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文献名1出口王仁三郎全集 第2巻 宗教・教育編
文献名2【教育編】第2篇 教育雑録よみ(新仮名遣い)
文献名3第4章 無題録よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考2023/10/07校正。
タグ データ凡例 データ最終更新日2023-10-07 13:30:01
ページ598 目次メモ
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本文    一

教育

 今日の教育家は、真の大道を究めて居らぬ。真の学理を知らぬ。人の師範たる教育家で在り乍ら、肝腎の、教育大勅語の大精神を了得せず、日々有害無益の教を説き、愚人の著はした愚説のみを教場に立つて受売する、蓄音機の如うなものである。天地の大道たる敬神尊皇愛国の本義を体得し且つ之を実行し得ざる教育家に就いて学ぶは、実に危険である。国民性を傷害し、日本魂を滅却せしむるもの、実に多大である。

 第一に天祖、国祖を祭り、次に祖先に仕へ、以て忠孝の大義を実践窮行し、報本反始の実を挙ぐるを以て、教育の大本とすべきものである。教育家にして真に我国体を理解し、四海同胞、神人一系の神機を覚らば、大高中小学、幼稚園内に至聖場を設けて、天祖国祖を奉斎し、忠孝一本の本義を、教師自ら実行し以て、被教育者に模範を示して貰ひたい。

 日本は神国であると云ふ。神国なれば神国らしい行ひを守り、世界に範を示さねばならぬ。神国天来の使命が諒解さへ出来たら、国民一般が神心に成り、至治泰平、五六七の神世が出現するから、現在の人心不安も混乱も、経済界の沈衰も、奇怪なる思想も、朝日の前の露の如く、忽ち消滅して了ふのである。今日の為政者も教育家も君国を憂ふる一片の至誠あらば、一刻も早く改心、改造に奮進せねばなるまい。

政治

 日出る国の国民の代表者為政者は、光華明彩六合に照徹する、神智と神徳を保有し、以て全世界の暗黒無道の惨状を救ふ可き天職が在る事を忘れては成らぬ。然し乍ら今日の鼻高に斯んな注文をするのは、聊か無理かも知れぬ。日本だけの修理固成さへ持て余して、窮々謂つて眼を廻はして居る如うな次第柄だから。

 天地の公道に基づき、政治の根本を確立せば、天下は至治泰平の神国を招来するを得るのである。世界の大勢に順応するは良いが、公論と衆論とを誤解して、衆愚多数政治と云ふ如うな事に成つたら、夫れこそ天下国家の滅亡を来すやも知れぬ。公平無私なる皇祖皇宗の御遺訓に由つて、政治の本領を真解さし度い。

 国務大臣は第一に国祖を鄭重に祭祀し、朝夕怠らず至誠を以て敬礼し、天祖所示の施政方針を遵守し大神の御心を心と、仁慈の徳を備へて、国民に臨むべきものである。国務大臣にして斯の信念と至誠なき時は、国民の議論百出し、終には忌はしき危険思想を醸成し、以て祖宗建国の大精神を破潰せしむるの虞なきやを憂ふ。敬神の念薄き大臣は、日本神国の為政者たるの資格は絶対に無いものである。畏くも光格天皇の御製に
 『神様の国に生れて神様の道がいやなら外国へ行け』
と仰せられて在る。外国へ行つた所で、矢張り外国も神の一視同仁に守り玉ふ国であるから、猶更ダメであらう。

 君国の為に奉仕する官吏は、比較的巨額な棒級を戴いて居つて、位階は賜はる、勲等は戴ける、軍人は亦た一つの勲功があると直ちに金鵄勲章を貰ふ。実に国家の待遇は手厚きものである。皇道大本は、真個国家の為に無棒給で以て君国の為に、身命を捧げて居る、聖なる団体であり、個人としても実に立派な敬神尊皇愛国の実行者である。然るに大本に世間から贈つて来るものは、新聞や雑誌の異記や窘章である。神諭の章句に何処か不都合の点が在るとかにて、今度は爾々大本に対し神諭火の巻の禁止窘章を天の一方から下されたが、吾々は之を神の大御心と思うて、日夜神前に感謝して居る次第である。是も神諭に前以て誌されて在るからである。
 神諭の文章は一切神界の消息のみを漏らされたもので、要するに内的の問題である。吾々は世界に顕幽両界の在る事を確信する以上は、幽界の消息が偶々現界の何処かに似た所が在るからと謂つて、現界の法規を以て罰すると云ふ事は、顕幽を混同したる不明の処置である。仏教の経典も基督教の聖書も彼が果して顕界に対する記事で在るとすれば、是も第一に禁止窘章を与へねばなるまい。アア神の事は神のみぞ知る。神霊現象と幽界の真相に迂とき現代人の頭では如何ともする事は出来ない。
 日本国の官吏や教育家たるものは、最も深く国体の淵源を究め、三種の神器の御本能を真解し、以て国民に臨まねばならぬ。三種の神器の本能は、八咫鏡、即ち言霊の威力である。曲玉は統治の本体である。剣は日本国の土地全部の表徴である。然し三種の神器の御本能は、拙著皇道大意に詳説して置いたから、爰には省略する。

