文献名1出廬
文献名2〔二〕心の岩戸開きよみ(新仮名遣い)
文献名3(七)よみ(新仮名遣い)
著者浅野和三郎
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データ最終更新日2025-01-24 22:22:00
ページ76
目次メモ
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この三四時間の対座中、自分に述べられた教祖の言葉の中で、今も尚ほ耳底に残つて居るのが一つ二つある。
『艮の金神様といふ神さんは、ホンマに恐いお方の又ドエライ優さしいお方どす。何にせ、仏法で閻魔様と仰しやられた御方どすさかい、一寸も油断はなりませぬが、曲つたことさへせねば、お縋りする者を、何所までも守つてお呉れなさる』又た、
『あんたは、御自分一人で綾部へお出でなされたつもりぢやろが、みんな神さんからのお指図で、引き寄せられたのどす。一旦綱を掛けたら離さぬと、この神さんは仰しやられるでナ』
自分の頭脳は教祖の言葉に対してまだ多少の疑問を挿んだ。が、自分の感情は教祖の人格に対して飽までも敬服の意を表した。其後に至りても自分の小理性はチヨイチヨイ首を擡げて生意気な抗議を申立てたが、引続いて与へられた実証体験の前には、次第々々に角を折つて、終ひには理性感情共に融合一致して働くやうになつて了つた。それには恐らく一年位の日子がかかつたらうと思ふ。今日各種の各方面の人々が、さも賢しげに、自己一人が気がついたかの様に、有触た理窟を並べられるのを見る毎に、数年前の自分を回顧していつも微笑を禁することが出来ぬ。欲気と徽気とは人間の通有性か知らぬが、同時に又己惚もドウやらさうであるらしい。些し知識でもあると、忽ちそれを鼻にかけたがる。何といふ浅墓なものだらう。考へて見ればこの世界に人間の知識で解決の出来るものが若干あらう。人間は寸時も筌気を吸はねば生きて居れぬが、その空気は何うして誰が造るのだ。一日でも太陽の光熱に浴せねば大に困るが、その太陽も何時頃出来あがつた。加工と創造とは全然別物だ。人間に少しばかり出来るのは下手な加工に過ぎぬ。人間には粟一粒でも、水一滴でも、下駄の裏の泥一塊でも造れはせぬ。要するに人間は天地間の主人公ではなく、其寄生者だ。蛔虫が人体の寄生者であるといふのと大差はない。従つて蛔虫に人体の妙機が判らぬと同じく、人間に宇宙の神秘が判らぬのは当り然だ。人間中の最も悧巧ぶり、博識ぶる哲学者などといふ者が、種々頭脳を捻つて、何遍出直して考へて見ても、結局迷宮の中を徨ひ、暗黒の裡を索ると同じく、ただの一度も正しい帰着点に達し得たことはない。この二千年来の哲学書類の全部を焼棄てた所でそれを受売して飯を食ふ人間より外に、世界の人類は多大の痛痒を感じぬ。何となれば正しき答への出ない、ただ煩はしい人生の運算に過ぎぬからだ。幸人間界にも、慢心の奴隷とならず、人智の劣弱なるをさとりて、飽まで恭謙の態度を執り、大自然の前に平伏拝跪した人々も少しはあつた。神は此等の人々の真心を愛で給ひて、此等の人の手を借り、口を借りて天地万有、造化自然の秘奥の一部を漏された。それが日本では古事記であり、大本神諭であり、又外国では、易経であり、老子であり、バイブルであり、仏典であるのだ。余程娑婆気を離れた詩人の作品にもやや之に近いのがあるが、その数は極めて尠い。此等に比ぶれば哲学書類、殊に近代の哲学書類などと来ると人間臭く、娑婆臭く、面倒臭く、シヤラ臭く、鼻持のならぬシロモノが大部を占める。天地を創造された祖師達の御眼から御覧になられたら、いかに片腹痛く、莫迦莫迦しく、児戯に均しいものであるであらう。理窟はヌキにして大本教祖に接した後の自分が、まへの自分と余程違つて来たのは事実である。
やがて自分は遑を告げて座を立たうとすると、教祖はしばしと自分を呼びとめ、立て鋏をさがして来た。そしてブツリと百本ばかり銀髪を切り、丁寧に白紙に包んで、何やら書いて渡された。
『これはわたしの毛どすが、艮の金神様の片身のつもりでナ……』
自分は戴きながら上書を見ると例の神諭流の平仮名で、
『へんじやうなんしのいきげであるぞよ』
と認められてあつた。
昼飯後自分は澄子刀自に案内されて又神苑内を一とめぐり。それから上の高台を一遍回つた。崖の上の展望のよい空地に出た時は『この辺に家でも建てて住んで見ようかしら』などと半ば戯談のやうに言つたりした。その時分から自分の内性は、綾部の住ひを幾分意識して居たものと思はれる。
やがて二時過ぎの汽車で綾部を出発し、薄暮の頃京都に着いた。また急行には二三時間の余裕があるので、荷物を停車場に預けて四条辺迄散歩した。綾部に居つた間は、心身ともに可なり浄化されたつもりであつたが、都に出ると忽ち撚が戻つて来た。何は扨おき、漬物と鯣と冷飯とに痛められた腹の虫が不服を訴へて仕様がない。少しばかり聴き囓つた衛生思想が之に共鳴して『あんな食物では営養不良に陥る』とケシかける。自分はたうとう鴨川辺の西洋料理店に飛びこんで、好物のシチユーやら牡蠣のフライやら数品注文して、一本の麦洒を平げた。その時の自分は、夢にも一箇月後には、牛肉も豚肉も咽喉に通らぬ人間に変化して了はうとは想像し得なかつた。