文献名1惟神の道
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3神聖運動についてよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考『人類愛善新聞』昭和9年(1934年)10月中旬号から12月中旬号にかけて「昭和神聖会南桑支部発会式に於ける出口王仁三郎氏の講演大要」という題で7回連載された(同年9月13日に南桑支部発会式が行われた)。/『神聖』昭和9年11月号所収「肇国皇道の大精神」とほぼ同じ(『大本史料集成2』に収録)
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目次メモ
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本文
今日は「非常時日本」と総ての者が言つて居るが、しかし何が非常時かと問へば、それを明瞭に答へ得る人は極めて少数である。表面から見るとダンスホールやカフエーや、また男か女か性の解らないやうな女学生が沢山に殖えたくらゐなものである。よく考へて見ると日本の非常時はそんなところにあるのではない。今やウラルの嵐はいつ日本の本土に向つて吹き付けて来るか知れないまでの危局に直面し、また一方太平洋の荒浪はこの大和島根を呑まむとして居る非常時なのである。もしわれわれ国民が今日のままで非常時打開の方法を講じなかつたならば、或ひは外国のやうに窮乏、没落の難局に立つかも知れないのである。
しかしながら我が国は肇国以来天津日嗣天皇を主と仰ぎ師と仰ぎ親と仰ぎ、さうして大家族精神を以て今日まで栄えて来た国であつて、諸外国の如くいろいろの新政体ではないのである。それが為に一致団結が速いのである。一致団結の力があれば如何なる難関が来ようとも凶を転じて吉となし、禍を転じて福とすることが出来るのである。
故に我が国の「非常時」の声は皇運発展の大宣言でもあり、道義的世界統一の提唱でもある。しかしてまたこの秋この際、日本の窮状を挽回すべき大聖雄の出現を待望する叫びでもあり、天皇陛下の御稜威によつて全人類を愛善の大道に導くところの題目でもあると私は思ふのである。
これに反し外国で謂つてゐるところの非常時なるものは困窮、没落、暗黒の極、手も足も出すことが出来なくなつたところの叫びである。時あたかも伊太利にムツソリーニが現はれ、独逸にはヒツトラーが現はれ、大勢挽回に勉めて居るが、前にも述ベた通り我が国もこのままで行つたならばどうなるか知れないといふやうな気運の中にある。そこで私は本年(昭和九年)一月以来東京に上り政治家、その他各要路の人々の意見を叩いて見たが、大抵の人はこの大難局を目前に見ながら、総てが自己主義であり、事なかれ主義である。いはゆるスローモーシヨンであり或ひはノーモーシヨンである。これではいけないと私は深く感じ、身命を賭しても我が皇国の非常時を打開し、天津日の大神の御神勅通りに日本の光を世界各国に輝かさねばならないと固く決心したのである。
然るに今日の総ての学者、総ての教育家、総ての政治家たちは居睡りどころかみな精神肉体ともに麻痺して了ひ、突いたくらゐのことでは眼も醒めないで、身体にも応へないのである。これを見れば我が国は実に何とも云ひやうのないところの難局に向つて直行しつつあることを痛感したるあまり、ここに昭和神聖会を組織し、この大難局打開に邁進することとなつたのである。
ついては、本会の主義綱領について簡単なる解釈を試みたいと思ふのである。
主義
本会は神聖なる神国日本の大道、皇道に則り万世一系の聖天子の天業を翼賛し奉り、肇国の精神を遵奉し、皇国の大使命と皇国民天賦の使命達成を期す
神聖といふ言葉は我が日本神国よりほかには用ふる資格がないのである。我が国の憲法にも「天皇ハ神聖ニシテ冒スベカラズ」とあり、日本国もまた神聖にして冒すべからざる国土である。即ち神聖なる神国日本である。
