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文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名32 母の生いたちよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c04
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本文  母が、石臼をまわされて、粉をひかれましたのは、私の生まれます前から始められていたのであります。
 あるときは、おりょうさんを背に、私をふところに入れて粉ひきをされましたそうで、私は、母のまわされる石臼のたえまなく動く音をどんなに心地よく聞いていたことでしょう。不思議にもその時の記憶がかすかに虹のように美しく残っています。
 母はこの世を創られた神が直きじきかかられ、大本の教を開かれたのでありますが、この石臼ということにつきましても、深いご神意があるのです。しかしそれを話します先に私の母、大本教祖の生家のこと、生いたちのころに、さかのぼります。
 教祖さまのお生まれは、福知山の紺屋町で、ただいまは中川という医者の人が住んでいるところと言われていますが、母が寝物語りにきかしてくれた話では、いまの中川という人の家の隣りも、もう一軒先きの隣りも、母のうちの屋敷でその先の両隣りには、貸家があり、いまの屋敷にくらべて、たいそう大きなものであったのです。
 母のお祖父さんの代は、郷泊もされ、苗字帯刀御免のお上大工で、いつも二本差しで仕事に行かれていたものだそうで、母のお母さんが、福知山に嫁にこられた時代は、母の家も、まだまだ裕福なころでありました。お蔵の中にはいっても、あまりたくさんの道具で、真ッ直ぐに歩けなかったということで、土用干しをされても、干しきれないものを、屋根の上まで持ち上げて、干されていたそうです。
 それが神様のお取り上げになる時節がきまして、どういうことで貧乏をされましたのか、ほどなく道具類も何もかも売り払わねばならぬということになり、教祖さまのご生誕されましたころには、大分と家計も苦しくなっていられましたようです。
 教祖さまご生誕の天保八年という年は、有名な天保の大飢饉でありまして、貧家の人は米の洗い汁をもらいにゆくという難儀な年で、小判をくわえて死んでおるものが、ほんとうにあったという話をわたしは教祖さまに抱かれながらたびたび聞かされました。
 教祖さまは三人きょうだいでありまして、兄さんは清兵衛、教祖さまはなか、妹さんはりよといいました。
 祖母になる人に、後妻で、おたけという方がありました。その方はずいぶんとむずかしい人でありましたそうですが、教祖さまのお母さんは「このむずかしい、やかましい姑さんの、そばにきたということは、神様が自分の力試しをして下さるのである。このお祖母さんを、鬼にするのも、仏にするのも自分の心ひとつである」と言って、一度も不服に思われることなく、真心をつくして姑につかえられたので、たいへん姑さんの心を動かし、別人のように心が変わられて、お祖母さんには、この嫁でなくては、夜も日も明けぬというようになってしまわれたと言うことも伝えられています。
 そのように教祖さまのお母さんのおそよという方は、一つの悟りのようなものを自らもっていられましたようで、どんな難しい人でも、こちらから誠をもって接し、真心をつくしたなれば、知らずしらずのうちに、きっとよくなってもらえるので、これほど誠をつくしているのに、なお向こうの方から無理をもちかけてくると思うのは、未だこちらの誠心が足らぬので、それは一つには自分の前生からの罪である、ということをいっておられたということであります。
 そういうわけで、姑と嫁の中も睦まじくゆきましたが、くらしむきはおいおいと逼塞になりかけてきまして、貸家を売り、つぎには屋敷も小さく分譲られるようになりました。
 そうこうするうちに、祖父祖母も亡くなられ、教祖さまのお生まれになったころは、お父さんの五郎三郎さんは、甘酒売りをなされ、お母さんは他家の糸紡ぎをされるというような有様でありましたが、お父さんは教祖さまが五ツか、六ツの時に亡くなられ、その後はお母さん一人で細々と暮しをたてられました。
 それがため教祖さまは、同じ福知山の米久呉服店へ子守り奉公をされることになりました。
 乱雑なことのお嫌いな、つつしみ深いご気性と、陰日向のない骨身をおしまれない働きぶりは、主人の感動するところとなりました。
