文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名318 おこと姉さんの幼時よみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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私の姉のおこと姉さんも悪役に仕組まれた一人です。
教祖さまの次女として文久二年の六月八日に生まれ、幼名はおみとと言いましたが、これは父の若いころの恋人への温い心から付けられたというのですが、この姉は六ツの時に畑の中の肥つぼに落ち込んだことがあって、その時教祖さまがおことという名に変えられたということです。これは、綾部地方の風習で、ちょうず(便所)にはまった子は名前を変えんと早死にすると言い伝えられているからです。
おこと姉さんは大変恥ずかしいことですが、世間でいうエグイ人で、教祖さまも大変な気苦労をされたようで、親でありながらおこと姉さんからイジメられなさったと言います。おこと姉さんは小さい時から、どこかヒネクレたところがあって、子供らしさ、素直さがなく、他のきょうだいと同じようにお菓子を渡されても、必ず自分のは小さいとか、少ないとか言ってゴテられ、ぐじぐじ言いながらズンズン後ずさりして、縁から落ちるところ迄いかぬともらわないという程の子であったと申されていました。このようにおことさんが教祖さまに、つらく当たったのは父の前の恋人のおみとと言う人の霊がかかっていたのであります。
お父さんが仲人の辻村藤兵衛という理非道な人にだまされて、無理に高い利子で金を借りたため、田や畑をとられた上、とうとう結婚後十七年間住まわれた新宮坪の内の屋敷を人手に渡されてしまい、半年ほどは倉の二階を借りて暮されることになり、そのころおこと姉さんは、よその子の頭に手をかけたり、突きころがしたりするので近所の苦情がたえまなく来て、教祖さまは夜になって、おことさんに添い寝しながら、そのころの俗謡、
──親が貧乏すりゃ子は巾着で如何な人にも下げられる──
と唄いながら「もう、うちの家はよその人に売るほど貧乏しているのやから、近所の人は以前と同じように、お前たちを見てくれぬから、ゴンベエも大ていにしておくれよ」と、言って聞かせられたということです。おこと姉さんは丁度家運の傾いてゆく変わり目に大きくなったので、よけいにひがまれたのかと思います。
教祖さまが新宮の母屋に住んでられたころ、新宮に大火事があって、教祖さまの家と隣の大島の家の二軒だけのこして十八軒も焼けました。その時教祖さまはおこと姉さんに「妙やな、まわり八方やけたのに、うちと大島だけが残ったがなあ」と言われたそうですが、その後程なく、この家を東裏町の味方屋という菓子屋に売って土蔵の二階に移られ、半年後、上町三十番地の借家に移られたと間いています。おこと姉さんは土蔵の二階に移って間もなく、福知山へ子供にやられ、この世の辛酸をなめさせられていました。それから、亀岡から京都街道を東へ一里程いったところにある王子というところの猟師に縁づいてゆかれました。
教祖さまが神がかりになりましたのは、おこと姉さんが王子に落着いた後のことです。
教祖さまは神がかりになりましても、商いには平常のように毎日でかけられました。出かけられる前には神様に、
「今日はどちらへ参りましょうか」
と尋ねられました。そうすると「今日は西原へゆけ」とか「今日は位田にゆけ」とか、また「今日は山家にゆけ」というように神様から一々指図があります。教祖さまはいつでもその都度、神様の申されるままに「はい」と素直にお答えしてでかけられていました。
そうして商売に参られましても、ゆかれた先で他人の家に上がられまして、お床をきれいにされ、神様を祀るように言われるので、みんなはあっ気にとられて、教祖さまを気が狂われたと思いました。教祖さまはそれでも神様の話をされ、これを笑う者に、「村の者、後で悔むなよ」といましめられていたそうです。
そういうふうに商売もできずに家に帰られることが多くなり、暮しがますます行き詰ってくるのが目に見えて来ました。
教祖さまは神様に、
「こんなことをしていては商売にもなりません」
と言われますと、神様は、
「商いぐらい知ったことかい、今日は大きな仕組みができたのであるぞよ。世界の仕組みの雛型が一つ一つ成就してゆくのであるから、なおよ、喜んでくれ」