 中世以降皇国の思想界は殆んど仏教の独占的天下であつた。其次に儒教や基督教が稍勢力を有つて居つた位である。日本は神国であり乍ら、世界の人類の眼よりは仏教国と云はれて来た。固有の神道は在つても、頑迷固陋なる神道家のみにして、毫も振はず、従らに神道の名のみを保存して来た位である。明治大正の御代と成つてからは、欧米の学説思想が漸次襲来すると共に、在来の仏、儒、耶の宗教の光は、日光に氷の消ゆる如く、殆んど絶滅に等しき状態で、只々殿堂や伽藍の形骸が微々として存するのみである。神道も亦た十三派を樹立すると雖ども、何れも無力無智、到底天下を指導するの器にあらず。之に反して外来思想の悪潮流は浸々として油の浸潤するが如く、我国上下の民心を動揺させつつあるのである。此の間に処して独り皇道大本のみが、丹波の山奥から凡ての艱難を甞め、教敵を和ごめ、四面楚歌に包まれながら、旭日沖天の勢を以て、躍進台頭しつつ在るは、現代宗教家又は思想家の為に、万丈の気焔を吐けるものであるとも曰へる。併しそれだけに又世間一般の嫉視と反感と圧迫と猜疑と誤解を受け易く、社会主義だの共産主義だの、過激主義だの反国家主義だのと云ふ難癖を付けようとするものが、沢山に現はれて来るのである。喬木能く風に揉るの譬の如く、何んと無く皇道大本に対して反感攻撃の声が高く広く海外までも響くやうに成つて来た。明治時代の思想界と大正現代の思想界は、非常に異つて来た。此の時に於て大本が社会に対し、皇道を宣伝せむとする立場は、益々困難の度を加へて来た。併し乍ら是は大本の非常なる大発展に伴ふ当然の成り行であつて、出る杭は打たれると等しく、止むを得ぬ次第であるが、今日の如く総ての艱難と障害の殺到する間に処して、撓まず屈せず、飽く迄進撃猛戦して行く所に、無限の愉快が伴ふ。『天将降大任於是人也、必先苦其心志。労其筋骨餓其体膚空乏其身。行払乱其所為。所以動心忍性、曾益其所不能』と孟子が謂つたのは、決して個人に対して而己の語では無い。国家の上にも、皇道大本の上にも適用すべきものである。吾々は斯の覚悟を以て、今後は層一層力の在らむ限り進撃する考である。艱難これ汝を玉にすと云ふ事がある。雨降らば降れ、風吹かば吹け、至誠一貫、以て君国に尽す以上は、何事も惟神に任すのみである。江山の好風景は必ずしも、晴天白日の時にのみ限らない。風雨の時却つて風致雅趣を添ふるものである。

 故に吾々は金輪際まで五六七神政出現の為に、宏大無極の皇道を基として、終始せねばならぬ。苟くも純正純真の神教を経とし、人道を緯とする我が皇道の教に率由して、我国は上下一致億兆一心盛んに大経綸を行ひ、皇祖皇宗の御遺訓を顕彰するに当つて、豈能く之を遮ぎる夜母津比良坂が在るであらう乎。大本は中傷に讒誣に嫉妬に誤解の毒矢を被さるる如きは、敢て介意する所では無い。

 顕界に生れて顕界の事を悟り得ざる人間の分際として、肉眼を以て見る能はざる、幽界の消息の解るべき筈がない。況んや神を無視し物質界のみに心酔累惑せる浅学者輩に於ておやだ。幽界の神示たる大本の神諭が、俗人輩に分つて堪るものでない。御神諭に『神のことは、人間の智慧学問の力では到底分るもので無いと云ふ事が判つたなれば、それが本当に判つたのであるぞよ』と示されてある。故に肝腎の大本の幹部でさへも、真相を握るに非常な苦心をする。況して圏外者の解る可き筈は無い事を一同に覚つて貰ひたい。

   二

 松の世五六七の世の政治は、先づ第一に、政治家も教育家も陸海軍人も、実業家も宗教家も、天祖国祖の神霊を敬祭し、且つ誠心誠意を以て忠実に奉仕するもの斗りで無くてはならぬのである。
 陸海軍の長官は自ら衆に先んじて、天祖国祖の神霊を祀り、部下の軍人をして神の大御心を諒解せしめ、陛下の聖旨に寸毫も違はざる様に教導せなくては、神軍の威力を発揮する事は出来ぬ。又士官学校へ入学せむとするものは、天祖国祖、天皇の大御心を、諒解せるや否やを充分に調査して、採否を決すべく、学問の有無勝劣の如きは寧ろ第二位の採用条件とすべきものである。
 敬神尊皇の大義を、国民一般に知悉せしむる為に、大中小の学校は言ふに及ばず、天下の新聞雑誌を以て国民教養の為、皇室の尊厳と神明の稜威を、心の底より感得せしめなければ、松の世五六七の世には成らぬ。

 国体の尊厳と神明の稜威と、天皇神聖不可犯の理由とを諒解し居らざる人物を以て、文武官又は教員宗教者とせざるの神律を定めねばならぬ。民を治むるものは、先づ以て身を修め家を斉ふるを以て先とす。国土を治むるは人間の天職であり、神を治むるは正しき神の責任である。神は天地惟神の大道に由つて活動さるものである。故に神界の立替立直しは神の御役であり、顕界の立替立直しは人間の役目である。今は神界と人間界とは余程隔絶して居るが、五六七の世は幽顕一致神人合体の黄金世界を現出する事である。