 また、半期ごとに主人からおくられたお仕着せの衣地も、お給金も、そのままお母さんにわたされ、三度々々の食膳にめずらしいものがあると、一走りしてお母さんに届けられるなど、孝養をつくされましたので、福知山三孝女として藩主の表彰もあったそうです。
 年期三年の米久の奉公が終わると、川北の衣川清太夫、それから泉屋清兵衛という饅頭屋などに、つづいて奉公されました。
 どこにゆかれましても、評判のよかったのは勿論でありますが、奉公ばかりしておっては、いつまでも一人のお母さんに安心してもらえぬので、十五の年からは糸引きを稽古されました。糸紡ぎも大へんお上手で、あの、おきびしいご気性そのままの立派な糸をひかれて、仕事も他の人の二倍はされていたそうです。その賃金はお母さんに貢がれ、一人の母をいたわる上にもいたわられました。
 この教祖さまの子供のころからの親孝行なことや、常々からの行ないを、感心してじっと見ていたのが、綾部の出口家のお祖母さんでありました。いつも綾部から福知山にきては「わしの子になりてくれい」と言われ、教祖さまがなにかの使いで綾部にゆかれますと、「どうぞ、わしの子になりてくれい」とたのまれたそうです。出口のお祖母さんは“ゆり”という方で、教祖さまのお母さまの妹になりまして、綾部の上町の別の出口で惣右衛門といううちから出られたのでありますが、ある日、教祖さまが糸引きをされているところへ、わざわざ会いにきて「もしもわしの死ぬようなことがありたら、どうぞおまえは綾部にきて出口の後をついでくれよ」とよくよくたのんで言い置きをされたのであります。
 出口のお祖母さんは、出口家にもらわれるまでに許婚がありました。それは志賀というところのいとことの間にきまっていましたが、なにか理がありましたのでしょう。出口家に嫁入りされて、四十くらいのとき、後家になりました。同じころ志賀のいとこもやもめになりまして、いつとなく相思の仲となっていました。
 これを知った喜平という人が、ある日、お祖母さんのところへ来て「このごろ人の噂に聞いたのやが、まだお前も若うはあるし、丁度よいことである。早速に、志賀にゆかれい、後は株うちのものと相談して添わしてやるから」というので、お祖母さんは、親切に自分を思うてのことと信じて、一も二もなく志賀のいとこのところへゆかれました。喜平ともう一人常七という人は、川糸の出口小平の家から分かれたのですが、出口家とは同じ株内になっておりました。この三人はお祖母さんを出して、出口家の財産を分ける悪企みをしたのです。
 ところが、近所の人が大勢で迎えにきて、ようやく喜平たちが出口家の財産を取ろうとしていることに気づかれ、大へん腹をたてられ夜通し歩いて、福知山にゆき、教祖さまに出口の家の後を継いでくれいと言い置きをされ、そしてその晩に、井戸にはまって国替えをされたのであります。
 それで教祖さまは出口の家を継がれることになりましたが、教祖さまより先に、辻村藤兵衛という人の仲立で、岡の堺の四方治兵衛という家の五男の豊助さんという人が、養子として来初めをしたのであります。この方が入り婿して政五郎と改名されたのですが、当時、父は石原村で大工の年期中で、来初めがすむと、もとの親方につとめに帰り、いっとき出口の家は戸閉めとなりました。
 それでは、ご先祖さまに、すまぬというので、教祖さま十八の年に綾部に移られることになりました。
 綾部に来てみれば、親類はあっても、薄情な者ばかりで、教祖さまが若いのと、出口家の様子に暗いのをよいことにして、出口の通帳を持ち出して、勝手にするなど、またお祖母さんに金を貸していたというては田畑を自分の名に登記してしまい、また蔵の中に預けておいた物を返してくれいというて道具をもち運ぶやら、教祖さまの初めての綾部生活は、日々をいやな思いで過ごされねばなりませんでした。
 六カ月ほどは一人で留守をされていましたが、清れんなお気持ちの教祖さまにとって、あまり気持ちの淋しくなる事ばかりが続いて、こらえきれぬので福知山に帰ってしまわれました。
 その晩、福知山で寝まれていると、出口のお祖母さんが、大へん恐い顏をして、夢に出られ──出口の家の屋根に上りて、瓦をめくっては、教祖さまに、ぽん、ぽん、ぽん、と投げつけられる──ので、あまりの恐ろしさに眼がさめてみると、大へんな熱が出ていて、それから四十日も高い熱のまま病床につかれることになり、一時は仮死の状態に入られました。再び気がつかれまして、それからは病気もおいおいとよくなり、全快された二十歳の年に綾部に帰られたのであります。
 お父さんの年期もあき、綾部で結婚生活に入られたのであります。そのころの出口の家は、大正八年ころの出口の家の住居と寸分違わないものであったとのことです。
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