と申されたのであります。
こういうわけで、おりょうさんは四方源太郎さんという人のところに子守り奉公にやらされましたが、それでも教祖さまの生計はどうにも立ちゆかなくなり、
ある夜、教祖さまは、
「おすみや、いまはお母さんは神様のご用があるので、お前に苦労をかけて、かわいそうなけど、お前はいっとき八木の姉さんのところに行っていておくれいな。お前は末で世界の宝の中に埋もれて暮らすようになる子やでな、これも、どうしてもそれまでにお前のせんならん行やでな。かわいそうなけど元気を出していっていておくれよ」
と、やさしくやさしく申されました。
私は「はい」とこたえました。けれどそうして、また教祖さまのおそばを離れねばならないことを思いまして、どんなにか悲しみました。それから直ぐ教祖さまは一先ず私を八木までやりたいから頼むとひさ子姉さんのところに便りをされ、私は京都行きの常便さん、そのころは上下さんと言うていましたが、その京行きの飛脚をしていた田町の豊助さんと言う人に八木までつれていってもらうことになりました。
前の晩、教祖さまは、とぼしいうちから、いくらかの小豆を買って下され、わたしの旅立ちのために、小豆ご飯を炊いて下さいました。そうして鰯の干物を焼いて膳の上にのせて下され「尾頭つきやでな」と笑いながら祝って下さいました。
次の朝、暗いうちに私は眼が覚めました。そうして上下の豊助さんに手を引いてもらって家を出ました。その時も教祖さまは「おすみや、ご苦労やけど八木にいっておくれよ、このおじさんによう頼んであるでな、八木にいったら、よう姉さんの手伝いして上げてな、可愛いがってもらいなよ」と言われ、上下の豊助さんには「豊助さん、小さい子をすまんけどよろしくたのみます」と、なんべんも言うておられました。
上下の豊助さんは六十に近い小柄に太った丸顔のやさしい爺さんでした。振り分けの荷物を肩にかけて「嬢や、おっさんといっしょやで心配しなさんな」と言うてくれました。
教祖さまが私の四ツ身の着物の尻からげをして下さった時、自分の着物の裾から紅もじのいまきが表われて眼にしみました。お芝居の阿波の巡礼お鶴のように杖を握らせてもらい、そうして片方の手を豊助さんにひいてもろうて家を出ました。それはもう薄ら寒いころでありました。教祖さまの神がかりは明治二十五年の正月ですから、同じ年の秋の暮から冬になるころであったろうと思います。私は藁草履に紅木綿のあとがけをしてもらっておりましたが、その新しい藁草履で紅葉の落葉をふんだ憶えがあります。
私が後をふりかえると、教祖さまはいつまでも、じっと私を見ていて下さいました。そうして町はずれのところまでくるともう私が見えなくなるので、着物のたもとを顔にあてて泣いておられたようでした。後をふり向きふり向き私は教祖さまの泣かれているお姿を見ながら、上下の爺さんの手にひかれてゆくのでした。
「おすみや、つらいやろうが、行やでな」、私にはその言葉の意味が分かったのでしょうか、悲しい思いの中にも教祖さまのお声が耳のそこに、波のように聞こえては消え、消えては聞こえてきました。
「ほんにまだこんな小さい子が」と上下の豊助さんの声に気づいた時は、質山峠近くにさしかかっていました。
質山の妙見さんのところまできますと、妙見さんの滝の辺りから西町のおよね姉さんの大きなわめき声がきこえてきました。アッ、西町の姉さんの声やないかと思っていますと、「三十七才ノ辰ノ年ノ女全快ナサシメタマエ……」と大きな声で叫びながら、姉さんは滝にうたれて願をかけていました。
母に別れ、上下の爺さんにつれられ見知らぬ土地にゆく九つの私は、いままた西町の姉さんの悲しい姿を見ながら、木枯しの風に吹かれているのでした。
時雨のあとの、びしょびしょ路をふみこえて、檜山まで歩き、そこの升屋という宿屋に泊ることになりました。子供心には大きな旅篭であったようにおぼえています。
夜半にふと眼を覚ますと、広い畳の部屋に行燈の灯がともっていて、その灯を見ていると無性に母が思われました。
「カアサンオッテナイ、カアサンオッテナイ」と私はしくしく泣き出しました。
すると豊助さんが、「嬢や、ここに居るでよう、嬢やここにおるでよう」と言うてくれました。そうして「おしっこがしたかったら言いなよ、この豊助さんがついていってやるでのう」と言うてくれました。
