文献名1惟神の道
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3昭和神聖の意義よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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ページ316
目次メモ
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この七月二十二日(昭和十年)は余が昭和神聖会を結成し、東京九段の軍人会館においてその発会式を挙行してから一周年に相当する。その一周年記念号を発行するに当って、いささか余の所信を述べ、昭和神聖会とは如何なるものであるかを述べたいと思ふのである。
○
昭和神聖会の「昭」といふ字は日を召すと書く。「和」といふ字は禾扁に国と書く。禾扁に国は、豊葦原の瑞穂国即ち全世界といふ意味なのである。故に「昭和」といふのは、全世界の国々が太陽国の出現を待望し、全地上の青人草が天日の大光明を渇仰することを象徴したものである。
今日の世界はまことにこの「昭和」の文字の示す通りの状態にある。地上の心ある人々は西欧の滅亡を叫んで「光は東方より」の予言が実現するのはまさに今の時であることを強調してゐる。また心なき者といへどもこの暗黒無明のただ中に真理の光明を求めつつ苦悩し続けてゐるのである。しかして豊葦原の中津国たる日本もまた天皇親政の正しき太陽国に更生しようと産みの苦患にあるのである。
神聖の「神」といふ字は和訓ではカムとよむ。カムは噛むであって噛み締める意味である。しかして仏教の「仏」といふ字はホトケと和訓をする。ホトケは解ける意味であって、仏教では特に「無」をか「解脱」といふことを強調するのである。これに対して神の道は噛み締める道であって、中心帰向の精神に基を置き、内容の充実に従って外方に進展する道なのである。
故に仏教はその発祥地たる印度で衰亡しても他の国で更生することが出来る。自国の民を救済することが出来ずまた母国を滅ぼしてしまってゐても、他の民族に流れ込むことが出来る。だが神の道はさうではない。神の道は先づ神国たる日本において健全に発達し、その国土を安んじその国民を救ひ、然る後始めて全世界にその正しき力を拡充することが出来るものである。神の道は心に強く噛み締めて自ら深く体得しなくては、決してこれを他の人に伝ふることの出来ない道である。物の味はそれを実際に食べた者のみが知る境地である。しかして他人にその味を知らしめようと思ったならば、自分の持ってゐる物を現実に与へなくてはいけない。如何に美しくても描いた果物では役に立たない。如何に美辞麗句を列べても文字のみによる説明では何の味も判らない。仏教には八万四千の経文がある。しかし自らその真を体験しなくてはことごとく描いた果物であり説明の文字に過ぎないのである。故にもし経文の多きを以て仏教の偉大性を説く者があったなら、誤りこれよりはなはだしきは無い。かかる者は正しき中心を忘れ、自己の徳を修める根本問題を怠って、末梢的教理の研究に堕した外道である。
神の道は、描いた果物や現実を失った理想の文字ではない。視よ! 神光輝く日本国を。未だ異寇の汚れを受けしことなき金甌無欠の国体がここに現存するではないか。皇統連綿、天壌とともに窮まりなき宝祚がここに実在するではないか。しかして挙国一致、天津日嗣天皇を守護し奉る尽忠の民がここに存在するではないか。現実を伴はざる理想は私物に過ぎない、それは観念の遊戯である。この死物に活を与へ、万民の理想を現実化するのが神の道である。
神聖の「聖」といふ字はヒジリと訓む。ヒジリとは日を知ることである。即ち太陽を覚ることである、日本を認識することである。ヒは一字であり霊であり日でありまた陽である。万有の始原根本の意である。即ち聖とは宇宙の本源たる「日」を覚悟することなのである。
然らば宇宙の本源とは何であらうか? それが如実に物質化したものが、万物に生命を与ふる太陽なのである。また地上の主、師、親として顕現し給ひしが天津日嗣の天皇にましまし、万邦に秀で、神州日本国となったのである。しかしてこれらを一貫して宇宙精神の本源に合一するの道を日の本の大道といふのである。
以上の説明を以て明かなる如く、昭和神聖といふことは、日の丸を仰望することであり、日本国の使命を覚ることであり、全地上の青人草をして天津日嗣天皇の大御稜威に順はしむることである。昭和神聖会の主義も綱領もまた宣言も、ことごとくこの精神を布衍したものであって、本会の指導精神は実に「昭和神聖」の四字の中に総てが示されてゐるのである。
○
次に昭和神聖会の会章は、緑の周囲に対して赤色の玉を以て中心づけたものである。しかしてこの赤き中心緑の円周とは左の如き関係を示すものである。
中心の赤(火) 周囲の緑(水)
太陽………………瑞穂国(地球)
天皇………………青人草(人類)
日本………………大海原(五大洲)
霊系(精神)……体系(物質)