 外務の長官は、衆に先んじ、先づ官庁に至聖所を設け、天祖国祖を奉祀し各国民族の祖先の霊を祭り、朝夕供物を献じ、長官自ら敬礼を終りて後に国務に奉仕するのが神国の行ひである。御国の為、世界各国人の為に幸福ならむ事を赤誠籠めて祈願し、他民族の幸福を侵害せず、物質の供給は彼我相通じ、互に幸福を進め、兵力を以て外交の手段とせぬ事である。又外交に奉仕する官吏は、日本民族の正しき血液の流れたものを採用され、決して混血児や外人を妻に持つて居る如うな人物は、外交官のみならず、総ての官吏に抜擢採用されない事になる。亦通訳官は其の国に於て正しき血統を有し、一家を平和に構成せる立派な紳士淑女を以て、其の任に当らしめられる。各国へ派遣されたる外交官は、先づ第一に天祖国祖及び我家の祖先を敬祭し、且つ其の国其の土地の国魂を敬祭し、土地の霊魂に対して至誠至情を捧ぐるのみならず、其の地の人種を尊敬し、人種無差別の態度を持する真人たる事を条件として、採用されるのである。是が神世の外交策である。

 五六七の家政の行り方に就ては、大本神諭に屡々教示されてあるから、今更喋々するの必要も在るまいと思ふが、第一に我国民の結婚に要する冗費位馬鹿らしいものは無い。諺にも娘五人持てば家が倒れると云ふぐらゐで、全世界に於ける第二の贅沢な行り方は日本である。先づ其の時に要する結婚費は、全国平均して年収入の二十割乃至二十五割を冗費して居るのである。一千九百十五年英国のハウスキトビング誌に載せられたる、世界各国の結婚費の比較表を、調べて見ると明瞭である。併し今日の日本は、其の時の表よりもモツトモツト結婚費が嵩まつて居つて、年収入の五十割も費やして居る、一世一代の嫁入だから片肌脱がねば成らぬなどと、益々体主霊従振りを発揮して居るのは、実に慨歎に堪へない次第であります。左表は即ち一千九百十五年の調査であるから、其の積りで見て下さい。

 国別   年収一万円の家庭   年収二千円の家庭
 英国   八分   一割
 仏国   一割   一割
 独国   一割   一割
 米国   二割   二割
 伊国   四割   四割
 西国   五割   七割
 露国   八割   八割
 日本   二十割   廿五割
 支那   三十割   三十割

之に依つて之を見れば、我日本は支那の次になつて居るが、現今では日本が世界で第一位になつて居るのである。何故に結婚費が斯の如く膨張したかと云へば、畢竟必要以上の余計な衣類を拵へたり、身分不相応に、盛大なる披露会を催したりするから、年収の四五十割と云ふ、世界各国に図抜けた率を示して居るのである。外観外聞に要する費用を節約さへすれば、各国の結婚式は各階級とも年収の一二割でも良い事になる。況んや五六七の家庭の行り方に於ては、猶一層の簡単で、費用などは五分位より要らぬ事になるのである。又結婚費の中には、嫁入又は婿取のために、特に必要を生じた新夫新婦の礼服寝具諸道具装身具等の新調や、儀式や披露其他の事に要する経費の全体の事で、在来持ち合せの衣類、其他の日用の調整に要する費用や、父母の財産の一部を分与する持参金等は、勿論含まれて居らぬのである。その結婚費は中流以下の家庭では、一時に之を支出する事が、甚だ困難であるから、どうしても其の半額位は、本人の幼少の頃から、結婚費として積立てて居る人もあるさうである。日本の中流以上の家庭では、結婚の際には妄に沢山の衣類や荷物を拵へて、持参させる悪い習慣がある。是は一種の虚栄心から来たもので、実際余りに必要の無い沢山の衣類を新調し、空しく箪笥の底に寝かして置くと云ふ事は、甚だ無意味で、経済上からも、是位詰らない事は無い。上中下流と云はず結婚の際は差当り必要な衣類一通り丈け持たせて遣り、其の余りの金は、新夫新婦の社会に立つて活動する時の資本金とすれば、実に一挙両得と云ふべきものである。

 我大日本帝国は天祖の国を開き、皇祖天照大御神が万世一系の基礎を樹立し給ひ、皇統真に連綿として東海の表に芙蓉の神嶺と共に、永遠無窮に厳立し、治国安民の実績炳乎として日星の如く、其の皇徳は宇内に普遍照徹し、天津日嗣の隆盛なる事天壌と共に弥栄えに栄えまし、万国皆仰望せざる無き聖明の国体である。是れぞ全く我国には、天地未剖陰陽未分の際より、国祖の陰に陽に広き厚き、御守護の然らしむる処である。大本神諭には極めて明瞭に此の事実が現はれてある。是れ則ち日本皇道の威徳である。我皇道は実に湛然冲虚にして、万教を克く浄化し、万法を包容帰一し、万事を指導するの大道である。国家の綱紀之に依つて伸張し、国民の化育又之に依つて隆盛を来すのである。仰げば是列聖の威徳と成り、凝つては忠勇義烈の日本魂となり、錘つては武道の威烈となり、潜んでは人倫の根幹となり、発しては克忠克孝の大精神となる。国家之に依て隆え、世道之に依つて静安に、民風之に依つて優秀善良となる。アア皇道の大本之れ実に治国平天下の大道にして、国運興隆の基礎ならずと称するものが有るであらうか。世俗の皇道大本に対する罵声雑評は、所謂盲者象を評するの類のみ。我皇道大本は実に此の大精神を奉体して奮起せるものである。