日本がなぜ神国であるかと言へば、これは我が国の歴史を溯ると、天之御中主大神を初め天照皇大神が日本の国を豊葦原の瑞穂国中津国と神定めに定め給ひて、国を樹て統を垂れ給ひ、皇孫瓊々杵尊をしてこの国土に君臨せしめ給ふた故である。外国にはかういふ尊い大君も国土も一ケ国たりともない。それで日本は天立君主国と申すのである。即ち天より君臨された大君が吾々の大君であらせられるのである。
この神国日本の大道、即ち皇道はいはゆる宗教ではなく、すめらぎの道であつて天皇陛下の御道である。天が下を安国と平けく安らけく知食すべき御大道である。儒教の五倫五常といふやうなものは極く枝葉のものであつて、皇道とは総てのものに関係のある、総ての根本である道といふ意味である。それで「天壌と与に窮りなかるべし」といふ天祖の御神勅によつて、我が国の大君は万世一系である。外国のやうに禅譲あり、放伐あり、勢威あれば君となり、勢威を失へば奴隷となり、家来となり、或ひは殺されるといふやうな見識のない政体とは違ふのである。
我が国の大君は現人神にてあらせられ、吾々が朝夕に敬ひ奉る活きたる神様である。外国にはかういふ尊い活きた神様がないので、キリスト教の必要が起つたり、釈迦の宗教の必要が起るのである。頼るところがないから、さういふ死神死仏を引張り出して慰安の道具にしてゐるだけでその実は泡抹に等しいものである。
次に「肇国の精神を遵奉し」とあるが、肇国の精神とは国を肇め給ふところの精神である。この肇国の精神といふことは御肇国天皇、即ち神武天皇が初めて御神代からの神様の系統を継承いで人皇の祖とならせられた時からの神言である。外国には建国があつても肇国の神定はないのである。日本国と世界とは丁度相向ひ合うて蜻蛉が臀呫せるような地形になつてゐる。この神武天皇のお言葉にある「蜻蛉のとなめせる国」とは日本のみならず五大洲全体のことであるから、もちろん皇祖の御意志を継いでこの五大洲を安国と平けく治め給ふ御意志がその御言葉にはつきり現はれてゐるのである。吾々はその御聖慮を奉体して日本の神国臣民たる使命を果すべく、ここに昭和神聖会を起し皇国民天賦の使命を国民に自覚せしめ、日本皇国の真相を日本人に再認識せしめたい為に敢然立ち上つたのである。
綱領
一、皇道の本義に基き祭政一致の確立を期す
日本国には帝道といふものはない。皇道はあつても帝道はないのである。また天皇はあつても皇帝はない。大日本史を初め六国史、その他の日本歴史を隅から隅まで調べて見ても皇帝と記されたところはどこにもないのである。詩書などには「神武帝」「醍醐帝」などといふ言葉が出て居るけれども、これは正史ではなく作詩上の都合でただその中に織り込んだ言葉なのである。
故に我が国には天立君主たる天皇即ちすめらぎのみことがおはしまして、外国の皇帝や王や、その他の主権者とは根底から違ふのである。支那には三皇といふものがあり、その次に五帝といふものが出来、秦の始皇帝が始めて皇帝と名乗つたのである。しかしながら支那の国は禅譲あり、放伐あり、時々姓を変へるが、日本の陛下には苗字といふものはない。天を父とし地を母とせられて居られるからである。宇宙そのものの表現が即ち我が国の天津日嗣天皇でおはすのである。それ故に皇帝ではない。皇帝といふものは憲法を以て権力を定めたものである。立憲君主とは憲法に依つて認めたところの君主である。日本は天立君主立憲制であつて、君主が吾々に憲法を賜はつたのであるから、他国の憲法とは天地霄壌の差があることはこれによつても明かである。
それ故に吾々は、帝国議会といふことを非常に耳障りに思ふのである。これは皇国議会でなければならない。また帝国憲法は皇国憲法でなければならないと思ふのである。しかしながら明治維新の際は兵馬倥偬の際でもあり、あまり皇道に熟達した学者がなかつた為に、外国流に日本帝国と謂ひ、或ひは帝国軍人と謂ひ、帝国議会と謂ひ、帝国憲法と謂ふやうになつたのである。
