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文献名1幼ながたり
文献名2幼ながたりよみ(新仮名遣い)
文献名319 王子のくらしよみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
概要
備考
タグ データ凡例 データ最終更新日----
ページ 目次メモ
OBC B124900c21
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本文の文字数5018
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本文  王子というところは、今は亀岡から京都行きのバスが通るので、あのトンネルのある老の坂を越えられた方もあるでしょう。
 老の坂は、ずっと昔は大江の坂と言ったそうで、酒呑童子の住んでいた丹波の大江山はここのことであります。明治のいつごろでしたか新聞に──酒呑童子とはロシアの王子が、酒乱で素行がおさまらぬので、家来をつけて島流しにしたのが、丹後の海岸に漂着し、その一党がいまの王子の老の坂の山にこもって、都に出ては悪業をしたのである──ということが載っていましたが、私もそうでないかと思います。老の坂には今も鬼塚というのが残っていて、霊けんがあるとて、参けいするものがあるそうです。
 私が王子で、えらい目にあいましたのもみな霊の仕業であります。
 王子の義兄さんは猟師と山仕事をしていて、朝出たきり夕方まで帰りませんでした。姉は髪結業で忙しく、家を明けるときは昼間も戸閉めして、私が子供の守りや家事をさせられました。そのころ姉夫婦は三人の子持ちで一ばん下は、平太という三つになったばかりのよく太った丈夫な子供でした。平太をおんぶして守りをすることは、年のゆかない私に難儀な仕事でしたが、平太が泣くとおこと姉さんがどなるので、おぶってあやさねばなりませんでした。その他に王子というところは井戸のないところで、姉のうちからはなれた天神さんのお宮の裏の井戸まで水を汲みにゆくことも私の役目でした。天びん棒で、日に幾回も、かなりある道のりを、休み休み、あえぎあえぎ、桶の水を運びました。雨の日は蓑を着て通いました。夏の日中でも、姉さんは草履をはかせてくれず、タゴに二はいの桶水の重みで足裏の肉に熱い小石が喰いこんできました。
 そういう苦業の日に、わたしは別れの際の母の言葉を幼な子が母の乳房を手探ぐるように、わたしの胸中から聴き出そうとしました。
「おすみや、お前に行をしてもらわんならんでな、つらいやろうが辛棒してきておくれよ」とささやかれた教祖さまの優しい言葉が心の中から聴こえるたびに、わたしは「はい」と心にこたえて、どんなにつらいことも耐え忍びました。
「あゝ、これがこんな小さい子にさすことかいな、おことさんとしたことが。十五、六の子にさすことやが」
「可愛らしいさっばりしたよい子やが、おことさんの妹さんやと言うてやが、腹ちがいの姉妹やろうか」
 村の人びとが、わたしが水桶をになって通るとささやきあっている声がきこえました。
 水汲みがすむと休むまもなく山へ柴刈りに追いやられました。ある時、いつもとちがう山にゆきますと、丁度柴によい枯れ枝が沢山あるのにゆきあいました、それを見たときの私のうれしさ、これを柴にして持ってかえったら、姉さんが喜んでくれるだろうと思ったほど、私は姉をおそれていました。私は大急ぎで枯れ枝を折り歩き、またたくうちによい束ができましたので背おいますと、ころげるように山をかけ下りました。家に帰ると姉さんは長火鉢のそばで煙草をすっていましたが、私は姉さんに今日は思いがけなくよい柴が手早くとれたわけを告げますと、喜んでくれると思うていた姉さんの顔色が急に曇り、
「なんやと、やっかいもんが、これぐらいの柴がとれたと思うてええ気になるな。人の顔を見て笑うたりして」
と手に持っていた煙管で私を打ちたたき、足でけり上げ、息をつぐ間もありませんでした。私は
「姉さんすみません、姉さんすみません」と言うて、泣いてしまいました。私は姉さんに喜んでもらえると思うて帰ってきたので、姉さんの顔を見た時、思わずうれしさにニッコリと笑ったことが、姉さんのカンにさわったものと思われます。
