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文献名1皇道大本の信仰
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3二 私の入道と開祖との会見よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日2026-05-06 14:36:37
ページ6 目次メモ
OBC B122200c03
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本文  私が突然神界より神務に使役されるやうになつてから、親戚知己朋友その他の人々より、あらゆる悪罵嘲笑や妨害などを受けながら今日まで隠忍して来た種々雑多の経緯を述ぶれば、とても一万枚や二万枚の原稿で書きつくせるものではありません。それ故ここには私の入道の経路の大略を述べるに止めておかうと思ひます。
 私は幼名を上田喜三郎といひ、明治四年旧七月十二日を以て、丹波国南桑田郡曽我部村大字穴太の農夫、上田吉松の長男として生れました。当時上田家は家計大に衰へ、そのために私は小学校の課程すら全部を修めることが出来ず、父と共に野山に出でて薪を刈り、肥を施し、殊に十五歳の時よりは丁稚奉公をなし、又家にをつた時は荷車夫ともなり僅かの賃金を得て家計を助けてゐました。
 二十三歳の時、私は獣医学の研究を志し、園部の或る獣医の書生となつたが、書生といふのは名ばかりで、その所有に係る牧畜場に行き、牛乳を搾つて、これを各所に配達し、なほ食糧を給し、掃除をなし、夜半にならねば休息の時間もない、純然たる労働者生活でありました。越えて約二年、明治二十八年二月、二十五歳の時、郷里穴太に帰り、奔走して資金を集め、同二十九年一月精乳館と称する牛乳搾取場を設置し、営業を始め、搾乳、配達まで殆ど之を一手に引受けて懸命に尽力しましたが、翌三十年七月には父を失ひ、一家の生計は益々自分一人の負担に帰し、心身の多忙は日毎に加はつて行きました。
 しかし、私は貧しい家庭に生れたお陰で人生の温い方面と冷い方面とをいろいろ知ることが出来ました。私は十三歳の頃より朧げながら国家万民救済の志を抱き、瞑想に耽り勝ちになりました。丁稚奉公時代には主人や朋輩の寝鎮るのを待ち受けて、毎夜産土神社に参詣し、神教を乞うたことが一百日に及んだことがあります。又労働の余暇には私は風雅の道に心を寄せて楽しんだこともありました。獣医の書生時代には寸暇を盗んで国学者岡田惟平翁に就て、国学の研究を始めたこともあります。精乳館経営時代には、宗教や哲学の諸書を渉猟耽読しました。
 私は当時青年が誰しも一度は通過する思想動揺期にあつたのでせう。社会の矛盾不合理を見たり聞いたりするにつけ、私は人生そのものに対して根本的の疑惑を懐くやうになりました。私がさうなつた一つの有力な動機は私の父の死でありました。私は幼さい時から、信仰心をもち敬神を怠らなかつたのですが、父がブラブラ病になつていろいろな手段を講じたけれども、思はしくなかつたために、信仰によつて病気を癒したいと願ひました。そこで近所の教会などを訪ねて、その実状を見てゐる中に、あまりの迷信ぶりに愛想がつきて了ひました。一方父は死去しました。私は非常に失望落胆しました。その時以来、私は全く無神論者になつて、神さまとか信仰とかいふことは見るのも聞くのもイヤになつて了ひました。
 富者を見ても、貧者を見ても、私には常に疑問がありました。一体、土地といひ、資本といひ、一切の生産機関なるものは、人類全体を安心に生活させるために、天帝から与へられたものではあるまいかと考へました。それを地主や資本家なるものが、自由に壟断したり占有したしりてゐるのであるが、何の理由があり、何の徳があり、何の権利があつて、さうしてゐるのであらうか。一方には一挙手、一投足の労もなくして、飽食暖衣、放逸歓楽を恣にしてゐる少数の者がをり、他方には、多数の人類が常に飢ゑに苦しみ寒さに慄へてゐるのに満足すべきであらうか。──こんなことも考へました。
