文献名1惟神の道
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3天を畏れよよみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
概要
備考「人類愛善新聞」昭和一〇年八月号所収「専ら天を畏れ其の啓示に心せよ」と同じ
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ページ331
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本文
孔子曰く、「君子に三つの畏れあり、天命を畏れ、大人を畏れ、聖人の言を畏る」と。また賢王ソロモン曰く「エボハを恐るるは智の本なり」と。かくの如く古の聖賢は民を導くに「天を恐れよ、神を畏れよ」と教へたものである。然るに今日の政治家や教育者達はかへつて「天を恐ること勿れ、神を畏るべからず」と教へているやうに思はれるのである。
人がなによりも天を畏れ、神以外の何ものをも畏れなくなつた時、始めて理想の世界が地上に実現する。然るに今日の学校教育は、何よりもまづ試験を恐れさす教育ではないか。また今日の社会教育はどうか。或ひは権力を恐れしめ、或ひは金力を恐れしめ、また法律の制裁、科学の威力を恐れしめる教育が施されて居るのではないか。
権門の家庭ではその子女を養育するに当つて、如何に権力が今の世に偉大であるかを知らしめようと努力する。富を求める者は金力の強大性を力説し、法律家は法の制裁を恐れしめることによつて地上天国が出現するかの如く教へ、科学者は何ものよりも科学の力の恐るべきを強調する。もし、孔子の言葉を正しとするならば、今の世の政治は明かに君子の道にそむける政治であり、またソロモンの言葉を賢しとするならば、今日の教育家達はすべて智を得ざる徒であると云はれても致し方なき次第である。
智者とは日を知る者の意である。日は熱と光の源泉であり万有生命の原動である。果して今日の科学者に「生命の根本」を明かにせるものが一人でもあるか。即ち日を知れる智者なるものが果して幾ばくあるか。ここに今日の科学が今一段進歩したならば間もなく明かにするであらう程度の、人間と自然界の関係を述べておかうと思ふ。
人の心が平和と喜びと慈みに充ちている時、即ち愛善の精神に満たされてゐる時には、その五体から明紫の霊光を放射するものである。この明紫の霊光に包まれると、人間はもちろん、動物植物に至るまで、その精神的物質的生長力が旺盛になつてくるのである。故に子女を養育するに際しては勿論であるが、動物を飼育し植物を栽培するに当つても、常に愛の心を以てせなけれは正しい結果をもたらすことは出来ないものである。
今日、庭園なるものは金力を誇り権勢を示すためにつくられて居るやうであるが、実は庭園なるものはその樹木草苔によつてその家人の徳性を表現するものなのである。故に如何に金をかけ人力を尽しても、徳なき家の庭園は観る人の目でははなはだ貧弱にしか見られないものである。
また人の心が乱れ、悲しみと憎悪に満ちてゐる時、即ち愛悪の精神が漲ってゐる時には、その五体から暗赤の色を放射するものである。これは常に破壊性殺害性の力を有するものであつて、そのために刺激を受けると、精神的にも物質的にも生長力を阻害されるものである。人によつて何となく衣類器具等を汚し損する人がある。これも右の如き破壊的色素の一つの働きである。
しかしてかかる愛悪の霊的色素が段々と天地に充満してくると、その結果肉体的には病を発生し、精神的には不安懊悩を誘発するに至るものである。この悪気を払ひ清める行事が禊祓である。しかして禊祓にも色々あつて、斎戒沐浴もその一種であり、神籬による祓戸、祝詞奏上、鎮魂等すべて禊祓の一方法である。しかしてもし人間が悔い改めと禊の業を修めずして邪気いよいよ天地に充満し来たる時には、祓戸の神の御発動となつて暴風豪雨等によつて邪気が清められるのである。神の恩寵最も豊かなる我が国において特に然りである。
故に我が国においては古来国難の当来する前においては、ことに自然界の変災が多いのであつて、これは神が特に日本を愛し給ふ象徴なのである。余は最近の我が国における天災地変について議論をすることを避けたい。科学万能主義者が過去の聖賢の言葉を否定する説に、同ずる人々を一々論難しても仕方がない。だが余は躓く石にも神の警告を感得する謙虚敬虔な心を持つ人は幸ひであると言ふものである。天の異象を見、地の変兆を知らされても、神を知らざる者の目は節穴同然、耳は木耳同様、まことに悲しむべき世相である。かかる世相を誰が招いたのであらうか。余は過去の聖賢とともに「天を恐れよ、神を畏れよ」と、今の世に叫ぶものである。