統一主義…………分裂主義
求心純化…………分析復化
陽電子(男)……陰電子(女)
天地間の事象はことごとくかくの如き関係によって存在するものである。しかしてこの中心と円周とを調和し釣り合わせる方法をマツリ(真釣)或ひはムスビ(結交)といふのである。地上の青人草が天皇に正しく帰向し奉ることをマツロフと云ひ、陰と陽が互ひに結合することをムスブといふ。故にムスビによって生ずるものが息子であり娘である。そこに弥栄の道があり、無限進展の生命が存在する。
伊邪那岐、伊邪那美二神の修理固成の神業は、陰陽のマツリを完成し給ふことである。今日の世界は自然界においては完全に陰陽のマツリが調ってゐるが、最も肝腎な人間界においてそのマツリが正しく行はれてゐないのである。そこに世界苦の実相があるのであある。
例へば物質のみを認めて霊魂即ち精神界を否定する唯物主義の思想がある。古の聖賢は「人心正しからざれば水火調はず」と教へ、人の魂は以て天地を動かすことが出来ると説いたものである。然るに今日の自然科学者は「如何に人間の心が悪くなっても社会に虚偽が充満しても、自然現象とは露いささかの関係もない」かの如く自ら信じまた人を導いてゐる。これは結局今日の学者の無智を告白してゐるものであって、人間の肉体がその人の精神の持ち方で重大なる影響を受けると同様に、この宇宙もまた一個の人体と見ることが出来、人類の魂の総和が天地の生成化育に深い関係を持ってゐるのである。
例へば水は血液であり、河川は血管に相当し、土は筋肉、鉱物は骨、植物は毛となり、しかして万物の霊長として自然界の支配者たる人間は、実に頭脳命令を全身に通じて肉体を働かす神経に相応するものなのである。今日の医学でも人間の精神が直ちに肉体に影響を及ぼし、また肉体がその精神に強く反応し来たるものなる事を認めてゐるが、それと同時に人間の魂の清濁が天地の運行に密接不離なる関係を有するものなる事は絶対に否定してはならない真理なのであって、恐らく科学が今一層進歩したならばその所以を窺ふことが出来るやうになるであらう。
最近我が国において天災地変が頻々として起こる。余は直ちにこれを以て天譴であると断ずるものでは無いが、地震とか洪水とか暴風とかいふやうなものは、人間の肉体に譬ふればちゃうど発熱とか出血とかまた悪寒に相当するものであるといふ事に気が付かなくてはならないと警告するものである。単に物質的の科学力のみに依頼すべきものでなく、どうしても精神を正しく持つやうに努力しなくてはならないのである。
次に今日の世の中は、陰陽の存在は肯定しつつも、その主客を顛倒してゐる人々があまりにも多いやうである。勿論、陰と陽とは別々に存在することの出来ない相応の関係にあるのであるから、その主客を人間的の理窟で定めることは、あだかも鶏と卵の前後を決めるに等しい問題であるが、一切の物の主客は神ながらに決定してゐるのであって、皇典古事記の那岐、那美二神の御子生みの段に、陽を以て主とし陰を以て客とすべき所以が明示されてゐるのである。
然るに今日の世の中は、総てが主客転倒、陰陽逆転の状態にある。その一つが今日の科学となって物質偏重主義を生じたのである。物質を主として魂を従とする。これを体主霊従の教といふのである。
例へば今日の政治はマツリゴトでなくして政略であり政策である。徳を以てせずして機構を以て天下を治めようとするのである。また法規万能主義の法律家がさうである。人の善悪を審く為にはどうしても裁判官となるべき人が人格の高潔なる公平無私の人でなくてはならぬ。その立派なる人が法規に従って審きをするのが霊主体従の精神である。
反国体学説あるひは民主主義の思想がまさに主客転倒、体主霊従の道である。天皇は霊にして国民は体である。火と水、中心と円周の関係が君臣の関係である。故に物質主義、体主霊従の思想は必ず民主主義に陥るものである。しかして陰陽逆転は天則に悖戻する道であって、その結果が必ず行き詰りに逢著するものである事は皇典古事記に明示されてゐる所である。全世界の国々が滅亡し、その王達がことごとく断絶したのに、独り我が国のみが皇統連綿として皇威弥栄えに栄えまし、国運隆々として躍進の一途を辿るは、我が国が天則に順応し霊主体従の大道を進んで来たからである。
しかして我が過去の歴史に徴するに、我が国がこの霊主体従の大道を忘れて、カラの教即ち体主霊従の道に傾いた時に国家の乱脈と国民の苦患が発生した。昭和維新とは実に体主霊従より霊主体従に世を立直し、以て天則に順応した弥栄の道に総てを更生せしむることである。
それからこの陰陽の関係を対立闘争的に見てゐる人が多い。即ち君主と国民の利害は必ず相反するものである。治者と被治者との関係は相互敵視の関係にあるといふ見方である。この思想を称して覇道的愛悪主義といふのである。自分と他人、自国と他国の関係を律するのに、他のためになることは必ず自己の不利益となる。自分を幸福にするためには他人を犠牲にするのもやむを得ない、といふ考へ方である。