私は「はい」と答えて、またふとんの中に顔をかくして寝てしまいました。
次の日、八木の町のかかりにつきますと、ひさ子姉さんが迎いに来てくれていて、ほっとしました。そこで上下の豊助さんにお礼を言うて、ひさ子姉さんは私の手を引いて家につれていってくれました。
八木の福島夫婦の暮しのことは前にも少し書きました。私はひさ子姉さんの初子のお藤という女の子をおんぶして守りをするのが私の仕事でした。私は毎日、お藤を背におい八木の町を歩いてやりました。しかしそのお藤はハヤクサという病気にかかって、にわかに国替えしました。
そのあと、春のころでしたか、牢から出てこられた教祖さまが、伝吉さんをつれて私を見にきて下さいました。私が川で足を洗っていると、教祖さまがみつけられて「かしこかった、かしこかった」と言って私の手をきゅっと強くだきしめて下さいました。
福島の家はそのころ町にありまして、表は車の帳場になっていて、奥に八畳、六畳の二間がありました。
私は久しぶりで、母さんといっしょに寝ておりますと、夜中に教祖さまが大きな声で、八木の姉さんたちを叱られました。
「でぐちすみこを、どう思うとる、このものをやっかいものと思うとるか、やっかいものではござらぬぞ、福島どの、因縁あってお世話がさしてあるぞ」
これには夜中のことでもあり、あまり大きな声でしたので、福島の夫婦もびっくりしたようでした。ひさ子姉さんは「勝手なことを言う神様や」と言うていました。
それからまた教祖さまは、「豆煎りぐらいは、してやって下されよ」と申されました。
これはひさ子姉さんは小さい時から貧乏で苦労したので、金のことばかり頭にあって、毎晩夫婦で金の算用をし、貯金するものと、家で使うものとを分け、家の入用は切り詰める上にも切り詰めていて、お藤の死んだ後、用のなくなった私に、山へ松落葉かきや、雨の日は縄ないをさしていても食べものには始末をしていたことを、言われたのでしょう。
私が寝ている時でしたが、義兄さんが、私のことを「おすみはどんな子になるやろう、しかし飯だけはしっかり食べさしてやれよ、あの子の眼をみとってみい、しつかりした眼をしているでな」と姉さんに言っていることもありました。姉もしっかりした女でしたが一面には情の深い姉でした。
おかしなことですが、稲妻のお光というそのころ有名な女盗賊からお金をもらったことがあります。それは、姉さんのところがひまなので一時、同じ八木の桝屋という宿屋に子守りにいっていた時のことです。夫婦の遍路が市松人形に、そのころ珍しい毛糸のきれいな着物をきせ、それを負って地蔵さんの札を配ってきました。女の方は顔をちりめんの布でかくしていましたが、子供も女連中も珍しいものがきたと言って寄って来ました。私は人形の着物をひっぱってみたりしました。女は「さわってはいけません」と上品な言葉をつこうてはねつけましたが、私に「八木によい宿はないですか」と聞いたので、「桝屋という宿があります」と場所まで教えてやりました。
私は桝屋の子守りしていたので、嬉しがってとんで帰って二階にとめ、「私がお給仕します」といって世話をしてやりました。これがその頃、流行歌にも唄われた稲妻お光夫婦のしのびの姿であったことが後で分かりました。夫の方は金さんといって呼んでいました。奈良漬ないかとお光がいうので「向かいにあります」と言って買って来てやったら、男の方が便所にでていった間に白い財布を出して十銭銀貨をくれました。そしてお光が「あんたは可愛らしいから、あんたにだけ人形をだかしてあげます」と言って市松人形をだかしてくれました。それから四、五日たってからです。一つとやア……といって、今でいえば新聞を売りに来ましたが、その中に、桂のところで警察にはさみ打ちにされて男はつかまったが、お光は川に飛びこんで判らぬようになった。人形には匕首やあい鍵やピストルなど人殺しの道具が入れてあったと書いてありました。
お光が配って来た地蔵さんのお札をはって喜んで拝んでいたのは、八木の姉さんがお藤という子供を失った時で、そのころ八木に教祖さまが来られ「あの地蔵はけがれているから早くめくって流してしまえ」と言われました。
桝屋は、忙しい時だけの一時奉公で、私はひさ子姉さんのところに一たん戻り、それから王子の姉さんのところに行くことになりました。私の一生に忘れることの出来ない経験が待っていることも知らずに。