文献名1惟神の道
文献名2よみ(新仮名遣い)
文献名3神を信じ得る幸福よみ(新仮名遣い)
著者出口王仁三郎
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ページ335
目次メモ
OBC B123900c099
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本文
神の声を聴き得る人は、常に敬虔な心を以て人々の声に耳を傾けるものである。満州事変以来「非常時、非常時」の声が津々浦々に揚げられ「昭和十年十一年の危機」が声高く全国に叫ばれた。それらの声を真に敬虔な心を以て聴いた人は、必ずやその声の中に神の深き御心を感得することが出来たはずである。そしてその人々は非常時昭和十年十一年の本当の姿が、最近いよいよハッキリと眼前に描き出されて来たはすである。
勿論、何がなしに非常時を担ぎ回った人々も世間には沢山あったらう。しかしそんな人々は本当に非常時を叫ばなければならぬ時に声が涸れて居り、真に働かねばならぬ時に疲れが来てゐるであらう。かかる流行語「非常時」を追ふやうな人々には非常時の真の姿は判るものではない。
またその反対に一部には、非常時の言葉を極度に嫌悪して、昭和十年十一年は危機にあらずなどと叫んだ人も中にはあった。勿論その中には自ら非常時を認識しながらも、国民が軽挙妄動するのを戒めるためにかく言った人も幾分あるだらうが、時には非常時は軍人が勝手に製造して宣伝して居るのであるとか、また一部の野心家連が何ものか為にせむとする一種の流言蜚語に過ぎないとか言ってゐた人々も沢山あるやうである。
しかし余は今ハッキリと言っておくが、我が国の非常時は決してそんな生やさしい非常時ではないのである。また現在の世界的危局もかかる人の言ふが如き根底の無いものではないのである。どうか国家の指導的立場にある人々は地位や名誉や黄金の光に眼を眩まされず、愛の心を以て窮乏の農村を視、明智を開いて民心の動きを察し、活眼を放って世界の情勢を看得して貰ひたいものだ。
だが悲しいかな、人間の心といふものは自らをすらあざむくものである。そして国家のため、社会のためにと思ってゐたことが結局自己一身の利欲に基づいてゐたのだと云ふことが後で判って来るものである。
余は四十年前から、来たるべき世界及び祖国日本の今日あるを憂慮して、ひたすら愛のために愛を行ひ義のために義に進んで何らの報酬をも要求しない真人の糾合に努力して来た。四十年、それは人生としてまことに永い歳月である。余はその間、同志の人々に対して或ひは酷に見えることをして来たかも知れぬ。だが本当の余を知って、ともにここまでついて来てくれた人々には、今や何ものにも砕けぬ鉄石の魂が練られて居るはずである。
しかして今日、祖国日本が要求し、世界人類が渇望してゐるものは、実に名誉も金も生命も要らぬこの鉄石の魂なのである。腕力や金力が世を支配した時代は既に去った。今や誠一つの大和魂によって世を支配せねばならぬ時代となった。そして腕力や権力や金力の支配した時代の夢をまだ見て居る人々には、盤石が山頂から転落するやうに「非常時」が唸りを生じてその頭上に落下して来るからであらう。
しかして余はここに断言する。この非常時を打開する道は、今日の政策的政治機構では駄目である、金銀を何ものよりも尊ぶ経済組織では駄目である、神霊に醒めざる物質科学では駄目であると。余の胸は今や燃え切ってゐる、世のために人のために言ひたいこと叫びたいことに溢れてゐる。だが心から神を認めてゐない世の中の人々に対してただ一言する。神は永い間人類に対して神を否定し、神を冒涜する者をも愛の心を以て黙許して居られた。だが今やことごとくの人間が神を崇め心の奥底から神を信ぜねば居られない時が来たといふことを一日も早く悟った者は幸福である、と余は強調するものである。非常時はこれからである。