けれども今日はもうこれを改むべき時が来てゐることを私は信ずるのである。東郷元帥は皇国と言つて居られる。彼の日本海大海戦の際「皇国の興廃この一戦に在り」と云はれ、決して帝国とは言うて居られないのである。東郷さんはこの点においては非常に日本の惟神の道に通じた方だと、私はその時に感じて居つたのである。この時代に皇国というた学者は一人もなかった、ただ東郷元帥のその言葉に現はれただけである。
皇道の本義は祭政一致にあるのである。祭政といふことは、私が十年事件の際、裁判所に呼び出された時に司法官は「大本は祭政一致といふが怪しからぬ」とかういつたので「何故か」と問ふと「祭といふのは宗教家の仕事で、政治は天皇陛下の御仕事ではないか、祭の字を上にやつて天皇陛下の政治を下に置くといふ不埓があるか」とこんな解釈をしてゐるのである。
しかしながら明治三年正月三日、明治天皇のお下しになつた宣布大教の詔に、
「祭政一致、億兆同心、治教上ニ明カニ、風俗下ニ美ハシ。而シテ中世以降、時ニ汚隆アリ、道ニ顕晦有リ」
云々と示され、また
「因テ新ニ宣教使ヲ命シ、天下ニ布教ス」
とある。人民の罪を裁くべき役人がこれを知らないとは、実に外国魂が日本に浸潤して、日本皇国の教といふものがほとんどすたれ切つてゐるところのこの状況を見て、私はあまりにも当局の無智蒙昧なるに呆れたのである。要するに祭政一致と政教一致を混同した意見である。
宮中には八神殿が斎つてあり、陛下が政治をなさるには、必ず八神殿のお祭祀をして、それから総理大臣その他に、すべてのことを仰せられるのが祭政一致なのである。別に宗教のやうなケチ臭いものではないのである。それで祭政一致の制によつて到るところの諸官衙にも神殿を造り、天照皇大神を敬斎し、さうして大神様の御心のままに文武百般の政治に奉仕せなければならない。これが即ち祭政一致の政治なのである。学校にも役所にも神様を斎つて、すべてのことを神様の御心のままに行ふ、これを祭政一致の政治といふのである。
宣布大教の詔はかういふ御聖旨であると私は拝察するのである。これを忘れては国民として済まないのである。
いよいよこの祭政一致の御詔勅を実現すべき時機が来たことを深く感ずる次第である。
一、天祖の神勅並に聖詔を奉戴し、神国日本の大使命遂行を期す
天祖の御神勅とは
「豊葦原ノ千五百秋ノ瑞穂国ハ、コレ吾ガ子孫ノ王トマスベキ地ナリ、爾皇孫就テ治ラセ、サキクマセ、宝祚ノ隆エマサンコト、天壌ト与ニ窮マリナカルベシ」
と仰せられた、あの御神勅である。延喜式の祝詞にも
「狭き国は広く峻しき国は平けく遠き国は八十綱懸けて引寄する事の如く皇孫尊の御前に仕へ奉れ云々」
とある。
この天祖の御神勅、並びに延喜式の祝詞に云はれてゐるその御心を心として、勇壮なる日本国民は今日まで進んで来たものである。それ故に一回も外国の侮辱を受けたこともなく、辺境を侵されたこともないところの万邦無比の尊い神国である。
故に、日本皇国の使命もまた大きいのであつて、この豊葦原の瑞穂国即ち地球全体に、日本が率先して総ての軌範を示し、御神慮たる人類愛善の大道によつて、これを護り導かなければならないのである。
然るに現代は天祖の御神勅、皇国の大道を忘れたが為に政治も経済も産業も何もかも行き詰り、悲惨事が到るところに突発するやうになつたのである。畏くも天祖の御神勅を遵奉して、日本国の大使命が解つたならば、日本は安全無事に明日からでも行けるところの尊い国なのである。それ故にわが神聖会は神国日本の大使命遂行を期して起つたのである。
一、万邦無比の国体を闡明し、皇道経済、皇道外交の確立を期す
日本の国は前にも申した通り、万邦にその比を見ざるところの結構な尊い国である。故にまた国体においても無比であり、かつ真に国体と言ひ得る国体を持つてゐるのは日本だけである。一天万乗の大君様が厳然と現はれまして、一つに治められる国である。
