事は、所謂世の中を順応指導して行く事である。外の宗教は教典教理から、何ケ条といふものを拵へて了うてそしてそれより動きも、にげる事も出来ない様になつて居るが、大本の開祖の教は、時と場合によつて必要なる教を説いて行くといふ事になつてゐる。それであるから何万年続いても、万古末代続いても、この宗教には黴が生える気づかひはない。併し現代の宗教は何千年前の教そのままである。冬の綿入れの様なものである。それを帷子を着ねばならぬ汗の出る夏の暑い時に振廻す様なものである。夏は夏の着物があり、冬には冬の着物がある。大本の教はそれである。夏が来れば夏の着物を着せる。冬が来れば冬の着物を着せる様になつてゐる教である。だから世の中がどれ程進んで来ても、決して他の宗教の様に時代に落伍する様な事はない様になつて居る。大本は時代に遅れる様な事がない様になつて居るのである。
 それから人間といふものは──この善と悪に就いてもいろいろと時と所と場合によつて違ふのである。人を殺したならば、これは屹度罪悪である。自分も死刑にならねばならぬ。然し陛下の御命令によつて軍人となつて敵を斃す場合は何百人殺さうが罪悪とはならない。罪悪どころか却つて国家の殊勲者として勲章を貰へる。つまり時と場合とによつて現界の罪悪はきまる。これは人間の拵へたものであるからである。神から言へば、天国的の善、即ち真の善といふものは愛より外にないのである。
 私は蒙古に行く前には虫を一匹踏み殺してもヒヤツとした。これは虫に対して──禽獣虫魚と雖も神の精霊の宿つてゐるものであるから、これはすまないといふ気がしてヒヤツとした。が併し蒙古へ行つて東洋の為に世界の為に、これは戦争するのであるといふ考へを起した時は、味方が斃れても鶏の卵一匹踏みつぶした様な気よりしなかつた。或は敵を斃しても大根を斃した様な気しかしなかつた。これは私としては非常な変化であつたけれども、時と所によつて現界に於てはこのやうに変つて来るのである。又今日は蒙古入り当時と違つて戦つてゐるのでないから、今日は虫一匹殺してもヒヤツとする様に還元して来た。併し又何時悪鬼羅刹の様になる時期が来ないとも知れない。さういふ時に神様の道に居つてああいふ事をしたからいけないとか、愛を説いて居つてもああいふ事をしたらいけないというてゴテゴテ云ふ人であつたならば、とても之から先は従いて来る事が出来ない。
 大本はお筆先にある通り、三千世界の改造である。只単なる死後の生活を説いたり、或は死後の生活を説いて死に対する恐怖心を慰安して、それをもつて能事終れりとするものではない。実際の宗教といふものは政治、経済、法律或は文芸一切のものを包含してゐるものである。然るに今日の宗教といふものは、じめじめとした婆、嬶の玩具みたいになつて了うてゐる。かういふ宗教は有つても無くてもいい、阿片ならまだ気分がよくて酔ふたりする事もあるけれども、阿片以上に今日の宗教は役立たぬものになつて居る。それでこの頃反宗教運動が起つて来てゐるのも、お筆先から考へて見ると、これが御神意であると思ふ。それで大本の宣伝使はそこの所をよく考へて頂いて、既成宗教家の様な考へを起さぬ様に又は商売気を出さぬ様に──商売をする時は一生懸命に商売をすればよい。幾程でも利益をとればよい。けれども神の教を宣伝する時には慈悲の権化となつて人を救はねばならぬ。そして勇猛心を振ひ起さねばならぬ。勇、親、愛、智の四つがなければいけない。
 昔権右衛門といふ人間と、一方はおとなしい人で仏の善兵衛といふ人があつた。善兵衛は人を憐れみ、人の為に一生懸命に善をして非常に貧乏して苦しんでゐる。一方の権右衛門は非常に働いて金を溜て、そして慈悲も何もなかつた。それで人が鬼権と謂うていた。これを今の人はどちらを幸福者と看なすかと云ふと、鬼権の方が幸福者の様に皆思ふてゐる。然し神様の方から云ふと名位寿富の点から見れば、一方の仏の善兵衛の方は「其人は偉い人」とか「真直ぐな人や」と云ふ様な名を、人格を貰うてゐる。鬼権の方は名と人格はさつぱり零になつてゐるかはりに富をもつてゐる。それに命といふものは善人の方が長い、さうすると神の方から高い所から観ると、鬼権の方が余程不幸者であつた。そして鬼権はなんでさうなつたかと云ふと勇気といふものがあり、智慧といふものがある。勇気と智慧を働かしてさうなつてゐるが、ただ愛と親とが欠乏して居つたのである。これも神から観れば不具人足である。一方の善兵衛は愛と親とは発達して居つたけれども、勇と智が欠乏して居るからこれも亦不具人足である。それで勇と智と愛と親とを程々に按配してやつて行けば完全な人間になれる。さうすれば名も富も位も寿も得られるのである。その為にさうならしむべく神が日々に努力して居られるのである。
(昭和六、四、二三、亀岡大祥殿に於けるお話──昭和六、五号 神の国誌
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