 宗教は慈悲博愛を鼓吹するとも、未だ現世を救ふに至らず、ただ死後の楽園を想像せしめて、我々の心中にわづかに慰めを与ふるに過ぎない。教育は、多大の知識を与へるけれども、半日の衣食をも産出するものではない。又道徳の最低限度を標準としてつくられた法律は、能く人の行為を責罰するとも、人類をして天国の人とならしめるの要具ではない。海陸の軍備は充実するとも、国防の上には役立つが、多数の苦しんでゐる人類を安全に生活せしめる利器ではない。どうしたら、この矛盾せる社会を一掃して天国化することが出来るであらうか。世界の現状を見れば、人類の苦痛と飢凍とは日一日と迫つて来る。これが真理、正義、人道なのであらうか。──かうした疑問が絶えず私の胸中に去来してゐたのでした。
 しかし、この疑問に対して私に根本的な解決を与へてくれるものは何物もありませんでした。
 かくして明治三十一年旧二月九日、二十八歳の時、私は郷里高熊山に於て、いよいよ破天荒の霊的修行を遂行することになりました。
 これより先き、私は里人のために一片の侠気に駆られて、付近の無頼漢を向ふに回して衝突したことがありましたが、二月八日の夜、一味の暴漢に襲撃せられ、全身に打撲傷を受け翌日は仕事を休んで床に呻吟してゐました。その時、祖母と母とに、涙をもつて日頃の軽挙を戒められ、懺悔の剣に刺し貫かれて五臓六腑を抉られるやうな苦しさを感じました。そして悔悟の念は一時に起り来り、つひには感覚までも失ひ、ボンヤリとして我と我が身が分らないやうな気分になつて来ました。
 この時、一人の洋服を着た男がやつて来て、自分は神の使であるから、疑はずに自分について来るがよいといふので、私は一通の遺書を残して家を出たまでの意識は明瞭でありましたが、その後のことは一切朦朧として分らず、やうやく正気に帰つた時は、郷里の高熊山の岩窟に静座してゐたのでありました。この修行中に私の霊魂は霊界に逍遥し、天国地獄の状況、宇宙の真相、皇道の大義、世界の大勢、日本の使命、自己の天職等手に取る如く教へられ、六大神通力の大要を心得して、十五日帰宅しました。高熊山修行中に於ける体験に就ては、私の『霊界物語』の中に詳述してあるから、ここには述べませぬ。
 この高熊山に於ける修行が私の生涯の一大転換機でありました。私は修行中に神界より受けた教訓を脳裡に深く刻みつけられ、万難を排して自分の信ずる道に勇往邁進しようと決心しました。その教訓は大略左の通りであります。
『澆季末法に傾いた邪神の荒ぶ今の時に当つて、お前は至粋至純なる惟神の大道を研究し、身魂を清め、立派な宣伝使となつて、世界に向ひ神道の喇叭を吹き立て、世界を覚醒せなくてはならぬぞよ。今に於て惟神の大道を宣伝し、世界の眼を醒ますものが無ければ、今日の社会を維持することは出来ない。惹いては世界の破滅を招来することは鏡にかけて見るやうだ。お前はこれから神の僕となつて暗黒世界の光となり、冷酷な社会の温味となり、腐り切つた身魂を救ひ清める塩となり、身魂の病を癒す薬ともなり、四魂を研ぎ五情を鍛へ、まことの大和魂となつて、天地の花と謳はれ果実と喜ばれ、世の為め道の為めに尽してくれねばならぬ。真の勇、真の親、真の愛、真の智を輝かし、この大任を完成せんとするのは、なかなか容易な事業ではない。今後十年の間は其方は研究の時期である。其間に起るところの艱難辛苦は非常なものだ。これを忍耐しなくては汝の使命を果すことは出来ないぞ。屡々神の試みにも遭ひ、邪神の群に包囲され苦むこともあるであらう。