斎法の要旨

斎に幽顕の二大法があつて幽斎顕斎と曰ふ。幽斎は神殿宮社奠幣なくして、真神を祈るの道である。顕斎は神殿あり、奠幣あり、以て象神を祭祀するの道である。然して幽斎は臨時随所に於て、天下公共の為にのみ真神を祈り、顕斎は、一定の至聖所に神を祭り、天祖列聖並に祖先に対し、報本反始の至誠を以て、慎み畏こみ仕へ奉るの道である。私は今茲に、顕幽の区別を立てずして、斎法の要旨を大本信徒の為に記しておくのである。
 斎には火と食と行と水と則との、五つの方法がある。そして火は腐と死と血と獣とに同うせず。食は羽と畜と鱗と臭とを用ひず。行は淫と産と殺と葬とに触れず。水は厳かに連斎と流沐とを行ひ、則は祓除と祝詞とを修むるものである。本来我が神国は霊宗祭元の国風である。霊宗とは心性を明にすること、斎元は、皇祚を守る事である。神は聖真善美を以て体と為し、霊徳発揮を以て、神の用と為し給ふ。故に斎くに重礼を以てし、祭るに至誠を以てし、祈るに清浄正直を以てする時は、茲に神人合一して無限の神力を顕彰し給ふのである。以上は斎法の要旨にして即ち潔斎の義である。潔斎は凡て身内身外共に清浄なるを要旨とする。尚ほ拝、物忌、祝等の義を付せるあり、其の儀式の多き数ふるに暇なき程である。大宝令には、散斎三月、致斎三日等の定が在れども、其の方制は社会の階級に依り、繁簡の差別あるも畢竟潔、浄、戒、慎の意に外ならぬのである。
 今茲に儒者の心斎説を引証する。
『顔回曰く、吾れ以て進む事なし敢て其の方を問ふ。仲尼曰く、斎せよと(中略)顔回曰く、回が家貧にして唯酒を飲まず、葷を茹はざること数月なり。此の如きは則ち斎と為す可けむやと。仲尼曰く、是祭祀の斎にして心斎に非らざるなり。回曰く敢て心斎を問ふ、仲尼曰く、若ぢ志を一にせよ、之を聴くに耳を以てすること無くして、之を聴くに心を以てし、之を聴くに心を以てする事なくして、之を聴くに気を以てせよ。聴くは耳に止まり心は符に止まる。気になるものは虚にして、物を待つものなり。唯だ道は虚に集まる、虚は心斎なり』
 荘子の人間世第四に曰く
『夫れ人の気の虚なるや、元と天の虚霊たるが故に、克く物を待ち物を容る。心斎の要は虚気にあり。心斎は神を待ち、神に接する所以なり、虚気は道の集まり、道の成る所以なり。冲虚霊明は天の本体たり。吾れ克く之を体する時は、神通無碍の妙用を得べし』

祭祀の典則

 祭は慎敬を盡すにあり、礼式は厳粛静和を旨とし、騒慢し又は軽疎なる可からず。供儀は清素新鮮を要として耀飾し又は悋惜す可からず。奏楽は正調高雅を尚び、濁雑及び卑野を慎むべし。祭具は白木土器の類素にして新なるを用ひ、火は燧石にて打ち、手は清水にて浄むべし。献燈及び御手洗の制に考ふ可し、凡そ神事を行ふには、愉悦と親和とを以てし、進退は宜しく其の節に中り、動静は恭しかる可し。扨正殿に向ふ時は儀容を整へ一揖一拝、各法則に適ひ笏を用ひ、玉串を捧げ、左足は陽天を踏み、右足は陰地を履み進むに厳かに、坐するに粛なるべし。斯て神明に玉串を献じ、祝詞を誦するに臨みては、神明正に茲に在ますの想あるを要す。事終れば則ち揖拝の礼を行ひ恭しく退く可し。
 宮中には宮中の祭式をり。大本には大本の祭式あり。神社には神社の祭式あり。一家には一家の祭式あり。個人には個人の祈祷あり。厳かに定日を守り、恭しく神事を行ふ可し。仮初にも之を廃し之を怠る可からず。是祖神の遺訓にして、大本開祖の神示なり。即ち祖先の遺風を顕彰するの道なり。

 御製
  わが国は神の末なりかみまつるむかしのてぶり怠るな夢

 神人交感の聖諦は祈祷に在り、依て以て慰安を受け、確信を得るのである。人性誰か神恩に漏るる者が在るであらうか。蓋し神の恩徳を感ずるは、神を認め拝するの初めであつて、神恩を感謝するは神の子たる人の真情である。人生誰か希望なきものあらむ、その希望を神に訴ふるは、即ち祈祷である。吾人は祭祀に依つて神に報本謝徳の意を表し、祈祷に依つて真心を神に訴へ奉るのである。是が人生自然の道である。自然は真理である。蓋し真理に拠つて吾人の真情を訴ふるに於て、大慈大悲に坐します神明の如何でか之を感納し給はぬ事があらうか。吾人は至誠至直君国の為に身命を捧げて神明の大道に奉仕し、神恩皇徳を天下に宣伝しつつあるものである。焉んぞ之をしも、迷信妄信と謂ふ事が出来るであらうか。吾人は全身全魂を捧げて君国の為に神に訴へ神に祈つつあるのである。