「やっかいもん、やっかいもん」
 姉さんは私の名を言わず、いつでも“やっかいもん”と言うて呼びました。私には体の苦しいことよりも、やっかいもんと呼ばれることが、よりつらく、一そうなさけなく思われるのでした。
 どういうものか、これは霊の仕業でありましょうが、私がにくくてしようがないようで、平太に菓子を買うてきて、わざと私の目の前で食べさすのが姉さんのくせでした。
 平太が庭におちてちょっとけがをしたとき、姉さんが奥から「早う切り繩を持ってこい」と言う声がしたので、私は流しにあったキリナワを手にしましたが、畳の上を持ってあるくので、キリナワの水をしぼって持っていったところ、姉さんから「お前は私を馬鹿にするのか」と言ってどなりつけられました。姉さんはキリナワの水を傷口につけようと思っていたことが分かって、私はあわてて流しに引きかえし、キリナワに水をふくませて姉さんに渡しました。しかし姉さんは初め私がわざと悪気でキリナワの水をしぼったのだと言って、ひどく腹を立てました。
 姉さんは私をなぐる、ける、その上庭土の上につき落としてもあきたらないでいました。その時の悲しみで私は死んでしまおうと思ったのです。その夜、平太をおんぶして外にあやしに出されたとき、平太をどこにおいて死にに行こうかと考えました。そういうことが心におきる都度、私の耳に母の言葉がよみがえってきました。もちろん姉さんは私にご飯もこころよく食べさせてくれませんでした。昔よくあった子供用の赤絵の茶碗で私はご飯を頂いていましたが、二はい以上は頂けないよう、いつも姉さんがそばで意地の悪いことを言いました。おかずは大かたおこうこ三切れにきまっていました。姉さんは平太を添い寝させている時でも、「私がここにいると思うて何ばいも盛っているが、ちゃんと知っとるぞ」と、どなりました。私は姉さんがいないからと言って盗み喰いをするわけではないのですが、こう言われると喉につまってしまうようでした。しかしわたしは力仕事をしてどうにもお腹が空いてたまらない時、義兄さんの作っていた山畑の薯を掘り谷川で洗うて喰べたことがあります。
 夜は藁打ちと、姉さんの肩たたきでした。「やっかいもん肩打てい」と姉さんが言われると私は肩打ちをはじめました。一時間くらいでもうこれでよいと言うことはめったにありませんでした。私は昼間の渡れで、居睡りがでて思わず手がとまりますと「たれがもうええと言うた」と言ってどなりました。そうしてまた姉さんはぐうぐうと睡ってしまいますが、私は手を休めることはできません。そのうち私はまた居睡りがでて姉さんの体にもたれてしまいます。その時いつも姉さんの手がとんできて、私はびっくりして肩打ちをつづけました。
 姉さんが妊娠をしているころでした。夜中によく水をくれと言いました。蚊帳のあるころ、つわりの唾をはくつぼが蚊帳のはしにのっているのも知らず、ひっくりかえして、打ちのめされたこともありました。今でも夢かいな、ほんまやったかいなと思うことは、真夜中に、王子の街道の下の田んぼの向う山に清水の湧いているところがあって、水を汲みに行ったことがあります。夜道のこわかったことはおぼえていますが、どうしてそんなところに水を汲みに行ったのか、ほんまにあったことかと迷うほどですが、やはり今でもその辺りに水の出るところがあるということです。
 そのころ、老の坂にマンポ(トンネル)ができマンポの入口の峠の木屋という茶屋に外国人が二頭引きの馬車に乗ってよく遊ひにきました。店先の赤けっとうを敷いた縁に腰かけ、分からぬ言葉で話しあっていました。昔は老の坂のところから降りて保津川下りをしたのです。今ごろの子供が米国の進駐軍がくると物珍しげに集まるように、私も平太をつれて、峠の茶屋に外国人を見にゆきました。
 そのころ、先生(註─出口聖師)も穴太から荷車をひいて王子を通って京都に通われていたのでした。あるいは私たちはそのころ、王子の街道のどこかで会っていたのかも知れません。