天皇陛下は人間の身体にたとへたならば頭部であり、吾々は手足胴体となつて働くべきもので、これがいはゆる国の身体即ち御国体である。外国には国体といふものがない。全部政体といふものを作つてゐるのである。立憲政体、共和政体、みな持ち寄り合ひ拵ヘ合ふのであつて、主義の凝塊であり、別に一つの体をなして居らぬのである。この日本の尊い国体を闡明し、国民一般に解らしめ、かつ海外諸国の民衆にもこれを悟らしめて、その上に皇道経済の実行、皇道外交の確立をなさねばならないのである。
ここにこの「皇道経済」といふことについて少しく申し上げるが、日本に通貨が出来たのは元明天皇の和銅元年で、その時銀と銅とで和同開珍といふ通貨を鋳つたので、米一石の価銀銭一文なるに至る云々と我が歴史に出てゐる。故に旅する時は一石の米を用意して行くよりも銀銭一文を持つて行つたならば、到るところで一石の米と換へることが出来る。即ち軽いものを以て重いものと交換出来るから通貨の価値があつたのである。
ところが今日は少し贅沢な果物、メロンとか少し変つた西洋から来たものは目方をかけて売るが、それが銅貨の十倍ぐらゐの価である。つまり一貫目の果物を買ふには十貫目の銅貨が要る。銀貨にしてもまだ銀貨のほうが重たいぐらゐである。かういふことではどこに通貨の値打があるか判らなくなる。
それからこの「皇道経済」といふものは、総てこの世界──普天の下、率土の浜に到るまで皇土ならざるなし──で天皇陛下の御国土である。即ち神様からお引継ぎになつたところの国土である。明治維新までは諸大名が、土地を自由に私有して乱暴なことをやつてゐた。その結果が明治維新となつて土地を陛下に奉還してしまつた。さうすれば残らず天津日嗣天皇の御物である。故に人民の所有権といふものは外国にはあつても日本にはなかつたのである。
しかし外国流にまた土地の所有権といふものが明治七、八年頃から出来たのである。しかしながらこれは元来皆神様の土地であり陛下の土地である。それで今陛下からお借りしてゐると思つたらいいのである。所有権ではなしに拝借権と思つて居つたらよいのである。自分の地面だと思つたらあてが違ふ。
今日の経済は金銀為本の経済で、総てが金銀を以て代用する経済であるが、これを土地為本の経済にすれば、日本全体は、拝借権は別として、全部天皇陛下の御物である。そこで天皇陛下の御心のままに必要に応じて御稜威紙幣をお出しになれば、日本の人民は喜んでこれを迎へるものと私は考へてゐるのである。
現在日本の正貨は四億に足るか足らぬかであるが、公債その他の発行高を合すれば実に莫大なものである。もしこれが外国であつたならば、公債を二十億も発行して正貨が四億しかないといふことになれば、たちまちその価値が正貨に準じて下つて来るのである。即ち二十億が四億の価値しかなくなるのであるが、日本の国は一天万乗の大君の御稜威が輝いてゐる為に、今の紙幣が本当の不換紙幣と同じやうなものであつても価値に変動がない。今の兌換紙幣を日本銀行に持つて行つて金貨に取換へようとしても換へてくれない。それでも天皇陛下がましますが故に国民全体が安心してゐるのである。
それでもう一歩を進めて、金銀為本を廃め、土地為本の制度にするが最も平易にして簡単で、効力の多い御稜威為本としたならば、必要な金はいくらでも出すことで出来る。もちろん無茶苦茶に出してはいけないが、先づ日本を徹底的に建直すにおいては、一千億円の金が要ると思ふのである。
この一千億円の紙幣を陛下の御稜威によつて御発行になつたならば、農民も商工業者も、その他総ての苦しんでゐる人達を救ふことが出来るのである。つまりその紙幣によつて、日本国がすつくりと建直るまでは五年でも六年でも総ての××を免除する。さうしたならば日本の国は数年ならずして本当の元の天国浄土に立還ることが出来得るのである。これは経済機構の都合で何でもない仕事である。
今更云ふまでもなく天津日嗣天皇は我が日本国の同胞のみならず世界万民を安らけく平けく治め給ふ御天職を惟神に具有し給ふのである。それ故に先づ日本からそれをお始めになるやうに吾々国民は力を合せて請願したいといふ考へを持つてゐるのである。