 御製
  目に見えぬ神の心に通ふこそ人のこころの誠なりけれ

 神は非理を悦び給はず、非礼を享け給はずと云ふ事がある。理と云つても真に徹せざるの理があり、礼と云つても真を尽さざるの礼がある。真の理は賢に非ずんば徹せず。真の礼は聖に非ずんば尽さず故に徹せざるの理は疑惑を生じ、尽さざるの礼は不敬と成るのである。神に仕ふるの道は、信を先にし誠に止まる可し。理も礼も亦自ら之に伴ふ。故に神に仕へ神に祈るの道は、誠と信との一路に在りとするのである。人の至誠たる内に潜みては神人の黙契となり、外に発しては決意の告白となる。或は祭文となり或は祷辞となる。其の公式に用ひらるるのを祝詞と云ひ誥文と云ひ誓文と云ふ。仏説に基ける護摩、加持呪文及び密印等の類も、要するに祈祷の一種であつて、一心を凝結せしめ、精神を集中せしむるの標象であるに過ぎぬ。アア実に信は神と和するの所以にして、誠は神に通ずるの所以である。神に和せされば人格は向上し難く、神に通ぜざれば聖域に達し難し。故に信仰なき礼は以て敬とするに足りない。誠実なき祈祷は道とするに足らぬのである。信仰は神と人とを幽契し合一し、亦人と人とを結合せしむるの大連鎖である。誠は精神を統一せしめ気力を結晶せしむるの大動力である。信仰は至誠と相俟つて熱を起し、至誠は信仰と相俟つて光を放つ。嗚呼一信克く泰山を鳴動せしめ、一誠克く万古を貫徹す。夫信なる哉。夫誠なる哉。寔に信と誠は敬神の第一要義である。

 御製
  鬼神もなかするものは世の中の人の心のまことなりけり

此の御製を謹み伺ひ奉るに、人の至誠の力の最も強ければ、仮令鬼神と雖も感泣すべきものなりとの、聖意を世人に示させ給ひしものであります。

 天地草創の事は皆神伝思工に出づるもので在つて、固より尋常一般の理を以て窺知すべきものではない。宇宙一切の物事は凡て神の創造に依る事を確信して疑はない所以は、吾人は神と人との別有るを知る故である。神は以て人に伝へ人を以て人に伝ふ。人心の淳朴にして風俗の敦厚なる、教無くして教あり。道無くして道有り。而して道の大本は天地の神明に出づ。天地神明の慶福を無窮に伝ふる所以のものは、必ず皇道の大本に由らざるは無いのである。体主霊従人士の曰く、万世一系天壌無窮の国体や良し。天地未剖陰陽未分の際より樹ちし国にして古きは古し、然れど、我国の上世文明の闢けたるは、悉く之を支那に資るは何ぞやと、アア斯の如き言を為すもの、天下滔々として粟の如しである。又曰く今日の文明は泰西に資る。我国は之を以て国利民福を享く、単に国の古きのみを以て世界に誇るを得むやと、実に外尊内卑の世迷言と曰ふべき而己。人生に必需なる物は、宮殿家屋より大なるは莫く、衣服より急なるは莫く、穀物より善きは莫く、刀剣より要なるは莫く、火工より便なるは莫し。而して我国は神代の遠きに於て既に悉く具備されて有つたのである。然るに太古の日本人は土穴に棲み原野に遊牧せし如く、解する連中が在るのは怪しからぬ。伊邪那岐命の御世にも八尊殿の魏々乎として天空に聳ゆる有りしを知れ。古の日本人は獣を茹ひ血を飲みしならむと曰ふ馬鹿学者がある。見よ、天照大神の御世に狭田長田の千五百秋の豊穣の事蹟がある事を。太古の日本の民、之を裸体なりしと曰ふ馬鹿ものが在るが、神代既に栲幡千々姫命が綾羅錦繍を織り玉ひし事の実跡あるを知らずして、之を蒙昧なりと言ふ乎。刀剣戌矛を鍛へて、以て護国の具に供したる我古代之を称して無智と曰ふ乎。天之岩戸の大変事に際して、天香具山の鋼鉄を採掘して鏡を製造するなど、総て火工の発明は今日の文明に何等変る事は無いのである。太古より祭祀の礼を行ひ、以て報本反始の道明かに行はれ、改過遷善の行事として大祓の儀式有り。且つ衣食大いに足り、兵器完備し、天地人の大道明かなり。是に於て乎皇化を海外に布き玉ひ、素戔嗚命は朝鮮に、少名彦命は常夜国(南米)に適き給ひて教化の跡を垂れ、内には万世一系の天嗣を立て、天下経綸の大業を制し、国造、県主、稲置、直、別等の職掌あり。棊命星羅して、以て其の根基を固め、而して宝祚動揺するの憂無からしめ玉うた。是れ祖宗の内を治め外を馭し以て国を建て玉ひしの大体である。我国は斯の如くにして万事整頓し、数万歳の太古に於て、既に既に一大文明の隆盛を極めて居るのである。何んぞ外国の文明を借りて、以て国家に資するの要あらむやである。支那には皇天上帝有り、印度には梵天帝釈天有り、西洋にはエホバの説有りと雖も、何れも皆我古典に其の大本を発せざるは無いのである。

