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文献名1出口王仁三郎全集 第8巻 わが半生の記
文献名2【上巻】故郷の弐拾八年よみ(新仮名遣い)
文献名302 父の誕生地よみ(新仮名遣い)
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概要
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タグ データ凡例 データ最終更新日2023-10-01 18:22:33
ページ2 目次メモ
OBC B121808c05
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本文  父は丹波国船井郡川辺村字船岡の佐野五郎右衛門の八男と生れたのである。男兄弟が九人で、女の姉妹が四人、都合十三人の同胞があつた。系図を見ると、宇多天皇の後裔といふ事である。代々紺屋を営み、相当の資産もあつたが、元来好々爺であつた為、人の為に非常な損害を受け、家産は次第に衰へた。併し村内では中流階級の部に属してゐたのである。外の兄弟は、各自相当の家に養子に往つたり、嫁しづいて居るが、父に限つて、他家へ丁稚奉公に幼少からやられて了うた。その理由は、余り癇癪が強くて、腹が立つと親でも擲りつけるといふ乱暴であつたので、懲めのために、父母が相談の上、八木町の醤油屋に丁稚に出したのである。八木の醤油角といふ主人からは、正直もの、律義ものとして、大変に寵愛されて居た。十年の年期を首尾よく勤めて、二十三歳の年に初めて穴太の富豪たりし斎藤庄兵衛氏の雇人となつて住み込み、親方児方の関係が出来た。二十六歳の春、明治三年に斎藤氏の媒酌で上田家の養子となり、吉松の襲名をしたのである。父の元の名は佐野梅吉というた。梅吉が吉松を襲名したのも面白い。神諭に『梅で開いて松で治める』とあるが、王仁の父が丁度この御神諭の通りになつて居る。茲に序をもつて一つ書き加へたい事がある。それは彼の有名なる仏画の巨匠田村月樵翁は、佐野家に生れたのである。王仁とは従兄弟の間柄である。翁は十三歳にして達磨を描いたが、其の妙筆は神に迫つて居る。今も佐野家に保存されてある。
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