前途にあたつて深い谷もあり、剣の山や血の池地獄や、蛇の室、蜂の室、暴風怒涛に苦み、一命の危いことも屡々あるであらう。手足の爪まで抜かれて、神退ひに退はれることも覚悟して居らねばならぬ。さりながら少しも恐るるには及ばぬ。神様を力に誠を杖に猛進せよ。如何なる災害に遭ふとも、決して退却してはならぬ。何事も皆神の御経綸だと思へ。一時の失敗や艱難に出会うた為めに、神の道に遠ざかり心を変じてはならぬ。至仁至愛の神の心を、生命の続く限り遵奉し、且つ世界へ拡充せよ。神々は汝の身を照らし、汝の身辺に附き添うてこの使命を果すべく守り給ふであらう。特に十年間は最も必要な修業時代だ』
 私はこれより牧畜その他一切の俗務を他人に譲つてしまひ、専ら幽斎の指導と神教の伝達に全力を尽すこととなりました。ところが或る人が私に向つて、『世の中を救はうと思ふならば、先づ実地に病人を助けて行く方がよい、初めから高遠な理想を説いたところで、かういふ田舎では理解する力が無いだらう』といつて二年来歯痛に悩んでゐる一人の婦人を連れて来ました。私は心身を清めて祈願したところ、その歯痛は僅に五分間で拭ふやうに平癒しました。これが私の病気を癒した発端であります。爾来私の評判は忽ち近所界隈に広まり、病気を治した実例は数限りなく一々明白に記憶しない位であります。
 その中に、私は駿河の稲荷講社の総長長沢雄楯翁の霊力非凡なことを聞いて、一度会つて見たいやうな気になり、三月八日初めて長途の汽車旅行をなし、翌日長沢翁に会見しました。この時、翁が私を鎮魂し審神をしましたが、その審神によると、私の神がかりは小松林命の神がかりであることを実証されました。そして私はいろいろ教を受け、翁及び母堂から神書秘伝、鎮魂の玉、天然笛等を付与され、鎮魂帰神の二科高等得業の免状を貰つて帰つて来ました。
 その後六月になつて、私が産土神社へ参拝した時、『一日も早く西北の方を指して行け、神界の仕組がしてある』との神示に接したので、八木の寅天堰といふ所まで来ますと、そこに一軒の茶店がありました。私はその茶店に腰をかけて休むと、茶店のお内儀さんが私に向つて、
『あなたは何をなさる方でありますか』
 と尋ねましたので、
『私は諸国の神様を調べて歩くものだ』
 と答へました。さうすると、そのお内儀さんの言ふのには、
『私の母は今綾部に居りますが、元は金光様を信心してゐましたが、俄に艮の金神さんがお懸りなさつて沢山の人がお神徳を頂き、金光教会の先生が世話をして居られます。母に憑つた神様の仰有るには、私の身上を判けて呉れる者は東から出て来る。其お方さへ見えたならば、出口直の身上は判つてくるといふことでしたので、私等夫婦はワザとこの道端に茶店を開いて往来の人さんに休んで貰ひ母の言つたお方を探して居りました。大方貴方のことかと思はれてなりません。何卒一度母の身上を調べてやつて下さらぬか、これが母の神様がお書きになつたお筆先でございます』
 といつて出したのが、一枚書きの筆先でありました。
 私はそれを見ると、高熊山の修行中に見聞したことの或部分に符合せるのに驚いて、近々綾部に行くことを約して別れました。この婦人は皇道大本開祖出口直子刀自の三女福島久子だつたのであります。
 私がはじめて綾部町裏町なる出口直子刀自の居宅を訪問したのは、明治三十一年旧八月二十三日のことでありました。私は二三日滞在してゐましたが、未だ時機到らずと感じて開祖に暇を告げ、綾部を去りました。それから一年を経た翌三十二年旧五月、開祖よりの迎への使者に接して、私は再び綾部へ来ることになり、同年旧十二月(明治三十三年一月一日)開祖の末子澄子と結婚して出口王仁三郎と改名し、神縁血縁ともに開祖とは密接不離の関係が生ずることになつたのであります。
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