文献名1出口王仁三郎全集 第8巻 わが半生の記
文献名2【上巻】故郷の弐拾八年よみ(新仮名遣い)
文献名304 穴太の名義よみ(新仮名遣い)
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データ最終更新日2024-02-08 12:17:16
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王仁の郷里なる現今の穴太に就て、その名義の起原を記して置かう。大昔は丹波国曽我部の郷といつたのが後に穴穂となり、穴生となり、穴尾となり、次に現今の穴太と改められたのである。宮成長者の創立した、西国廿一番の札所は即ち穴太に遺つて居つて、今猶ほ信仰者は京阪を初め全国に在る。三荘大夫に虐使された槌世丸、安寿姫の守本尊たる一寸八分の黄金仏像は当寺に祭られ、本尊は三尺三寸の丈で雲慶の作である。菩提山穴太寺は即ちこの名刹で、院主の姓を代々穴穂と名告つて居る。
今は故人となつた斎藤作兵衛翁の談によりて、穴太の名義は明瞭に分明した。翁は代々里庄の家に生れ、翁も亦里庄として村治に尽した徳望家である。
翁の談によると、上田家の遠祖は、天照大御神天の岩戸に隠れ給ひし時、岩戸の前に善言美辞の太祝詞を奏上し、大神の御心を和め奉りし天児屋根命である。降つて大織冠鎌足公の末裔である。有為転変の世の常として、浮世の荒風に吹き捲られ、文明年間、大和国より一家を率ゐて、大神に因縁深き丹波国曽我部の郷へ落ちて来たのである。
上田家は藤原と姓を唱へて居つたが、今より八代前の祖先、藤原政右衛門の代になつて上田と改姓したのである。
雄略天皇の勅命によつて、豊受姫大神を丹波国丹波郡丹波村比沼真奈井より神風の伊勢国山田の村に移し祭り賜ふ神幸の途次、曽我部郷の宮垣内の聖場を択んで神輿御駐輦あらせられたのである。祖先が天児屋根命といふ縁故を以て、特に其の邸内に御旅所を定められた。一族郎党は恐懼して鄭重なる祭典を挙行し奉る際、神霊へ供進の荒稲の種子が、太く老いたる槻の樹の腐り穴へ散り落ちた。それが不思議にも、其の腐り穴から稲の苗が発生し、日夜に生育して、終に穂を出し、美はしき瑞穂を結んだ。里庄以て神の大御心と仰ぎ奉り、一大祈願を為し、神の許しを得て、所在の良田に蒔きつけ、千本といふ名を付して、四方に植ゑ拡め、是より終に穴穂の里と謂うたのである。
当時の祖先は家門の光栄として、此の祥瑞を末世に伝へむが為に、私財を投げ出して、朱欄青瓦の荘厳なる社殿を造営し、皇祖天照大御神、豊受姫大神を奉祀し、神明社と奉称し親しく奉仕したのである。その聖跡は現在上田家の屋敷なる宮垣内である。宮垣内の名称は、神明社建造の時より起つたのである。同社は文禄年間、川原条に移遷され、今猶ほ老樹鬱蒼として昔の面影を止め給ふのである。
王仁が今日治教皇道大本の教主輔として、神君の為に一身を捧ぐるに臻つたのも、全く祖先が尊祖敬神の余徳に因ることと深く深く感謝する次第である。