文献名1幼ながたり
文献名2獄中記よみ(新仮名遣い)
文献名3一ぱいの水よみ(新仮名遣い)
著者出口澄子
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京都の五条署に留置されていた私の記憶は、百日ばかりでありますが、約百日目、大本事件の記録では、八月の七日のことです。
小川警部がとつぜん私に「こちらへ来い」といいに来ました。ここで大本事件についてよく知らない人のために言うておきますが、私達は日本人としては最も重い罪人として取扱われていたのであります。もちろん私はすべて身におぼえのないことで、なんで自分がこんな目に遭うて、引っぱられているのか、その理由が分からんので、警察官が手荒いことをし、また汚ない言葉を口にしても、腹は立ちましたが、さほどに苦痛を感じておりませんでした。
大本の弾圧はこれで二度目でありましたが、第一次の時は先生だけが警察に引致されなさったので、私はこんどが初めてで、警察のことはさっばり様子が分かりません。留置場の中で、人間の考えることは毎日同じようなことです。
──どうして、こんなところに引っぱられてきたのやろう、役員はどうしているのやろう──信者がこまっているやろう──と思ったり、家族のこと──と、くり返しくり返し、そんなことを来る日も来る日も、考えていたのであります。
小川警部が私に「こちらへ来い」といった時、もう一人が、そばから「荷物をみんなまとめて持って来い」と私にいいつけました。
私はそれを聞いた時、
──やれ、やれ──という感じがして同時に、あゝこれで久しぶりに家族とも会えるかと思って、ほのぼのとした歓びがこみ上げてきました。
私は──心も軽く──と唄にあるような、はずんだ気持ちで、いそいそと荷物をまとめると小川警部の室に行きました。
ところが誰も迎えに来ているような者もなく、署内の様子が少し変です。
そのうち警官の一人が、
「これから裁判所の監房に護送するから急げ」というので、私はがっかりしてしまいました。さきほどからの喜びは泡のように消えてゆきそうでした。すると急に喉が渇きを訴えてきました。実はもう少し前からおこっていたのですが、こうなるとガマンができんようになって来て、すぐに側にいた警官の一人に、
「さきほどから喉がかわいて困っていますのじゃ、すみませんがな、水を一ぱいおくれ」といいました。警官は素直に、
「よしよし」といって、出てゆきました。私は監房に居ても、自分の家に居るのと同じ気持ちでおりますので、至極気楽にふるまっておりました。やがてコップに一ぱいの水を汲んできてくれましたが、
「これが末期の水だぞ」
といって警察官特有の眼光をキラッと動かしながら渡してくれました。私は、水のいっぱいはいったコップを手に受取って、ごくごくとお水を一いきに頂きましたが、飲み干して空のコップを机の上に置くわずかの時間に、私の心には非常に複雑な感情が往来したのであります。
待てよ、いまのコトバは何のことをいうてるのや。短いコトバやったが、トゲのある嫌な気がする──末期の水──とは死期の迫った人に水を飲ますことしかない。そう思っていると、これまで忘れていたコトバが強く胸に甦ってきました。それは、初めて警察官に拘引されて、五条署にきた時にいわれた、狂気じみた言葉であります。
──オ前タチノ一族ハ死刑ハマヌガレンカラ、ソウ思ッテ、ココニ入ッテ居レ。ジタバタシテモ死刑ハ間違イナインダゾ──、私は
──自分は多少なりとも世の中のためにつくして来てこそはおれ、警察のやっかいになる覚えは爪かけもないわい。何を阿呆なことをいうのや、取り違いもあまりではないか──と思いながら、聞き流してしまい、
──よく調べてくれればわかりますわい──と、それからは、本当に自分でもけろりと忘れていた言葉が頭に浮かび上がってきました。
ああそうか、そういう理のこれが末期の水か、それでは自分はこれから、死刑になりにゆくのか。
そう思うと、私は不思議にまた元気づいてきました。私はこれまで、こんなところに入れられるようなことをしたことはない。これまで調べてまだ分からず、いつまでもこんなところに入れられているよりはその方がよいかも知れん。それでは、これから死刑になりに行って来ようか。死刑にされる時は、大きな声で「万才」と唱えてニコニコと笑いながら、極刑を甘んじて受けてみよう。死刑にするならそれでもよい。わしは死んだら天国で神様が待ってられる身だし。
そう思って私は護送車に乗ったのであります。後に七カ年ぶりに保釈になって家に帰った時、丁度その時の写真が新聞に掲載されているのを新聞切取帳で見ましたが、いつの間に撮ったのか、私の顔がニコニコと笑って写っています。その切抜きの写真を見ながら死刑に行くのにニコニコ笑って行くとは、自分ながらオカシなことに思いました。