 苦しい王子の暮らしのうち、たった一度夏蚕のころ、教祖さまが亀岡の西町に糸ひきに来られ、私は姉さんの許しをもろうて、母を訪ねました。母は私が訪ねてきたと知ると糸ひきの手をとめて、私の待っている店先にきてくれました。そうして私の頭をなでながら「しんぼうしておくれよ、行がすんだら、よいことになるのやでな」と言ってくれました。そうして「かわいそうに、ひどい髪をしているな、おことは髪ゆいのくせに髮一つゆってやってくれんのか」と無念そうに申され、私の髪をといて教祖さまの頭のくしですいて下さいました。母の手にくしけずられながら、じっとしているとき、私の眼には涙がにじみでてきました。奥の方から繭を煮る香がただようてきました。そうして懐かしい綾部にいるような思いで、母のそばにいられるしばらくをしみじみと思いました。しかし、いつまでもこうしておられない教祖さまは、私の手にお小ずかいをにぎらして下さって「しんぼうしておくれよ……」と言われると、奥の糸くり場にひきかえされました。
 私も王子に帰りました。平太をおぶって外に出ましたが、気になって家に戻ってみますと、家の中に見なれない男の人が立っていました。「おじさんは誰やいな、そこで何してるの」とききますと、その男の人は私の顔をみるなり、ぶるぶるふるえているのです。よく見るとこの人の着物は見おぼえのある義兄さんの着物なので「その着物はうちの義兄さんのやでよう、そんなことをしてくれたらまた姉さんが帰ってきた時に私がひどいことしかられるで、かなわんがよう」と言いますと、男の人はぶるぶるふるえながら「お前は神さんじゃ、お前は神さんじゃ、ゆるしてくれ、ゆるしてくれ」と言いながら私に向かって手をあわし、自分の着てきたものに着替えて居りましたが、風呂敷包みがあったので「それはうちのもんとちがうか、うちのやったら返してくれんと姉さんに叱られて私が困るでよ」と言いますと、その人は「これはワシが持ってきたものや」と言うので、私はそれ以上うたがわずにいますと、その人はぶるぶるふるえる手で、私の掌に銀貨をくれると、家の外に逃げてゆきました。姉さんが帰ってきたとき、そのことを話しますと、カンカンに怒って、私をたたきつけました。その風呂敷包みの中に姉さんのものが混っていたそうです。「このド阿呆が、役に立たん」と言って、また私を撲つ、けるのむごい目にあわせました。私は「姉さんかんにんして」とあやまりましたが、その時の姉さんのけんまくは私を殺す気やないかと思うほどに激しいものでしたが、幸い近所の人がとんできてくれ、
「そうかておことさん、おすみさんがいてくれたらこそ、あれだけですんだのや、おすみさんがいなかったら、ありぎり盗られたのやが、そんな酷いことして、あべこべにおすみさんに礼を言わんならんところやないかいな、ほんまにこんなしっかりしたええ子をひどい目にあわして」とこんこんと姉さんに言ってくれたので、姉さんも近所の人の手前もあり、しずまってくれました。
 その後、姉さんは私に前ほどにも食べさしてくれず、私は髪は赤ちゃけ、体はほそってしまいましたが、八木の福島の義兄さんが人力車に客をのせてゆく途中、王子で私の姿をみてびっくりし、八木に帰ると早速に迎えにきてくれました。それからしばらく八木に居て、私は綾部の教祖さまのところに帰ることになりましたが、王子での私の修行はほんとうは筆や口に言われんものです。
 八木にいる頃、おこと姉の大切な平太が不思議な病気にかかりて死んだという知らせが来ました。平太がいよいよ息をひきとると言うとき、夜中でしたが、王子の山の峰々から大きな笑い声がおこり、村の人々の耳にも聞こえました。みんなが「いまのは何じゃろう」と言うたそうです。綾部に帰ったとき教祖さまはそれをご存知で、「夜中に不思議な声がしたろうが、あれは金神が笑うたのや、あまりムゴイことをするから、神のいましめにおうたのや」と言われました。
 大本が盛んになり出した大正の初めころ、おこと姉さんには綾部で会いましたが、むかしのくせはなかなか治らないようでした。しかし王子で私にした数々のことは、けろりともの忘れをしたようになっていました。
 子供のころに私がうけました苦労は、善と悪との戦いでもあり、大きな型をさせられていたのであります。子供のころにした型は、大きくなってもう一度私に大きくあらわれているように思えます。また小さい時の苦労を通してこの世の型をさせられ、未来を教えられていたのであるとも考えています。
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