外国貿易はどうするのかといろいろ尋ねる人々があるが、今でも外国とは物々交換をやつてゐるやうなものである。要するに物と物とを交換すればよいのである。さうして米を主として物価を公定すれば百姓はよくなり、従つて商工業者も潤ひ蘇つて来るのである。
また皇道経済になれば、一日として休みなく国家の為に働いてゐるところの軍人は、一兵卒に至るまで相当な月給を渡すことが出来るのである。さうして一人たりとも苦しむものはなく、富士山の頂上も太平洋の底も、みな同じ慈雨に潤ふことが出来るのである。三井や鴻池を叩き潰して、下層階級の苦しみを救ひ一様に引きならすといふやうな、そんな無理なことをしなくとも、富士山は富士山のまま、太平洋は太平洋のままにしておいて、とにかく一切に慈みの雨を降らし、国民がその恩沢に浴したならば、初めて本当の地上天国になるのである。これはやり方一つ、政治機構一つで出来るのである。
日本の国は今や全く行き詰つてゐるのは事実だ。あるところでは学校の教員の給金も払へなかつたり、小学校の生徒は弁当を持たずに学校に来る。二三日食はない生徒もある。着物も着られないといふやうな有様であるが、東京あたりに行つて見ると空家が何程でもある。着物も会社の倉庫には沢山積んである。米もないところにはないが、あるところには日本国民が全部食うても余るだけの米がかびてゐる。かやうに衣食住は有り余つてゐるのである。これは政治機構が悪いからかういふことになつて居るのであつて、実際から言へば日本に物資が少くて国民が生活に悩んでゐるのではなくて、政治のやり方、運用が悪いからである。どうしても、これは根本的に変へなければならないと思ふのである。
皇道経済についてはあまり突飛な話で合点の行かない人があるかも知れぬが、しかし陛下の御稜威によつたならば、どんなことでも出来るといふことを私を確信してゐるのである。
外交も従来のやうに弱腰では全然駄目である。日本は世界の親国であり、神様の御子孫がお降りになつてゐるところの皇国であるから、五、五、三といふやうな区別を立てられて、二等国の扱ひをされて我慢をしてゐるやうな、そんな腰抜けの国ではないのである。
外交といふものは日本から通告を出して、ああせい、かうせいと各国に示すのが日本本来の使命である。それにワシントン会議でも五、五、三などといふ──丁度、英米は国が大きく日本は小さい、日本は子供だ、俺は大人だから五本の指が要るが、日本は子供だから三本でよいではないか、といふのと同様で、かういう道理がどこにあるか、大人でも子供でも矢張り五本の指が必要である。
しかるにさういふところへ行つて、ハイハイと言つて調印して来た偉いお方が日本には沢山ある。吾々はかくの如き国辱的な扱ひを払ひ退けて、どこまでも自主的外交を以て行かなければならない。いつまでも追随外交で外国の言うた通りに、何を言はれても随いて行くやうなことでは断じてならないのだ。
言葉から言つても、日本人は七十五音を正確に発するが、英語とかその他の外国語は大抵二十四音である。それも拗音とか促音とかの、捻ったり曲つたりした音ばかりである。よく考ヘて見るのに高等動物ほど言葉数が多いのである。牛や馬は「モーモー」「ヒンヒン」だけで、猫は「ニヤンニヤン」雀は「チユーチユー」烏は「カーカー」といふやうに下等動物ほど言葉数が少くなつて来る。西洋人はこれから見たならば日本人の七十五声に対して二十四声だから三分の一の力しかない。丁度日本人と獣の中間ぐらゐにしか見られないのである。かういふ国のいふことを喜んで聴いてゐる腰抜けは、最早日本人ではなくして外国の家来なのである、奴隷である。
東京あたりに行つて見ても女が百人通る中で日本の風をして通る者はない、たまたま通つたなと思つて見ると下層労働者の妻君ぐらゐなものであつて、大抵の女は、男か女か判らぬやうな風をしてゐる。これが皇国日本の都かと思へば実に憤慨に堪へなくなつて来る。さうしてその風俗が変つてゐるだけ矢張り精神も変つてゐる。
