文献名1出口王仁三郎全集 第2巻 宗教・教育編
文献名2【教育編】第2篇 教育雑録よみ(新仮名遣い)
文献名3第3章 女学校時代の女よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考2023/10/06校正。
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データ最終更新日2023-10-06 16:07:46
ページ595
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凡て高等女学校に通ふ生徒は前途のある女子で、希望に充ちた、活気に富んだ、そして強健な思想の持主である。時代から云へば盲目滅法の時で、女子教育家として最も重大なる責任のあるは此の時代の教育指導者である。ハリ気があつて活気に富んで居るだけ、それだけ爆発し易い時である。この時代のものは千種万能下駄屋の娘もあれば資産家の娘もあり、うどん屋の娘もあれば官吏の娘もあり、傘屋、屑屋の娘もあれば学者、宗教家の娘もある。学問で飯を食ふといふ希望あるもの、嫁入支度の資格を造らふとしてゐるもの、虚栄心を充たすために在学するもの、何かなしに友人が行くから自分も行くと云つた風に入学するもの、是等の女子が混合してゐるのだから、同じクラスで卒業しても、高等官の妻になるものもあり、商家へ嫁ぐものもある。進んで学術技芸を究むるものもあれば、理想通りに進まないで失望落胆するものもある。理想に合はぬ夫は厭だと逃げ出して、淪落の淵に沈むやうな破目になるものも出来てくる。恁うした風に其根底と境遇と思想に於て、各人がそれぞれ異なつて居るので、同一の結果は得られない。其点に指導者も父兄等も当人も深い考を廻らさねば成らぬ時代である。
次に女子師範学校の生徒としての娘を見るに、御面相の美しい者は合格せないと皮肉るものがある。それが校規といふ訳でも無いだらうが、何処の女子師範学校でも思召の付くやうな娘は尠ないやうである。其上に服装の頗る地味な所、体操等の時でも見たなら男か女か殆んど判断に苦しまざるを得ない慨がある。何れだけ贔負目に見ても紅情緑姿とか、明眸皎歯と云ふやうな文句は何しても出て来ない。併し乍らそれが女子師範の生命かも知れない。彼の女は外形美を以て愛せらるる女として世に立つの念慮なく、自主的精神の持主であるかも知れぬ。其反面より是を見むか、肉体美では到底如何に奮戦しても勝てないことを自覚したものと見られる。故にその思想は比較的堅実である。教員に成るべく目標の惟神的に定まつた女である。容易に寸法を迷はない代りに、一度迷つたが最後全く手が付けられぬ女である。
次に技芸又は職業学校の生徒としての女に就て見るに、幸福なる女を造ると云ふのが技芸学校の本旨であつて、理想の女でない。空想の女でない。又理窟や口舌の女でない。所謂手の女を養成するのである。家庭の女、内職の女、多少家計を補助するといふ俗に働く女を養成するといふのである。柄合から云つたら、高等女工養成所である。此方面の女は女らしい女で、凡て柔順であり、優しい補助になる細心な女である。
次に産婆学校、看護婦学校の生徒としての女に就て見るに、是は昔時と趣を異にして来た傾向がある。往時は白晒しの看護服が着て見たい位な幼稚な好奇心から入学したものであるが、現今にては女の職業として割合に能く儲かると云ふ打算上から入学するものが多くなつたやうである。第一修業の期間が短いから、学資も余り多くを要しないと云ふ点から考へて入学するのだから、余り資産家の娘は居らぬのである。それらの通弊として、医者と接近するとか資産家の看護に車を飛ばして行くものだから、稍ともすれば虚栄心が台頭し、同時に無暗にハイカツて来る。斯る境地の女は、性的に危地に臨んでゐるのだから、余程注意せぬと性の囚となる事がある。夜三更に病室の点火影薄い心淋しい雨の夜半に、若い男の患者と何時とはなしに囁いて、意外の幸福を得る事もある。名医と逸楽を共にするといふ機会もあるとの先輩からの伝説によつて、動もすれば道を誤るものが出来る。故に此の方面さへ注意すれば女の職業としては人類愛の立場に立つのだから好ましい事である。殊に近来は女子職業問題の提唱される時、女としての働きの出来るものとして数へるに適切である。
(昭和三、九、一五、東北日記 五の巻)