 支那の国を聞くや素戔嗚尊と少名彦命の際に在るが、是の故に天を畏れ命を知るを以て教を樹つ。其の説や頗る古典に近いものがある。併し現代の支那は天を畏れ命を知るもの、上下押並べて絶無なる状態である。印度の開けたる。是に次ぐに欧米の諸国の開けたるは、実に輓近の事である。世愈々近くして、教愈雑多に、以て人心を惑乱せしむるに立至つたのである。彼等の所謂皇天も上帝も梵天も帝釈も、エホバも皆日本神州固有の祖神たるを知らずして、天下の愚者囂々として、反りて彼等の教法を借り、以て愛国愛人の道を説かむと欲す、其の謬れるや実に甚だしと曰ふべきである。支那印度欧米の教法なるものは、其の君を忘れ、父母を忘れ、国を忘れ、身を忘れ、祖宗の遺訓を忘れて居るのである。斯の如き教法を以て果して愛国愛人の道を竭し得るであらう乎。豊太閤の韓を征するに当り謂つて曰く「夫れ日本は神国なり、神は則ち天帝にして、天帝は則ち神なり、秀吉夙夜世を憂へ聖明を神代に復し、威名を万世に伝へむと欲する也」と。而して其の明虜を撻伐するに方りては、志四百余州をして悉く神州の良俗美風に化せしめ、以て神政を億万年に輝かさむとするにあつたのである。太閤夙に帝系を以て上帝に出づると為し、而して帝系の上帝より出づるは、神典の遺訓則ち皇道の大本に依るとなし、太閤の古典を信ずる事斯の如く篤く、帝系の盛大を鳴らして以て国威を殊方絶域に張らむと為たのである。今日の学者輩は私智自ら喜び、異邦の教法邪説を以て国家を安んぜむと欲し、却つて神州国体の精華を忘れ、国家の大計を謬つて居るのである。其の見る所の高下大小は太閤に比して実に霄壤の差があるではないか。
 アア神のみ神を知り、聖のみ聖を知る。神智神勇の権化豊太閤の如き英傑の士に非ざれば、神聖の大道を窺知する事が出来ぬのである乎。吾々は天下の愚人が皇道大本に対する態度に省み、一層この感を深うする次第である。
(大正九、一一、一八稿、同二月号 神霊界)

