文献名1出廬
文献名2〔二〕心の岩戸開きよみ(新仮名遣い)
文献名3(十五)よみ(新仮名遣い)
著者浅野和三郎
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データ最終更新日2025-01-24 22:22:00
ページ110
目次メモ
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其晩も引続いて奇蹟が起つた。走水から自分達が戻つたのは、薄暮の頃であつたが、今晩も鎮魂希望者が詰めかけて来る約束なので、大急ぎで晩餮を済ませて離れの書斎に集まつた。
八時頃には既に鎮魂が始められて居た。自分が矢張り審神者で、村野氏が補助役、神主は四五人もあつたらう。宮沢氏は余り騒々しいといふので、他の人々から忌避されて、後回しにされた。審神者さん、今晩は神授の石笛を御持参であつたが、吹き方を知らぬので矢張り村野さんに代つて、吹いて貰つたのは是非もなき次第であつた。
坐つた神主の中で、間もなくその状態が著しく目立つて変つて来たのは妻であつた。宮沢氏のやうに猛烈ではないが、しかし何処ともなく霊化して来て、事によるとこの方が、或は真実の鎮魂状態といふものではないかとも思はれた。十分間許り過ぎた時には、全身はフワフワとさながら雲の上に浮べるやう、羽化登仙といつた趣があらはれた。そして間断なくこみあげる唾を飲み込む様子は、宮沢氏の言葉が切れ出した時に彷彿として居た。
『こりや矢張喋るのだナ』
と不熟練ながら自分の眼にも大概見当がつく。烱眼の村野氏がそのままにして置く筈はない。直に妻の前に膝を進めて、
『どうぞ神様の御名が伺ひたう厶います。どなた様ですか。さアどうぞお早くお早く』
『…………』
『さアどうぞお早く願ひます。因縁ありて今回は、不束の自分も審神者の席に坐らして戴きましたやうな仕合せ、何卒神様にも御腹蔵なく御名乗りくださいますやう。さアどうぞお早く……』
のつぴきならぬと言つた調子に、村野氏は例の爽かな、やさしい美音でしきりに促す。たうとう妻の唇はかすかに動き始めた。
『小……小……』と、これは宮沢氏の大音声とは正反対に、やつと聞き取れるか、取れないかの微音である。
『小と仰しやるのは判りましたがそのお次ぎは?』
『小……ざ……く……ら……ひ……め……』とやつとの事で文句が繋がる。
『小桜姫と仰しやるか、よく判りました。有難う存じます。あの今日の石笛をお授けなさいましたお方さまで……』
小桜姫の一語に、村野氏をはじめ出口先生も、自分も、一座の人々も、覚えず眼を見張つたのであつた。何の因縁で、今日小桜姫の霊魂が石笛を自分に授けたのかは、解き難き疑問であつたが、さては小桜姫とは妻の守護神であつたのか。
今日自分達は日の暮れ暮れに走水から帰り、それから大急ぎで湯に入つたり、飯を食べたり、まだ妻の耳には石笛の話は入れて居なかつたのである。それが突然鎮魂中に小桜と名乗り出したのであるから、何等暗示の痕跡もありやうはない。この活きた事実を眼前に見せつけられては、自分をはじめ一座の人々、何れも皆真面目に考へ込まざるを得なかつた。
鎮魂を終つてから、妻に言葉を切つた時の気分を尋ねると、小桜姫といふ文句が音声を為して口に出るまでには、腹部の中で、何回も『小桜々々』と低く繰り返されるのが聞えたといふことであつた。
『人間の身体は神の容器であつて、そして神は臍下丹田に宿るといふ大本の説は矢張り正しいやうだ』と自分は今更ながら痛切に感ぜぬ訳には行かなくなつた。
『奥さん、あなたは小桜姫といふのは什麼御方か御存じですか』と村野氏がきく。
『いいえ私些しも存じません。そんな名前の人があるのでせうか。何かよい加減な名前ではないでせうか』と今日の昼の話を知らぬ妻は極めて呑気なことをいふ。
一座はしばらく走水神社の話と小桜姫とで賑つた。しかし自分は独りつくづく因縁の奇びなるを考へて、深き思ひに沈んだ。自分は最初極めて無雑作な考へでこの横須賀に来た。それがたうとう十有七年の歳月を爰で送り、三浦半島と自分とは、切つても切れぬ深き関孫を生じて了つた。又海軍士官を父とせる妻は、この横須賀の地で生れ、其少女時代の幾年かを横須賀に送り、そして自分に嫁して更に十七年の歳月を送つた。自分にも増してこれは三浦半島との因縁が深い。この肉体に小桜姫の霊魂が守護して居るといふのは、前世いかなる宿縁があるのであらう。小桜姫の物語は半ば伝奇的色彩を帯び、詳しい事は分らぬが、生れは武州の金沢、それが縁ありて三浦小網代の城主荒次郎義意に嫁し、そして良夫の戦死後二十幾歳のまだうら若き身を以て没したらしい。今でも三浦三崎の在所には小桜神社といふのがあつて、里人の参拝は絶えぬやうだ。幽界の秘事は容易に探り難いには相違ないが、何時かは其因縁関係の判る時も来るであらう。自分一家と三浦半島、どうも尋常事ではなささうだ。
過去と現在、事実と空想とがとりとめもなく自分の胸の中に搦み合つた。