昔は大和民族は民といへどもみな刀を一本差して居つた。武士は二本差して居つたのである。その時には道義心も固く、廉恥心も強かつた。それが外国にそそのかされて丸腰になつてからは、文官を初め大抵の者は自分だけよければよいといふやうな外国魂になつてしまつたのである。その証拠には、皇国軍人と警察官とは剣を帯びてゐる故に、日本国民が堕落した中にもその割に堕落してゐない。それで私は帯剣は必要であると思つてゐる。
一、皇道を国教と信奉し、国民教育指導精神の確立を期す
皇道は即ち国の教である。天津日嗣天皇が世界を安国と治め給ふ治教である。既成宗教のやうなけちなものとは違ふ。宗教といふものは数千年前に人心を収攬すべき必要があつて起つた便宜上の教なのである。釈迦もキリストも二千年、三千年後にこれだけ立派な寺や教会が沢山出来、坊主や宣教師が沢山に出来るとは思はなかつたであらう。しかしながら死んだ虎よりも生きた鼠の方がよほどいい。小さな鼠でも死んだ虎ならその皮を引張つて行く。釈迦でもキリストでも、過去の死んだ虎である、死神死仏である。
吾等の天皇陛下は天照皇大神様直々の生きた本当の神様である。また何千年前の国民に適した宗教は、いはゆる厳寒時代に着る綿入れを暑い夏に「着よ」といふのと同じことである。またある宗教はアダムとイヴが神様の禁断の果実を食つたが為に、神の規則に背いて何千万年の末に至るまでその子孫たる人民が地獄の火の中に突込まれる、それが可哀さうだからこれを助ける為に神が独り子を十字架にかけて、そのキリストを通じて天に願ふ者は助けてやるといふ事になつたのだといふ。自分の可愛いい子を殺しておいて、それに願つたら助けてやらうなどと、そんな馬鹿なことがどこにあらうか。
何千万年前の先祖がどんなことをしたか知らないが、今日の人間の作つた不完全な法律でさへも、親が泥棒したからと言つて子供まで罰するといふことはしないのである。まして、至仁至愛公平無私な神様がそんな不公平な訳の解らないことをなさるはずがない。そんな神様があつたらこの宇宙間より籍を除いてしまうても差支へがない。外教その他の宗教で地獄極楽説に脅迫され、立派な髯を生やした紳士が涙声になつて感謝したり謝罪まつてゐるのは、吾らの先祖が借りもしないのに、金を貸したからと責められて、また改めて証文を書き、それに利子を附けて取られるのと同じ事である。
かういふ矛盾はもう皇国日本からは取去らなければならない時機に到達したことを諸君は御覚悟になつて然るべきだと思ふ。
一、国防の充実と農工商の隆昌を図り、国本の基礎確立を期す
国防は元々国をとる為や、人民を殺戮する為の国防ではないのだ。我が国は我が国としての資格を保ち、かつ天定の大使命により世界に号令するところの威容を保持する為に必要なものである。どうしても国防は充実しておかねば今日のところまだ世界を導く訳には行かないのである。御即位式には三種の神器即ち璽鏡剣の三つがなければならない。璽や鏡ばかりでは完全でない。どうしても剣といふものが最後になければならない。この国防といふものはいはゆるこの神剣である。
また農工商は今日の状態のままでおいたならばもう破滅するほかに道はないのである。この農工商の隆昌を図るといふことは、先づ第一に皇道経済の実行を先にし、それからぼつぼつ教育なり或ひは総てのものを変へて行かねばならないのであるが、今日のやうに窮乏してしまつては、一日も早く皇道経済の実行によつて農工商の復活を図るよりほかに断じて道はないのである。
一、神聖皇道を宣布発揚し、人類愛善の実践を期す
神聖なる日本の皇道をあまねく中外に宣布し発揚すべき秋は今である。さうして天津日嗣天皇の御政治は征伐に非ず、侵略にあらず、また併呑に非ず、万民ことごとくを赤子として愛し給ふところの御精神の発露であり経綸である。これがいはゆる人類愛善の実践である。