   三

 天祖天照大神は、上、体を天津日に同じくし、下、霊を八咫の宝鏡に留め玉ふ。天空に赫々たる太陽、巍々乎たる伊勢太廟は、実に天祖の精霊の鎮座し玉ふ所にして、歴代の天皇之を尊敬し、之を奉祭し給ひ、而して天を敬し祖に事ふるの大義兼備せり。異邦の主が皇天、上帝、ヱホバを蒼々漢々の中に求めて、敬事するの比に非ず。嗚呼聖子神孫克く其の明徳を紹述し、臣民其の鴻恩を奉体する神州の臣民は、歴聖の大御心に神習ひ奉りて、克く敬に克く忠に克く孝にして、祖先の遺風を顕彰し、以て世界の全体をして、無窮の徳化に浴せしめ、神皇の徳輝を欣慕し、其の余光を仰がしめ、以て至治太平の神政を招来せむとするは、吾人大本人の年来の確固不抜の信条である。
 皇典古事記は『斯乃邦家之経緯王化鴻基』と、天武天皇に詔り給ふ所にして、大は以て天津日嗣天皇の、天の下を安国と平けく知しめすべき大道であり、小は以て臣民の修身斎家の御遺訓であり、且つ千古不磨の活経典である。而して此の神典は先聖の口授に出で帝室之を伝へ玉ひ、諸家の之を記し奉る所である。天武天皇の御宇に到つて、丹波国桑田郡稗田の阿礼を召して、之を口誦せしめ給ふた。元明天皇其の御意志を継ぎ、太朝臣安万侶に勅して之を撰録せしめ以て永世無窮に伝へ給ふた。是れ全く天武元明二帝の深く、先聖の懿旨を、体現し給ふ神業にして、其の天下後世を恵ませ給ふこと、之より偉大なるは無いのである。現代の学者輩は、古事記の書名さへ知らざるもの多く、古事記とは食を街路に乞ふ非人の事かと、思惟せるものさへあるのである。偶々古事記を論ずるものあれば之を王侯大臣に責めずして、而して之を巫祝の徒に責む。其の無智無識なること論ずるに足らず。
 而して所謂学者の神典を読むもの、徒に巫祝の学にのみ従事するは、適々以て神典を汚濁するに足るのみである。喩へば此に人あり利刀の用法を武人に求めずして、而して婢僕に授くるに正宗村正を以てせば、実に却て危険を加ふるのみである。現代古事記を曲解し汚濁するものは、恰も婢僕に利刀を与ふる如きもので在る。古往今来古学の名を失ふこと久しきに到る。凡て名正しからざれば、国勢振はず、而て習俗の人を移すこと、有識の士と雖も免るべからざる者あり。何を以て乎名正しからざる乎。曰く先皇の道を学ぶ者をば、之を神道と謂ひ、和学と謂ひ、漢学に至つては即ち単に学と称し、道と呼ぶは、是主を以て客と為し、末を以て本と為し、自ら其転倒せるを覚らざるものである。
 中古の世、大学に首として孔子を祀り、周易、周書、周礼、儀礼、礼記、毛詩、春秋在氏伝、孝経、論語等の書を以て、教科書に列し以て唐虞三代の人を鎔化せむと欲す。後君子風を投げ、流を汲む者唐虞三代の人を以て自ら居り、現時亦た西洋学に心酔累惑せし学者は、マルクスを講じ、タゴールを引き、プラトン、ソクラテス、ニーチエ、アリストートル、カント、デカント、レーニン、クロポトキン、トロツキー、等の主義学説を振り回し、社会主義、共産主義、自然主義、平等論など、草の片葉も言問ふ常暗無明の学者政治家が横行するに立至つたのである。天地の神明は、仁慈の大御心を以て、言さやぐ現代を救ひ、治国平天下の神政を布き、万民を安息せしめむとして、地の高天原に国祖の神霊神懸して普く世人に伝へ玉はむとして、出口開祖を出し皇道の大本を説かせ玉ふの止むを得ざる時機と成つたのである。故に吾々大本人は、大神の大御心を奉体して、以て神典を説き、神諭を天下に宣伝せむとするや、物質文明のみに心酔累惑せる智者学者の群衆して、之を嘲笑熱罵し、彼等は時代遅れの神典を学ぶと云ひ、時代に不適当なる和学を妄修すと貶す。皇道は実に天地神明の大道にして、万学の根基、学中の学王なる事を弁へず、却て目する異端邪説を以てし、口を極めて排斥する鴃舌者流のみである。彼等の心は既に夷狄にして、祖宗父母の国に背き、本を忘れ末に走り主客の位置を謬れる者である。皇道は神聖規模の偉大にして、無限なる、到底人智の測度すべきにあらず。故に後世欣慕讃仰の余り、之を惟神の大道と謂すのである。
 天神勅して諾冊二神に天沼矛を賜ひたるは、漂へる国を修理固成せしめむが為であつた。伊邪那岐大神、命を天に承け給ふは、将に以て天命を畏るるの源を見むとする為であつた。素盞嗚尊の航海を創め玉ひしは、将に以て九夷八蛮を統一せむが為であつた。天照大御神の皇孫を地上に降し給ふは、将に以て宇内の主権者を定めむが為であつた。武雷男神経津主神の残賊を撻伐するは、将に以て神国尚武の典を伝へむが為であつた。大国主神の国土部下を挙げて、皇孫に譲られしは、将に以て臣民が上に奉ずる忠良の典を表明せむが為であつた。中臣忌部二神の祖たる天児屋命太玉命の祭祀を司どり、以て政事を執るは、将に以て治と教とを合一せむが為であつた。大名持命が、外国を経営し、且つ医薬禁厭の道を始むるは将に以て億兆の夭折を救ふが為であつた。又以て蠢爾の民を教化せむが為である。保食神の蚕穀の種を化生せしは、将に以て万民衣食の源を開かむが為であつた。五十猛神の八十の木種を蒔きしは将に以て生を養ひ、死を喪するの材を賜はむが為であつた。大宮能売神の君臣の間を調和し給ふは、将に以て道徳を万世に伝へ導かむが為であつた。大己貴神の幽府を治むるは将に以て人魂をして、憑帰する所あらしめむが為である。其の他大歳神の年穀を利し、天目一神の鉄工を創め、手置帆負神、彦狭知神の工匠を始むる、井神の井戸を掘る、竈神の竈を造りたる等皆天下蒼生の為にするに非ざるは無かつたのである。是でも夷狄の心酔者は、日本皇道の教を以て無用の長物視するとは、実に言語同断である。