根本にかかる闘争心をおいて作られたのが外国の憲法論であり議会制度であり経済学である。しかし我が国の憲法、議会及び経済の本旨は断じてかかる精神の上に立ってはならない。皇道に立脚した陰陽の関係は共存愛善の関係にある。君臣の道も、父子夫婦の関係も、決して排他的利己主義を基調とするものではない。正しき愛の家族的精神を国家に拡大してそこに大家族精神に基づく輝く日本が生まれ、それを全人類に押し及ぼし地上の万類に至らしめて、ここに人類愛善の大理想が実現するのである。
今日の自然科学は陰陽電気の活動力を応用して大なる仕事をしてゐる。これは物質の中にある「愛」の力を利用したものである。しかして物質よりも偉大なる力を持ってゐる人間の「愛」の情動を活用する事が出来た時に、始めてこの土に理想の世界が具現するのである。科学がそこまで進歩した時に始めて科学そのものが完成されるのである。しかしてそこに正しき科学と正しき信仰が合致することとなるのである。
皇道維新といひ真日本の建設といふも、ことごとく幾千年間幾多の聖賢が説き来たりまた全人類が待望した最高理想の地上実現にあるのである。釈迦の予言した弥勒浄土も、耶蘇の絶叫した地上天国も、みなそれであって、いよいよ神定の時が来て皇道に基づくこの大転換が現下の世界的産みの苦悩なのである。
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神聖はまた「神声」である。神聖会員は常に心の耳を清めて神の声を聴かねばならぬ。しかして人が神の声を聴く耳を閉いだ時に、必ず悪魔の囁きが耳に入るものである。また吾々の語る一言一句が、ことごとく神の声であるべく努めねばならぬ、即ち吾々の発する言霊によって世界を清めて天地の生成を助けねばならないのである。
声は心の枝である。心の樹が正しければその枝は自ら繁茂し、しかして美しい花を咲かせ甘い果実を実らすことが出来るのである。心の枝に棘があってはならぬ。如何にその声が正義の叫びであっても、もしその声に棘があったら人の心を言向和すことは出来ない。神聖はまた「新成」であり「新政」である。新成とは修理固成である。海月の如く漂へる地球を固め、五月蝿の如く騒げる世界を定めるために、神命のまにまに勇往邁進するのが神聖会員の努めである。
しかして吾々の目指すところは、実に我が国を本とする「昭和神聖」の完成である。明治維新は王政復古といはれた。だが昭和の御維新は進んで神政復古であらねばならぬ。全人類が天皇を顕津御神と仰ぎ奉り、政事は即ちマツリゴトなる所以を悟り、経済は産霊の大道なることを観ずる世界にせしめねばならない。
かくてこの大理想を実現して吾らに課せられたる大使命を達成するために、神聖会員として終始一貫すべき根本精神は「信正」「真誠」である。今日、世界到る所に「正義、正義」の声が挙げられてゐるが、真の正義は神を畏れる信仰の正義であらねばならない。即ち至純の愛であり最高の真である神の御目から見たる正義に合一したものであらねばならない。
例へば、今日の支那の農村はまさに文字通り崩壊の深淵に臨んでゐる。しかしてかく農村を塗炭の苦しみに導いたものは、実に永年に亘る支那軍閥の苛斂誅求であったと云はれてゐる。その軍閥を援助しその力をますます強大にならしめることが果して正義であるか、或ひは洪徳の王者の慈愛に支那四億の民草を甦らしむべく誠心誠意力をつくすのが正義であるか。前者を以て正義なりと叫ぶ国もある、後者を以て真の正義なりと信ずる国もある。問題はこれを行ふ者の心である、そこに「信正」の尊さと偉大性がある。
荒ぶる今の世に信正を行ふには幾多の困難が横たはる。しかし信正には必ず天佑神助が降る。日本もこれからいよいよ多事多難の前途を予想しなければならない。ただし日本が信仰に基づく正義に固く立つ時は、如何なる艱難辛苦に遭遇するも、終りまで信を貫き正を護れば、必ずそこに偉大なる光明を仰ぐことが出来るのである。この覚悟がまた昭和神聖会員の総てになければならない。吾々の前途には荊棘が横たはる、だが終りまで忍ぶ者は救はれる。もし終りまで堪へ忍ぶことが出来なかったならば、結局それは神に対する信仰が無かった証拠である。
然らばどうしたならば吾々が信仰に基づく正義に毅然として立つことが出来るか。曰く、吾々が「真誠」の心に立帰ることである。真誠は神より発してまた神に帰するものである。真誠は力の根元である。内には不撓不屈の精力となり、外には万有を化育する威力を発揮する。かくて吾々が信仰の正義に立ち、真誠より発する力を得ることによって始めて天下を動かすことが出来る。
神の国とは力と正義が並行する国である。皇道国とはまた力と正義が列び存する国である。吾々は日本を強くせねばならない、世界一の強力なる国家とせねばならない、と同時に我が国を正義の国即ち信正の国家となさねばならない。だが力のみを養成して信正を立てず、或ひは力を主として正義を従とすることがあるならば、それは体主霊従の邪道で必ず「お出直し」をせねばならないこととなる。
余は昭和神聖会員が「昭和神聖」の真義に徹して、以て皇業を翼賛し奉り神聖世界の完成に邁進せむことを祈るものである。