 生成化々止まざる惟神の大道は、天御中主の神に始まり、八百万神に終り、無声無臭に至りて而て之を止む。蕩々乎として、誰か能く之を名づけ奉るを得んや。上位に立つの君子の将に取つて法となすべき所たり。アア神典古事記の妙諦たる此の如きのみか。然らず、古言の道義を包含し、言霊の宇宙を支配する其の霊力や到底漢字の深き意味を包蔵するの比にあらず。故に軽々しく看過すべきものでは無い。古来皇位を以て天津日嗣と曰ひ、天皇と称へ統尊と曰へまつるは、是れ天津日の神の胤裔に坐し坐して、然して後に宇内統御の至尊に坐すべきの謂である。亦た国造を称して国の御奴と曰ふ。奴とは、家の子の意義である。蓋し天津日嗣天皇は、四海を以て家と為し給ふが故に、其の諸侯を封建するは、猶家に奴僕あるが如く、其の君臣の大義名分明かにして、貴賤相距る事霄壌の分ある、実に天意の然らしむる所である。古言に父母より以上始祖に至るまで、皆之を一言に『おや』と謂ひ、子より以下裔孫を通じて、皆之を『こ』と謂ふ、然らば即ち『おや』と謂ひ『こ』と謂ふは、只単に父子間のみの称にあらずして其の血族の親の永遠易らざるを知るのである。アア君臣の大義や父子の親しみや、古道既に已に斯くの如くにして、不易である。是の類を推して、以て道を求むる時は、即ち千言万語、之を左右に取りて、而して其の原に逢ふ。又何を苦んで乎漢書洋典を仮りて、以て尊内卑外の典と為し、修身斎家の具に供せむ。神典古事記の本能たる、大は以て天下を泰平に治め、小は以て一身一家を治平ならしむ可し。現代の西洋心酔者の言に曰く、皇道大本の説く所は、或は道理に合致せる点も在らむ。神典の尊くして、神聖不可犯なるべきも或は真ならむ。然れど日進月歩文運発達の今日の時勢に遠離せるを如何せむ。是れ皇道大本の所説の、現代の社会の宣伝に容れられず、遂に自ら破滅に陥らむ事を惜むなりと。吾人は既に已に一大覚悟を以て、皇道大本の宣伝に従事す。俗悪社会に容れられざるは、元よりの決心である。国家を憂ふるの志士は、溝壑に在るを忘れず、勇士は其の首を喪ふを憂へず、義に志す者は利を忘れ、利に志す者は義を忘るるは、自然の勢である。苟も我皇道大本をして、一団体又は一身上の利を謀らしめば、即ち散髪窄袖以て礫神の室に出入するも可とす。何んぞ必ずしも、斎の門に瑟を執るの愚を学ばむやである。然るに皇道大本の宣伝をして、天下に行はざらしめむか、吾九千万の同胞は更なり、世界二十億の子孫の滅亡を如何せむや。アア神典古事記と皇道大本の宣伝は、実に世界人類の羅針盤ならずとせむや。道光明ならずして天地晦冥するは、直に須らく為に世界二十億の人類を弔すべきなり。恰も天の日月を以て無用の長物と為すに等しいでは無いか。日月は皇道大本、又は吾人の家の日月に非ず、吾人は唯だ其の光明を指示せむとするのみである。世の神典を蔑視し、皇道大本の宣伝を嘲笑するの輩宜しく渡辺重石丸翁の固本策でも読んで見るが宜い。
 至誠神明に奉仕し、奉仕の神社祭神の御本能、御威徳を発揚し、国民道徳に貢献すべき大切なる自己の職責を忘却して、俗臭紛々たる政界の中間に飛込まむとする神職さんがあるかと思へば、一方には頑迷固陋にして時代に適せない神職もある。教導職と云ふ偽神道家も亦選挙運動に没頭するを以て賢明なる時代達観者の様に誤解して、普選運動なぞに、狂奔して居るものがあるとか聞く。神職教導職輩の普選運動も、時代の要求とすれば是非がなからうが、彼等は自己の職責を知らざるのみならず、その事務に対して無知無能である。先づ自己の職責の如何に重大なるかを自覚せば、下らぬ普選問題や、選挙権被選挙権の獲得運動なぞの謬れる事が心から判つて来るであらう。俗世間の俗物と伍して狂奔する事の如何に不合理にして不快なるかを知るであろう。それに亦驚くのは、仏教五十八派七万の僧侶が、被選挙権付与を結束請願せむとする仏教連合会の決議である。
 京都仏教連合会にては十二月八日京都六角会館にて第六回各派代表者協議会を開き、建仁寺執事長瑞嶽惟淘師座長席に着き、仏教五十八派の代表者六十名参列し、宗教法案に付き協議を遂ぐる所あり、同時に当面の問題たる現境内還付の請願、僧侶に被選挙権付与の請願を決議せるが、第一の請願は曾て第廿七議会以来衆議院を通過せるも貴族院にて握り潰しとなり居るもの、又第二の請願は仏教五十八派七万の僧侶結束して目的の貫徹に努むる為、来議会に請願せむとするものにして、各派管長より五十八通の請願書を原首相に提出し、僧侶より二万通の請願書を貴衆両院議長に提出の筈にて、実行委員は東京に本陣を構へ以て大々的に俗悪運動に着手するとの事である。
 近時動もすれば人心が動揺を来し、就中青年間には危険思想が瀰漫せる傾向があるのに鑑みて、鉄道省と内務省の高級吏員中には此の思想の統一を図る為に、伊勢神宮、伏見桃山両御陵、湊川神社、琴平神社等を初め全国の主なる、官幣社、国幣社、別格官幣社等へ参拝を奨励し精神上の諸問題を講究して此の危険な思想問題の瀰漫を解決せうとの企てが出来た。そしてその具体的方法としては
一、諸学校の年中行事の一たる修学旅行には伊勢大神宮、伏見桃山両御陵、湊川神社、讃岐琴平神社、等の参詣を奨励すること。
二、伏見、桃山両御陵、琴平神社等の参拝を一般国民に周知せしむること。
三、伊勢、宇治、山田、京都、神戸、琴平等の旅館、自動車、人力車等の営業者に対し、厳重なる取締を設くる事。
等が主なる方法であるが、此計画は、理屈上頗る結構ではあるが、一面には現今の青年はそんな参拝等より受くる感化以上に巧妙なる思想の悪化誘惑に懸り易いと、此の挙を一笑に付して居る者もあるが、兎に角斯る催しは結構なことと推賞せねばならぬ。
(大正一〇、一号 神霊界)

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